2018年02月

三島由紀夫は祖父から続く官僚の家系でしたが、大蔵省(現在の財務省)を1年で辞めました。もちろん小説家になるために。役所の仕事も本来は大事なはずですが、中身はどうでもいい、形だけは完璧にするという「お役所仕事」になってしまうと最悪です。
日本書紀で年代がハッキリしてくるのは、やっと第15代応神天皇の時代からです。「正しくなる」のではありません。間違いの年数がハッキリするという意味です。これは朝鮮・韓国の歴史書『三国史記』のおかげです。中国の『三国志』と『史記』を合わせたような書名ですが、668年に新羅が朝鮮を統一する前、高句麗・百済・新羅の三国の歴史を記したものです。日本書紀より400年ほど新しく、1145年の高麗時代に編纂されました。
倭国はこの三国のうち、特に百済(昔は「くだら」と読みましたが、今は「ひゃくさい」と読むようです)と仲が良く、その友好は応神天皇の時代(母・神功皇后の摂政時代を含む)に始まりました。古事記には百済の「照古王」が馬を奉ったという記事があり、日本書紀では「肖古王」と書かれ、朝鮮での戦いや「七支刀」のことが詳しく書かれています。この王は三国史記では「近肖古王」で、彼は375年に亡くなっています。ところが日本書紀では肖古王は神功摂政55年(西暦255年)に亡くなったとあり、三国史記より120年古くなっています。それ以後、神功・応神時代に登場する歴代の百済王も、ほぼ全部同じで、120年古くなっています。一方、中国の『晋書』から近肖古王は372年に在位していたことが分かるので、三国史記の年代が正しいことが分かります。
これを指摘したのも那珂通世でした。120年は干支が一周する60年のちょうど二倍なので、干支は変わりません。古い記録は干支だけが書かれていたため、それと矛盾しないように120年古くしたのです。まさに悪い意味の「お役所仕事」です。百済の歴代の王たちの記録は神功皇后・応神天皇の時代と第21代雄略天皇以後の二つに分断されました。その間、第16代仁徳天皇から第20代安康天皇までは、百済の王の名前は一度も出てきません。たいへん不自然な、無理な入れ方です。雄略天皇以後の時代は、完璧ではありませんがほぼ正しい年代と考えられます。
日本書紀はこのような「お役所仕事」をすることで、皇紀(神武天皇即位紀元)が嘘であることを自ら認めているのですから、日本政府は公式に皇紀の嘘を認めるべきではないでしょうか。私は神武天皇は後漢の章帝から和帝の頃に実在したと考えていますが、西暦紀元前660年2月11日に神武天皇が即位したというのは完全な嘘です。建国記念日は廃止し、どうしても必要なら旧暦通り1月1日にすればよいと考えます。
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年代を記さない古事記の中で、天皇の没年干支を記した分注は貴重な史料です。日本書紀のような不自然な長さもありませんが、本文ではないので稗田阿礼が記憶していたものとは思えず、誰が書いたかは不明です。それを補う古文献に、奈良時代に書かれたという『住吉大社神代記』があります。
この文献によると、第11代垂仁天皇は53年間在位した後、辛未(かのとひつじ、しんみ)年に亡くなったとされています。辛未から53年前は戊寅(つちのえとら、ぼいん)年で、これは古事記で第10代崇神天皇が亡くなった年の干支と一致します。古事記の没年干支が孤立した史料でないことは確認できるわけです。
古事記の没年干支は日本書紀の没年干支とほとんど合いませんが、垂仁天皇の没年は僅かに1年の違いしかなく、例外的と言えます。しかも垂仁天皇は生まれた年月日も日本書紀に記されており、これは例外中の例外です。古代人は現代人と違って誕生日には関心が薄かったようです。
垂仁天皇の誕生日は、即位前紀によると「崇神天皇29年、壬子(みずのえね、じんし)年1月1日」とのこと。ところが崇神天皇元年の条には、これとハッキリ矛盾する内容が書かれています。崇神天皇の皇后・御間城姫(みまきひめ)は、この年より前(即ち、第9代開化天皇の時代)に垂仁天皇を筆頭に6人の子供たちを生んだと言うのです。
私は即位前紀に「壬子」と干支を明記していることに注目します。垂仁天皇の生まれた年の干支が伝わっていたため、年代が延長された後で干支を当てはめると、開化天皇から崇神天皇の時代に移動してしまったのでしょう。
なぜ垂仁天皇だけ生まれた年月日が伝わったのかは分かりません。1月1日生まれで珍しかったからか、古代は珍しい長寿だったからかもしれません。彼は西暦232年に生まれ、258年の父の死後に即位し、311年に80歳で亡くなったと考えられます。生まれた年が分かる日本最古の人物と言えるでしょう。もっと昔になると、以前の投稿で示したように、漢風諡号から後漢の皇帝と対応させる方法があります。
九州説を取る方もいますが、私は邪馬臺国は大和でよいのではないかと思っていて、卑彌呼は百襲姫(ももそひめ)、臺與は豊鍬入姫(とよすきいりひめ)と考えています。豊鍬入姫の年齢は垂仁天皇に近いと思われ、13歳で女王になったという魏志倭人伝の記事に大体合うように思われます。
垂仁天皇の後、第12代景行天皇と第13代成務天皇の在位も延長されています。古事記の没年干支によると、この2代の合計は44年ですが、日本書紀では60年ずつ、合計120年もあります。このため、第14代の仲哀天皇はヤマトタケルの息子であるのに、ヤマトタケルが死んでから36年後に誕生するという矛盾が生じています。
日本書紀によると景行天皇は死の3年前、纏向から志賀に遷都しており、成務天皇の都は何処だったかは記されていません。古事記では成務天皇の都は志賀です。ここから成務天皇の在位は352年から355年まで3年間、景行天皇の在位は311年から352年まで41年間だったと私は推測します。
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三島由紀夫が『日本文学小史』で古事記を取り上げ、中巻のヤマトタケルと下巻の軽王子・衣通姫に言及したことは何度か投稿しましたが、この中巻と下巻の違いについて、三島は倉野憲司の言葉を引用します。

