2017年12月

清顕「有栖川の宮様の国葬には、貴様のファーザーも出るんだろ」
本多「ああ、そうらしい」
清顕「うまい時にお薨れになって下さった。きのうきいたところでは、おかげでどうやら、洞院宮家の納采の儀はのびのびになりそうなんだ」

『豊饒の海』第一巻『春の雪』三十二、鎌倉の海で松枝清顕と本多繁邦が交わす会話です。このとき清顕は日本に留学中のシャム(タイ)の二人の王子を鎌倉の別荘に招いて学習院の夏休みを楽しみながら、親友・本多の助けを借りて綾倉聡子と禁断の恋を続けていました。会話中の「納采の儀」は聡子と婚約した洞院宮治典王との、一般で言う結納のことです。
冒頭の「有栖川の宮様」を私は調べもせず、有名な熾仁(たるひと)親王のことだと思い込んでいました。もちろん将軍徳川家茂に嫁いだ和宮(孝明天皇の妹)の婚約者で明治新政府の総裁・東征大総督の熾仁親王です。ところが調べてみると、熾仁親王は明治28年(1895年)に数え61歳で薨去しており、大正2年(1913年)に亡くなったのは異母弟の威仁(たけひと)親王と分かりました。弟と言っても27も若く、親子ほど年が離れています。しかも三島由紀夫の祖母・平岡なつ(永井夏子)は祖父・定太郎と結婚する前、5年間も有栖川宮家に行儀見習いとして仕えていました。
三島の本名「公威」は、定太郎が同郷の恩人で土木工学者の古市公威から名前をもらったものです。由来はそうであっても、「公威」という名前を知った夏子は直ちに威仁親王を思い出し、孫に重ねたことは容易に想像出来ます。松本健一氏によると、三島の父・平岡梓は定太郎でなく威仁親王の子だったという説もあるとのこと。夏子は明治26年11月27日に結婚し、翌年10月12日に梓を産んでいます。どうにか問題ないようですが・・
面白いことに新宗教「大本」の二大教祖の一人、出口王仁三郎は戸籍上は京都府の農家・上田家の出ですが、後の本人の発言によると、実は有栖川宮熾仁親王のご落胤なのだとか・・そう言えば、昭和45年11月25日の三島の最後の演説には「日本の大本を正す」という言葉が入っています。また、『豊饒の海』で「転生のしるし」となるのは左の脇腹の三つの黒子ですが、王仁三郎も背中にオリオン座の三つ星のような黒子があったと言います。三島は大本教と関係していたのか、気になるところです。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

