歴代天皇の諡号・追号については、森鴎外が詳しく研究しており、鴎外全集の第20巻に『帝諡考』として纏められています。(元号について研究した『元号考』もあります)この研究を読むと、いろいろな発見がありました。
後漢の少帝懿と懿徳天皇には前から注目していましたが、少帝懿について書かれた後漢書・安帝紀に「懿徳」の語が現れるのは初めて知りました。安帝の時代には「永寧」という元号もあり、安帝と安寧天皇の繋がりも深めることが出来ました。
最大の発見は、6世紀の中国の北斉に「神武皇帝」(高歓)がいて、その第六子が「孝昭皇帝」(高演)であることが分かったことです。前漢の武帝(孝武皇帝)と昭帝も父子でしたが、北斉は「神武皇帝」ですから更に似ています。神武天皇と孝昭天皇の間は綏靖・安寧・懿徳の三代で、前漢の武帝と昭帝は連続しますが、北斉の神武皇帝と孝昭皇帝の間は文襄・文宣・廃帝殷の三代、この類似性も驚きです。
問題なのは北斉の場合、神武皇帝と文襄皇帝は「追尊」であることです。高歓は東魏の孝静皇帝を擁立して実権を握っていましたが、生前に帝位につくことはありませんでした。ここから類推すると、神武天皇と綏靖天皇も追尊で、安寧天皇が初代かもしれません。安寧天皇の名は「シキツヒコタマテミ」で、后の父がシキ(磯城、又は師木)県主ハエ(葉江、又は波延)ですので、ハエから皇位を継いだ可能性も考えられます。
後漢の安帝(孝安皇帝)の諡号が安寧、孝安の2代の天皇に取られたのも奇妙ですが、安寧天皇の第三皇子が父の名前の一部を継いだシキツヒコであり、オオヤマトクニアレヒメ(孝霊天皇の妃)に繋がる古事記のシキツヒコ系譜との関連が窺われます。
江戸時代の第112代霊元天皇の諡号は、第7代の孝霊天皇と第8代の孝元天皇から取られたようですが、何故この二人なのかは謎です。いわゆる欠史八代で目立った業績もない天皇です。古事記の孝霊天皇の段には「桃太郎」の原型と言われるキビツヒコの吉備平定の記事があり、これと関係があるかもしれません。その3代前、第109代の明正天皇は、奈良時代以来なんと約900年ぶりの女帝であり、第43代の元明天皇と第44代の元正天皇という2人の女帝の諡号を繋いだのは「なるほど」と思わせますが・・
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m