2017年12月

小室直樹氏は『三島由紀夫と天皇』(天山文庫)で次のように述べます。
「『暁の寺』のこの個所は、敬遠されて読まれないことが多い。しかし、唯識哲学の理解なしに三島を理解することは不可能である」  
「仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。『倶舎論』を理解するのには三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりとかかるというのだ。それが僅か三島由紀夫の作品では十二頁にまとめられている。エッセンスは、ここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある」
小室氏のいう「この個所」「十二頁」は新潮文庫の『豊饒の海』第三巻『暁の寺』十八と十九のことです。ここで三島は『鏡子の家』で山形夏雄が見つめた「一茎の水仙」を持ち出して説明します。
「目で見、あるいは手で触れて、そこに一茎の水仙の花があるとすれば、少くとも現在の一刹那に、水仙の花、およびこれをめぐる世界は実有である。
それは確かめられた。
では、眠っているあいだ、人はたとえ枕もとの花瓶にこれを活けても、夜もすがらの一刹那一刹那に、水仙の花の存在を確証しつづけることができるであろうか」
そして三島は、眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の作用が途絶え、第七識たる末那識(マナ識、個人的自我のすべてを含む)が世界を気ままに取り扱っても、水仙の花の存在を一瞬一瞬、不断に保証する識がなくてはならぬ、それが阿頼耶識(アーラヤ識、存在世界のあらゆる種子を含む)、北極星のような究極の識だとします。
「なぜなら、迷界としての世界が存在することによって、はじめて悟りへの機縁が齎らされるからである。
世界が存在しなければならぬ、ということは、かくて、究極の道徳的要請であったのだ」
最新の天文学では、宇宙は138億年前にビッグバンで誕生したということのようですが、なぜ宇宙が存在するかと考えると、自然科学で答えが見つかるとは思えません。三島は一つの答えを出しました。
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よいお年を。

2017年11月3日の本ブログで三島由紀夫の『英霊の聲』(1966年)を取り上げたとき、デイヴィッド・リンゼイの『アルクトゥールスへの旅』(1920年)との類似を指摘しましたが、もう一度詳しく書きます。
『アルクトゥールスへの旅』の第一章ではロンドンのハムステッドで降霊術の会が開かれ、霊媒のバックハウスなる人物が若者の霊を実体化させます。主人公のマスカルは友人ナイトスポーと共にこの会に参加し、若者に質問を試みますが、若者は魅惑的な謎の微笑みを見せるばかり。そこへ招待されていないクラッグなる謎の人物が乱入し、若者の首をへし折ってしまいます。若者の顔は下品で卑しい薄笑いに変わり、やがて霊は消え去りました。
この後、マスカルとナイトスポーはスコットランド海岸の天文台から、クラッグの操縦する宇宙船で牛飼い座の1等星アルクトゥールスの惑星トーマンスに向かい、マスカルは一人でその星の沙漠に放り出されてさまざまな体験をします。その中には殺人も含まれ、自分が殺した男の顔が下品な薄笑いに変わるのを見て、マスカルは降霊術の会を思い出しました。最後に明らかになるのは、この世界は快楽の神クリスタルマンが創造した偽りの世界であり、あの薄笑いはクリスタルマンの顔だということでした。真実の苦痛の神は北欧神話に出てくるサーターとされています。
『アルクトゥールスへの旅』は全く売れず、リンゼイは不遇のうちに1945年に67歳で亡くなりました。リンゼイを再評価し、絶賛したのが『アウトサイダー』『オカルト』『スペース・ヴァンパイアー』などで知られる小説家・評論家のコリン・ウィルソンで、1965年の評論"Eagle and Earwig"(直訳は『鷲とハサミムシ』、邦訳は中村保男・中村正明、1976年『新時代の文学』(上)『文学の可能性』(下、こちらに記述)、福村出版)、1970年の"The Strange Genius of David Lindsay" (邦訳は同、1981年『不思議な天才デイヴィッド・リンゼイ』(『憑かれた女』所収、サンリオSF文庫))でした。
三島由紀夫は1966年に『英霊の聲』を書きましたが、果たして前年のウィルソンの論文を読んで『アルクトゥールスへの旅』を知っていたのでしょうか。帰神の会で霊媒が死に、顔が昭和天皇になるというのは、降霊術の会で呼ばれた霊が「死んで」偽りの神の顔になるのとよく似ています。単なる偶然でしょうか。
また『アルクトゥールスへの旅』第一章には、バックハウスが呼んだ若者の霊について、次のような文章もあります。
「この人間らしきものは死んでいたが、なぜか、それは生のあとに続く死というより、生の前段階としての死であるようだった」(中村保男・中村正明訳、文遊社、2014年)
リンゼイは輪廻転生を暗示しているようです。
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2017年12月28日追加
これは私の見当違いかもしれません。『英霊の聲』での川崎青年の変貌は神憑りに伴う必然とも見られ、最後の昭和天皇だけではないからです。
「すでにその顔は顔変りがして・・戦いに臨んだ若い兵士のような面ざしが如実にあらわれていた」(二)
「さきほどの神霊とは明らかにちがう、しかし同じく凛々しい、圭角のある、男らしい顔に変貌した」(五)
『アルクトゥールスへの旅』では死人が全て同じクリスタルマンのにたにた笑いになるので、全く違うかもしれませんね。
ただ、最後の変貌は何なのか・・昭和天皇の生き霊が乗り移ったとも考えにくく「裏切られた霊たち」の仕業なのでしょうか。