2017年12月15日 一部、加筆・修正しました。

『豊饒の海』第一巻『春の雪』は日露戦争の話から始まります(日露戦役と書かれていますが)。松枝清顕が好きな写真として「得利寺附近の戦死者の弔祭」が解説されます。清顕と本多繁邦はその後もこの写真をしばしば思い出しました。この戦争では清顕の二人の叔父が戦死し(これは、乃木希典の二人の息子の戦死から三島由紀夫が設定したかもしれません)、祖母は遺族扶助料を使わず神棚に上げっぱなしにしていました。
第二巻『奔馬』の冒頭では昭和7年(1932年)、判事になった本多の暮らしぶりに続いて五・一五事件がごく簡単に触れられます。なぜ犬養首相は海軍将校たちに殺されたのでしょうか。
この間に東アジアは激変していました。大韓帝国は1910年に日本に併合されて植民地「朝鮮」となり、1911年の辛亥革命(辛は十干の8番目、亥は十二支の12番目。十干十二支は最小公倍数の60年で一周し、辛亥は48番目。1番目は「甲子」で、甲子の1924年に完成したのが甲子園球場です)で中国最後の満州人の王朝・清(しん)が滅亡し、孫文を臨時大総統とする中華民国が誕生しました。孫文の「中国革命同盟会」は1905年に東京で結成され、北一輝など日本人も参加しました。犬養毅や頭山満も孫文を援助しました。
しかし革命は不安定で、各地に軍閥が割拠する時代になります。満州の軍閥は馬賊出身の張作霖で、彼は1926年に北京で中国の支配者「大元帥」を名乗りますが、前年に亡くなった孫文の後を継いだ蒋介石に追われ、1928年6月4日に北京を脱出しました。その列車が爆破され、張作霖は死亡しました。首謀者は関東軍の河本大作大佐と言われます(異説もあります)。関東軍は満州を独立させ、日本の傀儡国家を作ろうとしていました。当時の総理大臣・田中義一は真相を隠したい軍部などに阻まれ、天皇に矛盾する報告をしました。即位したばかりの若い昭和天皇は「もう聞きたくない」と激怒し、内閣は総辞職しました。張作霖の後を継いだ息子の張学良は蒋介石に帰順し、中国は蒋介石の国民党に統一されました。しかし共産党と「合作」した孫文と異なり、蒋は共産党を厳しく弾圧したので不安定な状況は続きました。
傀儡国家の構想は3年後の1931年に実現します。日蓮宗信者でもあった石原莞爾中佐らの計画で、9月18日、柳条湖の満鉄の線路が爆破され、関東軍はこれを中国軍の仕業として満州占領に乗り出しました。朝鮮軍の林銑十郎司令官も独断で部隊を越境させ(天皇も政府も事後承認)、関東軍を助けました。張学良は北京におり、蒋介石も共産党との戦いに忙しく、日本軍の行動を黙認しました。1932年3月1日、清の最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀を執政とする「満州国」建国が宣言されましたが、もちろん日本の傀儡国家でした。
総理大臣の犬養毅は満州国を承認しませんでした。犬養は孫文の葬儀にも参列しており、国民党との話し合いを望んでいました。犬養は2年前のロンドン海軍軍縮会議で日本がアメリカ・イギリスより不利な条約を結んだときは海軍に味方して浜口雄幸内閣を攻めていたのですが(浜口首相も銃撃され死亡した)、1932年5月15日、政府に長年の不満を募らせた海軍と陸軍の軍人たちに殺されてしまいました。次の斎藤実内閣は満州国を承認し、日本は国際連盟を脱退して孤立を深めてゆきます。
しかし「日本の侵略」だけを責めるのも酷かもしれません。『奔馬』十五の晩餐会で松平子爵はこんな話をします。
「満洲へ小隊長で行っていた人の話ですが、こんな悲惨きわまる話はきいたことがないので、よく覚えています。部下の貧農出の兵卒の父親から、あるとき小隊長宛の手紙が来た。一家は貧に沈んで、飢えに泣いている。親孝行の息子に申訳がないが、どうか早く息子を戦死させてもらいたい。その遺族手当をあてにする他に、生活の保証はどこにもない、と書いてあったそうです。小隊長はさすがにこの手紙を兵卒に見せる勇気がなくて蔵っておいたが、間もなく息子は首尾よく名誉の戦死を遂げたそうです」
この話を聴いた蔵原武介は「難解な涙」を流します。もちろん蔵原は同じ晩餐会で「国民の究極の幸福は通貨の安定です」と言い放ち、最後で飯沼勲に暗殺される財界の大物です。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

