2018年01月

「じんむ、すいぜい、あんねい、いとく、こうしょう、こうあん、こうれい、こうげん、かいか、・・」
戦前の子供たちは漢字で書けもしない歴代の天皇(神武から昭和まで124代)の名前を暗記させられたそうです(名前ではなく、死後に贈られた漢風諡号(かんぷうしごう。中国風の諡(おくりな))ですが)。もちろん三島由紀夫やその父や祖父も覚えたでしょう。戦後はそんなことは無くなりました。
理由はいろいろありますが、特に古代の天皇たちの実在が疑わしいからです。日本書紀を読むと、神武天皇の即位は西暦紀元前660年とされ、キリストやムハンマドは愚か、釈迦も孔子もソクラテスも生まれていない昔になります。神武天皇の享年は127歳、古事記では137歳とされ、他にも百歳以上の天皇がぞろぞろいます。これをそのまま史実と信じることは困難です。
しかし冷静に考えると、年代が古いからと言って実在まで否定するのは論理的とは言えません。紀元前660年はおかしいとしても、もっと新しい時代に実在したかもしれません。日本書紀を書いた人たちも年代が古すぎるのを知っていて、真実を知る手掛かりを残してくれているかもしれません。
前回の投稿で西暦107年の倭国王帥升について書きましたが、帥升たちを迎えた後漢の皇帝は安帝(孝安皇帝)で、当時は幼かったので皇太后(母ではない。和帝(孝和皇帝)の皇后。名は綏(すい))が摂政を務めていました。綏は121年に死んで安帝の親政となりますが、125年に安帝も死に、後を継いだ少帝(名は懿(い))も同じ年に死にました。この三人の名前を並べると(安帝は名前ではなく諡ですが)
綏、安、懿
となり
「綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)」(神武天皇に続く2・3・4代の天皇)の頭文字になります。
その後(在位が短い皇帝を省略します)後漢王朝は
順帝(孝順(こうじゅん)皇帝、在位は125年~144年)
桓帝(孝桓(こうかん)皇帝、146~167)
霊帝(孝霊(こうれい)皇帝、168~189)
献帝(孝献(こうけん)皇帝、189~220)
と続きましたが、この四人の諡は
「孝昭(こうしょう)、孝安(こうあん)、孝霊(こうれい)、孝元(こうげん)」(5・6・7・8代の天皇)に似ています。「孝霊皇帝」と「孝霊天皇」は同じ諡です。もっとも後漢には「安帝(孝安皇帝)」もいましたし、前漢には昭帝(孝昭皇帝)、元帝(孝元皇帝)もいましたが・・
日本書紀に出ている神武天皇から持統天皇まで40代の諡をつけたのは奈良時代の文人、淡海三船(おうみのみふね)と言われています。三船は672年の壬申の乱で敗れた大友皇子(弘文天皇)の曾孫で、御船王という皇族でしたが臣籍降下して淡海氏になりました。漢詩に優れ、中国の歴史にも通じていました。おそらく彼は歴代天皇の真実の年代を知っていて、日本書紀の古すぎる年代を正すために、後世の私たちに手掛かりを残したのではないでしょうか。ただ、あまり露骨にやり過ぎないように苦心したのでしょう。
前回、私は帥升は懿徳天皇ではないかと書きましたが、上記の考察により、綏靖天皇がふさわしいと修正します。神武天皇の和風の諡「神日本磐余彦(カムヤマトイワレヒコ)」の「カムヤマト」は、本来は「神日本」ではなく「漢倭面土」だったのでしょう。淡海三船は後漢の摂政皇太后綏とともに、倭国王帥升の名前も意識して「綏靖」と名付けたものと思われます。
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2018年2月21日追加
安寧天皇の「寧」は、綏が死んだ永寧2年(121年)の元号から取られたようです。
2018年2月25日追加
懿徳天皇の「徳」については、少帝懿について記した後漢書・安帝紀の初めのほうに「孝和皇帝懿徳巍巍光于四海」という言葉が現れることで説明できます。