2018年1月2日追加
この作品は荒俣宏も翻訳しています(『世界幻想文学大系28 アルクトゥルスへの旅』上下、1980年、国書刊行会)が、その解説で重要な指摘をしました。
「リンゼイは物語の最後に至って、マスカルとナイトスポア、クリスタルマン(「サーター」の誤りであろう。引用者註)とクラーグなど奇妙に対立し合う人々を同一人物だと暴露することで全展開を決済しようと考えたわけではない。それどころか、実際はそういう〈決済〉を付け加えることによって、探(一字空白あり。恐らく「探求」。引用者註)を振り出しに戻してしまったのである」
これは『豊饒の海』と同じで、三島由紀夫がよく用いる手法です。やはり三島とリンゼイは似ています。

前々回は『英霊の聲』と『春の雪』に注目しましたが、1959年の三島由紀夫の長編『鏡子の家』でも大本教との関係を探ることが出来ます。
主人公の一人、画家の山形夏雄はある夏の日、眺めていた富士の樹海が消え失せてゆく不思議な体験をし、絵が描けなくなりました。そこに救いの手を差し伸べたのが女性のような名前を持つ男性の霊能者、中橋房江です。夏雄が会いに行くと、房江は夏雄の一本一本の指をとって窓の光のほうへかざし、こう言いました。
「結縁(けちえん)ある者は両手の紋理に徴あり、というのは全く本当だ」
三島はこの言葉の出典を記していませんが、私が調べたところ、これは江戸時代の嘉永・安政年間(1850年代)に書かれた『幽界物語』(神界物語、仙界物語とも)の第一巻に現れる言葉だと分かりました。これは若い町医者の嶋田幸安が語った「幽界体験」を紀州藩士の参澤宗哲が記した書物で、参澤の師匠の平田鐵胤が怒って焚書してしまいましたが、大正7年(1918年)に友清歓真が大本教の機関誌『神霊界』に紹介して再び世に出たものです。下のリンクフリーのサイトで読むことが出来ます。


出口王仁三郎の『霊界物語』は、この『幽界物語』を意識して名付けられたことは間違いないと思われます。
夏雄は房江の指示に従って多摩川で「鎮魂玉」を探し、帰宅するとその前に正座して印を結びます。房江が教えた印は密教の水天の印に似た手の組み方で「帰神(かむがかり)」の時にも用いられるものでした。
こうして神秘の世界に入った夏雄でしたが、翌年の早春のある朝、枕のそばに横たえられていた一茎の水仙の花を見ているうちに、また不思議な体験をしました。後に夏雄は鏡子にその体験を語りました。
「・・僕は君に哲学を語っているのでもなければ、譬え話を語っているのでもない。世間の人は、現実とは卓上電話だの電光ニュースだの月給袋だの、さもなければ目にも見えない遠い国々で展開されている民族運動だの、政界の角逐だの、そういうものばかりから成立っていると考えがちだ。しかし画家の僕はその朝から、新調の現実を創り出し、いわば現実を再編成したのだ。われわれの住むこの世界の現実を、大本のところで支配しているのは、他でもないこの一茎の水仙なのだ」
ここに「大本」という言葉が現れました。『春の雪』や檄文では「国の大本」「日本の大本」でしたが、『鏡子の家』では「世界の現実の大本」でした。
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2017年12月25日追加
上記「両手の紋理に徴あり」を調べると、リンク先に次のような文章があります。
私人間に生れ候へども、元より仙境に機縁有て師弟の契有る事手裡の如しとて左右の掌を見せ候に(図は略す)図の如く中指と無名指を囲みたる筋あり。将指は師匠、無名指は弟子なりと申より、私第一神幽の其実を篤志の人に伝へて現界に弘めしめ、諸人を諭し導かしめ、幽顕両界の栄を願ふなり。
将指は手の中指、無名指は薬指のことで、黒子ではないが手相に特徴があったということのようです。これは王仁三郎の「掌中に現はれたるキリストが十字架上に於ける釘の聖痕」を思わせます。