ここはお国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて・・

私は『戦友』という軍歌が好きです。この歌は父が風呂場でよく歌っていたので、私も自然に覚えてしまいました。哀愁を帯びたメロディーが14回も繰り返されますが、詞は秀逸で飽きさせません。作詞は真下(ましも)飛泉、作曲は三善和気(かずおき)で、日露戦争が終わった明治38年(1905年)の楽曲ですが、その後も長く愛唱されました。
日露戦争で帝政ロシアに勝った日本はポーツマス条約により、遼東半島を拠点に満州の南部に利権を得て、関東都督府(後に関東庁と関東軍に分離)と南満州鉄道株式会社(満鉄)を設立しました。また樺太島の南半分を領土として獲得しました。その南樺太を治める樺太庁の第三代長官に明治41年(1908年)に就任したのが平岡定太郎(三島由紀夫の祖父)です。
定太郎は播磨国(兵庫県)生まれの平民でしたが、苦学して1892年に29歳で帝国大学(1897年に京都帝国大学が出来るまで日本の帝国大学は一つしかなく、東京帝国大学とは言わなかった)の法科大学(法学部)を卒業して内務省の官僚になりました。翌年に永井夏子と結婚し、その翌年に梓が生まれました。彼は役人というより事業家肌で、内務大臣の原敬(後に総理大臣になった)の信頼を得て1906年に福島県知事に任命され(この時代の知事は公選でなく官選)、2年後に新領土の統治を任されたわけです。定太郎はここでも能力を発揮し、歴代の樺太庁長官で最長の6年にわたって樺太を治め、「次は満鉄の総裁に栄転か」と噂されるようになります。ところが大正3年(1914年)に疑獄事件が起こり、定太郎は辞職に追い込まれ、彼が満州に赴任することはありませんでした。裁判は無罪になりましたが・・
三島由紀夫の『仮面の告白』には定太郎のことが出てきます。
「祖父が植民地の長官時代に起った疑獄事件で、部下の罪を引受けて職を退いてから(私は美辞麗句を弄しているのではない。祖父がもっていたような、人間に対する愚かな信頼の完璧さは、私の半生でも他に比べられるものを見なかった)私の家は殆ど鼻歌まじりと言いたいほどの気楽な速度で、傾斜の上を辷りだした。莫大な借財、差押、・・」
「祖父の事業慾と祖母の病気と浪費癖が一家の悩みの種だった。いかがわしい取巻き連のもってくる絵図面に誘われて、祖父は黄金夢を夢みながら遠い地方をしばしば旅した。古い家柄の出の祖母は、祖父を憎み蔑んでいた」
公威(きみたけ、三島の本名)という名前を付けたのはこの祖父でした。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

2017年12月10日、加筆しました。

前回の投稿で、戦前・戦中の満州国(大日本帝国の傀儡)と戦後の日本国(アメリカ合衆国の傀儡)という二つの傀儡国家をつなぐキーマンが岸信介であることを指摘しました。官僚から政治家になったこの人物は三島由紀夫とも面白いつながりがあります。
岸は第一高等学校(一高)・東京帝国大学法学部・農商務省を通じて、平岡梓(三島の父)と同期でした。梓は二浪して一高に入っており、岸は現役で入ったので年齢は梓が二つ上ですが、岸が我妻栄や三輪寿壮といつも首席を争っていたのに対し、梓は目立たない学生でした(我妻は法学者に、三輪は弁護士から政治家になり、岸との友人関係は生涯続きました)。梓の長男・公威(三島由紀夫)が生まれた大正14年(1925年)、農商務省は商工省と農林省に分けられ、梓は農林省、岸は商工省に入りました。ここでも順調に出世してゆく岸に対し、梓は目立たない役人でした。
以前の投稿で『春の雪』と『奔馬』に北一輝(『春の雪』では、本名の北輝次郎)の著書が現れることを紹介しました。三島は北の思想に魅力を感じながらも反発する複雑な感情を抱いたようです。ところが岸信介は大学時代に北の思想に深く魅せられ、北に会ってさらに尊敬するようになりました。北は昭和11年(1936年)の二・二六事件後に逮捕され、翌年に刑死しますが、このとき満州国では国務院産業部次長(後に総務庁次長)の岸信介が北の思想を実現すべく計画経済を指導していたのです。岸は帰国後は商工次官、東條内閣では商工大臣として、戦時統制経済を指導する革新官僚の一人となりました。戦後に総理大臣になったときも、彼の思想は変わっていなかったと思われますが、傀儡国家の原住民の総理大臣ですから思い通りにいかず、苦しんだのではないでしょうか。
政治の中にいたわけではなく、文学や美学の世界にいた三島と、政治の世界にいた岸とは違いますが、なかなか興味深いものがあります。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

