「命は神的天皇であり、純粋天皇であった。景行帝は人間天皇であり、統治的天皇であった」
三島由紀夫が『日本文学小史』でこのように断言するのは、もちろん古事記のヤマトタケル(倭建)です。しかし日本書紀では、景行天皇とヤマトタケル(日本武)との関係は一変します。古事記の景行天皇の段はほぼヤマトタケルの記事で埋め尽くされ、天皇の記事は系譜以外は皆無と言ってよいですが、日本書紀では天皇は自ら九州へ行って熊襲を討ち、東国にも巡幸します。古事記ではヤマトタケルが死に際に詠んだとされる「国しのび歌」三首も、日本書紀では天皇が南九州の日向で詠んでいます。九州にも東国にも、二人が共に行くことはありません。まるで二人の天皇がいるように見えます。
日本書紀の年代を西暦に換算すると、第12代の景行天皇は71年に即位し、在位60年目の130年に亡くなっています。ヤマトタケルは82年に生まれ、113年に亡くなったとされます。天皇の九州巡幸は82年から89年、ヤマトタケルの熊襲討伐は97年から98年、ヤマトタケルの蝦夷(えみし)討伐は110年から113年になります。この間、107年には『後漢書』倭伝に記された倭国王帥升の朝貢があったはずですが、日本書紀はこの記事を引用していません。
一方、『魏志』倭人伝に記された倭の女王卑弥呼の朝貢は、日本書紀の神功皇太后摂政39年(西暦239年)、同40年(240年)、同43年(243年)に引用されています。日本書紀の編者たちは「卑弥呼は神功皇后(第14代仲哀天皇の皇后、第15代応神天皇の母で摂政)である」と考えていたようです。
では、彼らは帥升を知らなかったのでしょうか。
知らなかったとは、まず考えられません。日本書紀の編纂で最も多く参考にされた中国史書は『漢書』と『後漢書』であることが分かっており、『史記』や『三国志』を上回るほどだからです。彼らは引用こそしていませんが、帥升を知っていました。日本書紀の編者たちは倭国王帥升を景行天皇の時代、その中でもヤマトタケルが活躍した時代の人物としたわけです。
これは大変に面白いです。ヤマトタケルは、多くの点で第2代の綏靖(すいぜい)天皇に似ているからです。綏靖天皇は父・神武天皇の死後、異母兄のタギシミミを殺して天皇になりました。
1.臆病な兄がいた(日本書紀では、オオウスは110年に蝦夷を恐れて討伐を辞退した。綏靖天皇には同母兄のカムヤイミミがいたが、彼は臆病で異母兄を殺せなかった)
2.兄を殺した(古事記では、ヤマトタケルはオオウスを殺した)
3.熊襲を討った(綏靖天皇が殺したタギシミミは日向生まれで、母は熊襲の女性であった)
4.3.の行動により「タケ(タケル)」という新たな名前を得た(ヤマトタケルは本来はオウス又はヤマトオグナと言い、熊襲の長が死ぬ前に名前を献上した。古事記では、綏靖天皇はカムヌナカワミミに加えて、タケヌナカワミミとも呼ばれるようになった)
私は綏靖天皇は倭国王帥升であり、「綏」の字は後漢のトウ太后綏から取られたと考えました。続く第3代の安寧天皇の「安」は安帝から、第4代の懿徳天皇の「懿」は少帝懿から取られたという考えにも繋がります。淡海三船だけではなく、日本書紀の編者たちの多くが「帥升は綏靖天皇」と考えていた可能性が出てきました。
彼らは帥升=綏靖天皇とすれば自然な年代になることを知りながら、あえて帥升をヤマトタケルの時代にしました。昔の天皇たちは百歳以上の長寿だったという伝説を無視出来ない圧力があったのでしょう。綏靖天皇によく似たヤマトタケルにするのが最善の策と考えたようです。
日本書紀に記された景行天皇の九州巡幸(西暦82年から89年)は、神武東征の真実の年代に近いでしょう。ヤマトタケルの西征(97年から98年)は綏靖天皇の即位、ヤマトタケルの死(113年)は綏靖天皇の死の年代に近そうです。ただ綏靖天皇が82年に生まれた筈はなく、89年以後ですから、8年足すと神武天皇の在位は89年から105年、綏靖天皇の在位は106年から121年となり、後漢の和帝の在位とトウ太后の摂政期間にほぼ一致します。
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