三島由紀夫は『日本文学小史』で古事記を取り上げましたが、イザナギとイザナミの国生み神話で面白い記述があります。
「次に伊豫の二名島を生みき。この島は、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、伊豫國は愛比賣と謂ひ、讃岐國は飯依比古と謂ひ、粟國は大宜都比賣と謂ひ、土左國は建依別と謂ふ。(中略)次に筑紫島を生みき。この島もまた、身一つにして面四つあり。面毎に名あり。故、筑紫國は白日別と謂ひ、豐國は豐日別と謂ひ、肥國は建日向日豐久士比泥別と謂ひ、熊曾國は建日別と謂ふ」
四国と九州は胴体が一つで顔が四つの島であり、顔毎に名前があると言うのです。日本書紀の第13代成務天皇紀にも似た記事があり、山陽を影面(かげとも)と言い、山陰を背面(そとも)と言うと書かれています。万葉集の第一巻52番の長歌『藤原宮御井歌』では「耳成の青菅山は背友の大御門に・・吉野の山は影友の大御門ゆ」と歌われています。
これに関連して思い出されるのは、後漢の安帝の永初元年(西暦107年)に倭国王の帥升(又は師升)らが生口160人を献上したという後漢書倭伝の記事です。「生口」は捕虜、奴隷、技術者などいろいろな説があります。この記事では帥升は「倭國王」ですが、後漢書から引用したと思われる他の古文書では「倭面土國王」となっており、この方が古い形とも見られます。
107年と言えば、魏の景初3年(西暦239年)に使者を派遣した邪馬臺国の卑彌呼より古く、帥升は外国の史書に名前が出てくる最古の日本人と言われます。(「日本人」と呼ぶべきかどうかは問題です。我が国が中国に対して「日本国」を名乗ったのは西暦702年の遣唐使(武則天の時代で、正確には遣周使)が最初で、それまでは「倭国」でした)後漢の建武中元2年(西暦57年)には博多にあったと思われる「倭奴国」が遣使して光武帝から金印を賜りましたが、王や使者の名前は分かりません。帥升も、残念ながら後漢書の記事が少なすぎて詳しいことは分かりませんが、卑彌呼や壹與が10人ないし30人の生口を献上したに過ぎないことを思うと、160人は大変な数です。
その「倭面土国」についてもいろいろな説があります。ヤマトと読むのだとか、黥面(顔のイレズミ)に由来するとか、面土=マト=末盧(長崎県松浦)だとか。ですが、私はこの名前が上記のように「身一つにして面四つあり」のような倭人の考え方に基づく自称であったならば、とても面白いと思います。私見では帥升は第4代懿徳天皇ではないかと思われ、彼の名前「[金且]友」(すきとも)がそれを示唆すると考えています。「すき」は唐鋤星に通じ、三つ星を祭る住吉大社との関係も考えられます。
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小室直樹氏は『三島由紀夫と「天皇」』で、次のように説明します。

「唯識論を理解するためには、フロイトなどの精神分析学を思い出すとてっとり早い。フロイト、ユングなどは、顕在意識=表層心理のほかに潜在意識ないしは無意識=深層心理を考える。この無意識におけるさまざまな出来事は、当人が全く気付かないのに、その思考と行動とを大きく規定する」
「「無意識」の根本に阿頼耶識がある。この阿頼耶識から、末那識が生まれる。末那識もまた「無意識」にあって(顕在)意識にのぼってくることはない。(中略)末那識は、生んでくれた阿頼耶識をつくづくとながめて、これが自己だと思いこんでしまう。(中略)仏教の立場からすると、「自己」などは存在しない。その存在しないものを、末那識は、錯覚をおこして存在するのだと思量する(考える)。かくて自分だと執着する自我執着心がおこる。かかる我執こそ、諸悪の根源である」

小室氏の説明は末那識より深いところに阿頼耶識があるイメージで、三島由紀夫の『暁の寺』十八の説明にも合いますが、コリン・ウィルソンが「ラヴクラフトと『ネクロノミコン』」(『SFと神秘主義』サンリオ文庫、1985年、大瀧啓裕訳に収められた)で述べているイメージは更に面白く思われました。ここに引用します。

「1961年に出版されたマイアースの著書(『人間の個性と肉体上の死後の生存』引用者注)の序文で、オルダス・ハックスリーは、一言一句もおろそかにせずにこう記した。
「心という家は地下室のあるバンガローにすぎないのだろうか。それとも意識という一階の下に、廃物の散らばる地下があるように、上には二階があるのだろうか」
ハックスリーが指摘するように、フロイトは地下室のあるバンガローのイメージをもっていたが、驚くべき天才たちの事例は、人間が「潜在意識」と同様に「超意識」をももっていることをほのめかしているようだ。そしてこれもまた、日常の意識には異質なものなのである」

コリンのいう地下室の「潜在意識」は唯識論のいう「末那識」であり、二階の「超意識」は「阿頼耶識」であると考えることが出来そうです。コリンは次のようにも記します。

「完全な人格というものを、円、ちょうど満月のようなものとして考えるのがいいかもしれない。しかしこの「完全な人格」を発達させた者は、ほとんど神に近い存在になるだろう。われわれの大半はかなりの制限をうけたままでいる。われわれは用心深すぎ、緊張しすぎるのだ。もっとも活力に満ち「偏見のない」人格でさえ、おそらく三日月程度のものだろう」
「ここでほのめかされているのは、われわれが高度の(あるいは広い)人格をもっていて、それが制限された日常の自己より、実際によく知っているかもしれないということである。
明らかに、これは人間の人格についての純然たる異端の説であり、フロイト派は眉をひそめるだろう。ユング派はさほど奇妙なものとは思わないかもしれない。ユングは個人の意識を超越する無意識(集合的無意識)があるという考えをうけいれ、そうすることで、自己「満月」説のほうに向かっているからである」