今日は作詞家の北山修を取り上げます。この人は本職は精神科医で、しかも日本精神分析学会の会長をされていたようです。このブログによくコメントを下さる「チームぼそっと」さんもお詳しいかもしれませんね。
私が大学時代に見てもらっていた駒場の岡先生(髭もじゃですが、尊敬できる方でした)も知人で、特に親しくはないが学会で話したことはあると聞きました。あとで私のことも伝えて頂き、少し感激しました。
『北山修青春詞歌集』は彼が作詞したヒット曲を自分で歌ったアルバムです。「僕は音程が悪い」と認める通り、歌はどうも?という感じですが、それが奇妙な魅力になっています。
私は2曲目の『さすらい人の子守唄』が特にお気に入りです。原曲ははしだのりひことシューベルツですが、これはどうも甘ったる過ぎて閉口します。北山修は少し歌詞を削り、あの奇妙な音程で?さらりと歌っています。そう言えば、はしださんが亡くなったようです。加藤和彦も既に亡く、フォークルの生き残りは北山さんだけになりました。
3曲目が『白い色は恋人の色』ですが、これは私としては残念ながらベッツィ&クリスの原曲に遠く及びません。
7曲目の『戦争を知らない子供たち』はビートをきかせたアレンジでメッセージ性が強くなっています。北山修は昭和21年生まれで、まさに「戦争を知らない子供」だったわけですが、今は「戦争を知らない老人たち」の時代です。明治から昭和の日本が戦争ばかりしていたことを思うと夢のようです。
しかしながら、かつて満州国が日本の傀儡だったように、戦後の日本はアメリカの傀儡国家になり、宗主国はずっと戦争ばかりしてきました。平和主義は美しい思想ではありますが、それは永久に日本は「アメリカの傀儡」でよいという考えにつながります。アメリカは日本を傀儡のまま「戦争が出来る国」に変えたいようですが、そんな虫のいい話があるでしょうか。もし日本が「戦争が出来る国」になるなら、その矛先は北朝鮮でも中国でもなく、現に日本を占領している国でしょうね。
でも、おそらくそのような未来は来ないでしょう。私は悲しいですが、日本は満州国と同じ運命をたどるだろうと予測しています。
満州国は皇帝・愛新覚羅溥儀の下に「五族協和」の旗を掲げましたが、牛耳っていたのは「弐キ参スケ」(東條英機、星野直樹、鮎川義介、岸信介、松岡洋右)と言われた日本人たちです。関東軍(関東とは山海関の東の満州のことで、日本の関東地方ではない)の参謀長だった東條英機は日本に帰って総理大臣になり、アメリカとの戦争を始めました。満州国の総務庁次長だった岸信介は東條内閣の商工大臣になりましたが、サイパン玉砕の後、東條と対立して内閣を総辞職に追い込みました。アメリカは日本全土を空襲して原爆を落とし、ソ連が日本に宣戦して満州国を滅ぼし(このとき関東軍はほとんど戦えなかった)日本は降伏しました。東條と岸はともにアメリカ軍に逮捕され、東條が戦争犯罪人として処刑された翌日、岸信介は逆に釈放されました。後に岸は総理大臣になり、安保改定を強行しますが混乱の責任をとって内閣は総辞職しました。その孫が安倍晋三です。現在、総理大臣を務めている安倍の上には天皇陛下がおられますが、牛耳るのはアメリカ人たちです。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

2017年12月3日 一部を修正しました。
2017年12月4日 改題し、加筆しました。
2017年12月5日 満州国の「五族」とは日本人、朝鮮人、漢人、満州人、蒙古(モンゴル)人を言います。

↑このページのトップヘ