松本健一『三島由紀夫のニ・ニ六事件』第四章「北一輝と昭和天皇」によると、事件を起こした陸軍将校の一人・磯部浅一(あさいち。事件時は免官で民間人だった)は『獄中日記』昭和11年(1936年)8月28日の項にこう記しています。
「陛下が私共の挙を御きゝ遊ばして、「日本もロシヤの様になりましたね」と言ふことを側近に言はれたとのことを耳にして、私は数日間気が狂ひました。・・今の私は怒髪天をつくの怒りにもえてゐます。・・天皇陛下 何と言ふ御失政でありますか。何と言ふザマです、皇祖皇宗に御あやまりなされませ」
これは『英霊の聲』にも通じる怨嗟の声です。ただ私が不思議に思うのは、磯部が北一輝に絶大な信頼を寄せていることです。再び松本氏の著書より『獄中日記』同年8月21日の項から引用します。
「日本改造法案大綱は絶対の真理だ、一点一角の毀却を許さぬ。今回死したる同志中でも、改造法案に対する理解の不徹底なる者が多かった。・・法案は我が革命党のコーランだ、剣だけあつてコーランのないマホメツトはあなどるべしだ。・・特に日本が明治以後近代的民主国なることを主張して、一切の敵類を滅亡させよ」
ここにはハッキリと「革命」「民主」という言葉が使われています。(「コーラン」もちょっと驚きます)三島は北一輝の著書に「何か悪魔的な傲りの匂い」(『奔馬』十八)を嗅ぎ取っていたはずですが、磯部の思想に違和感は無かったのでしょうか。
松本氏によると、三島は「『道義的革命』の論理」という論文で磯部のことを「人間劇の見地から見るときに、もつとも個性が強烈で、近代小説の激烈な主人公ともなりうる人物」と呼び、こう述べました。
「磯部の遺稿の思想は、本質的にその道義革命的性格を貫通しつつ、最後に何ものかを「待つてゐる」ところに特色がある。彼は決して自刃を肯んじなかった。しかし、そのやうにして「待つこと」の論理的必然は、正に自刃の思想と紙一重のところにあることを、つひに意識しなかつたやうに見えるのである」
思うに、三島の思想は北一輝と紙一重であり、彼が北一輝を嫌ったのは北が思想家であって行動家でなかったからではないか・・
昭和12年(1937年)8月19日、北一輝、磯部浅一は他の2名(西田税(みつぎ)、村中孝次(たかじ))とともに刑死しました。西田が「われわれも天皇陛下万歳を三唱しましょうか」と言うと、北が「いや、私はやめておきましょう」と言い、誰も万歳を唱えませんでした。(松本氏の同書序章「昭和史への大いなる影」による)
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松本健一氏は『三島由紀夫のニ・ニ六事件』第三章「大本教の幻の影」で次のように記しています。
「本章で大本教=出口王仁三郎のことについてやや細かくこだわっている理由は、何か。それは、出口王仁三郎と三島由紀夫とのあいだには、友清歓真(ともきよよしさね)の帰神法が介在しているばかりでなく、もう一つ、奇妙な接点があるからだ。有栖川宮熾仁親王の血統という伝説が、これである」
私は前回、有栖川宮の伝説について触れました。補足すると、三島は長男を「威一郎」と命名するほど威仁親王の「威」が気に入っていたようです。松本氏はこの章で『豊饒の海』第一巻『春の雪』について詳しく解説されていますが、そこに威仁親王の死が書かれていることには言及されていません。
友清歓真は大本教の信者でしたが、後に離れて新宗教「神道天行居」を創設し、大正10年(1921年)に「霊学筌蹄」を著しました。この著書が三島由紀夫の『英霊の聲』に参考文献として挙げられています。三島は明らかに大本教と接点がありました。最後の演説と檄文にも「大本」の語が現れ、『春の雪』三十八には松枝清顕が「国の大本がゆらぐような出来事が起ればいいのだ」と発言する場面があります。
松本氏のこの本には書かれていませんが、私が前回書いたように「オリオン座の黒子」も注目されます。『春の雪』五では清顕の黒子が次のように描写されています。
「わけても、月が丁度深くさし入っているその左の脇腹のあたりは、胸の鼓動をつたえる肉の隠微な動きが、そこのまばゆいほどの肌の白さを際立たせている。そこに目立たぬ小さな黒子がある。しかもきわめて小さな三つの黒子が、あたかも唐鋤星のように、月を浴びて、影を失っているのである」
唐鋤星(からすきぼし)はオリオン座の和名です。
一方、出口王仁三郎の『霊界物語』特別編『入蒙記』第九章「司令公館」には次のような記述があります。王仁三郎は大正13年(1924年)宗教国家の建設を目指し、植芝盛平(合気道の開祖)らを率いて満州・内蒙古を旅しました。現地では「源日出雄」と名乗り、馬賊の盧占魁と出会いました。
「盧占魁は更に日出雄の掌中に現はれたるキリストが十字架上に於ける釘の聖痕や、背に印せるオリオン星座の形をなせる黒子等を見て非常に驚喜した」
「オリオン星座の形」とあるので、三つ星だけでなく、2個の1等星ベテルギウスとリゲルを含む四辺形が囲んでいたのかもしれません。ご教示頂けると嬉しいです。
王仁三郎と盛平たちはこの後、張作霖の部下に捕まり、盧占魁は殺されてしまいましたが、危ういところで助かって帰国しました。同じ年、外蒙古ではロシア革命の影響を受け、モンゴル人民共和国が成立しました。王仁三郎たちの行動は後の満州国につながったとも見られます。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

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