「自己」という言葉も誤解のもとかもしれません。小室氏は(三島由紀夫も)、仏教は「我」と「魂」を認めないと言いますが、ヒンズー教でいう「アートマン」は「真我」と訳され、日常の「自己」ではありませんから、仏教の「無我」と変わらないように思われます。
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中西信男著『ナルシズム 天才と狂気の心理学』(講談社現代新書、1987年)は興味深い本です。冒頭で美少年ナルキッソスが水仙になる神話が紹介されますが、三島由紀夫が水仙の花に魅せられたのはこの神話に関係するかもしれません。ただ『鏡子の家』の画家・山形夏雄は寝室の水仙の花を見て、宋の皇帝・徽宗が描いた『水仙鶉図』を思い浮かべております。
中西氏の本ではトーマス・マンの『ヴェニスに死す』と並べて三島の『仮面の告白』が分析されています。
「主人公の少年の回想の中に、一人の農家の若者についての思い出がでてくる。当時の東京では近在の農家の人が肥料として糞尿をくみとりにくるのだが、主人公は、やって来た若者の「地下足袋をはき、紺の股引を穿いた」姿に惹きつけられる」
「小説の冒頭に出てくるこの部分は、読者には理解しがたい奇妙な印象を与えるが、これがこの若者への理想化転移であり、若者との自己対象関係なのである。ちょうど『ヴェニスに死す』の主人公、作家アッシェンバッハが美少年タドゥツィオに魅せられて、少年の部屋の扉にもたれて「うっとりと酔いしれた」のと同じ現象なのである」
「強い男性的イメージへの憧憬は、「内心の怪物」として『仮面の告白』の中で表現されたのであるが、三島自身も、次第に小説的なフィクションの世界での表現にとどまらず、ボディ・ビルや、やくざ映画でのパフォーマンスなど、現実の世界での行動へと移行していく。そして彼の最後の悲劇へと突入していくのである」
クリーガマンに言わせると「三島の生活と作品は自己病理学を証明するよい教科書である」とのことです。
フロイトの時代は性の抑圧によるヒステリー患者が重要でしたが、コフートの時代には肥大した自我のかたまりのようなナルシストの存在が問題になり、中西氏はナルシズムに注目しました。氏は最後に次のように警告してこの本を締めくくっています。
「わが国の民主主義は、歴史的には1945年の敗戦時に与えられたもので、自分たちが努力してかちとったものではない。こうした弱い民主主義的基盤においては、ドイツのワイマール時代と同様に、政治的な動向によっては、いつ独裁支配にひっくり返っても不思議ではない」
「アイドルやタレントに熱狂するのと同じように、かかる政治家を日本人は熱狂して迎える社会心理ができあがっているように思われる。いまここでわれわれは、立ち止って、日本人の心を見直す時期に来ていることを銘記しなければならないだろう」
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『豊饒の海』のタイトルは月の地名から取ったものです。三島由紀夫自身が註釈していますから、それは間違いないことです。月の模様をウサギの餅つきと見た場合、ウサギの片方の耳に当たるのが「豊饒の海」です(今日では普通「豊かの海」と呼ばれます。ちなみにアポロ11号が着陸した「静かの海」はウサギの顔の部分です)。
しかし第四巻『天人五衰』の冒頭で安永透が望遠鏡で眺める海の描写は、全巻を通じても出色のものです。
「海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義(アナーキー)
「船の出現! それがすべてを組み変えるのだ。存在の全組成が亀裂を生じて、一艘の船を水平線から迎え入れる。そのとき譲渡が行われる。船があらわれる一瞬前の全世界は廃棄される。船にしてみれば、その不在を保障していた全世界を廃棄させるためにそこに現われるのだ」
「刹那刹那、そこで起っていることは、クラカトアの噴火にもまさる大変事かもしれないのに、人は気づかぬだけだ。存在の他愛なさにわれわれは馴れすぎている。世界が存在しているなどということは、まじめにとるにも及ばぬことだ」
「船でなくともよい。いつ現われたとも知れぬ一顆の夏蜜柑。それでさえ存在の鐘を打ち鳴らすに足りる。
午後三時半。駿河湾で存在を代表したのは、その一顆の夏蜜柑だった」
これは海の描写というより、『暁の寺』で解説された唯識哲学が詩的に表現されているというべきでしょう。そこでは「一茎の水仙」だったものが、ここでは「一艘の船」「一顆の夏蜜柑」になっています。
小室直樹氏は『三島由紀夫と「天皇」』で次のように述べます。
「仏教における因縁のダイナミズムを、これほど見事に表現した文章をほかに知らない。唯識論の視点から見るならば、阿頼耶識は水、その他の識を波、縁を風だとすればよいであろう」
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