「思うに、下巻を仁徳天皇に始めたのは、この天皇が『聖帝』とたたえられた天皇であったからであって、ここから天皇に対する考え方が変化したからであろう。(中略)儒教渡来の応神天皇の御世を以って中巻を結び、儒教的聖天子の思想で濃く彩られた仁徳天皇から下巻としたものと推測されるのである」(岩波版日本古典文学大系)

三島は古事記の下巻を否定的に見ており、軽王子を時代に抗う孤独な英雄と見ています。次の発言によく現れています。

「・・しかるに「民衆」が登場し、これに支へられた政治が生れ、軽王子の自然な行為は叛乱と規定され、王子はこれに抗ふことはゆるされず、流謫の地でただ「個人的な」恋だけが非公式に許容されることになつた」
「王子はエロスの最終的な根拠を失ひ、失つたがゆゑに、その復活のために情死したのであるが、長歌は、反抗的な態度に終始して真情をいつはり、むしろ空無化した国家に対する国家批判的な言辞さへ底にひそめてゐる」

三島は中巻のヤマトタケルを二・二六事件の将校たちに重ねる一方、軽王子と衣通姫を、戦後日本を批判して自決した自分と森田必勝に重ねていたと考えられます。
三島は年代論などに興味は無かったでしょうが、古事記は日本書紀と違って詳細に年代を記すこともなく、文学的に表現されています。軽王子が登場する第19代允恭天皇の頃になると天皇の没年も日本書紀とほぼ一致し、日本書紀の不自然な年代の延長は無くなってきます。古事記は第24代仁賢天皇以後は記事が簡略になり、第26代継体天皇の段に「磐井の乱」の記事がある他は系譜記事のみです。そして第33代推古天皇の死をもって終わっています。
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前々回の投稿で、西暦107年の倭国王帥升について書きましたが、金印で有名な西暦57年の倭奴国王についても書きます。日本書紀では帥升をヤマトタケルとし、それは第2代綏靖天皇の暗示ではないかというのが私見ですが、同じ方法を倭奴国王にも適用してみました。
日本書紀では第11代垂仁天皇は西暦紀元前29年に即位し、在位99年目の紀元後70年に亡くなっています。問題の57年の前後には、大略で次のような記事があります。

垂仁天皇39年(西暦10年)イニシキ命が剣一千口を作り、石上(いそのかみ)神宮に納めた。この後、イニシキ命に石上神宮の神宝を管理させた。
垂仁天皇87年(西暦58年)イニシキ命は年老いたので、妹の大中姫(おおなかつひめ)に神宝の管理を命じた。妹は「私は女です。高い倉庫に登れません」と断ったが、イニシキ命は「ハシゴを造ってやる」と言った。結局、物部氏が管理することになり、今に至っている。

イニシキ命は垂仁天皇の子でオオタラシヒコ尊(後の第12代景行天皇)の同母兄ですが、なかなか面白い人で、垂仁天皇30年(西暦1年)にはこんな記事があります。

天皇はイニシキ命とオオタラシヒコ尊に「それぞれ欲しい物を言ってみよ」と言われた。兄は「弓矢が欲しいです」と申し上げ、弟は「皇位が欲しいです」と申し上げた。天皇は「それぞれ望み通りにするがよい」と言われて、イニシキ命に弓矢を与え、オオタラシヒコ尊に皇位を継ぐように言われた。

それはともかく、イニシキ命は「高い倉の主」であったわけで、直ちに前回に投稿した高倉下(たかくらじ。たからくじ、ではありません)が思い出されます。しかも、神武天皇が高倉下に救われたのは熊野の荒坂の津、またの名はニシキ浦でした。高倉下が倒れていた神武たちに「フツノミタマ」という剣を献上すると、みんな起き上がって元気になりました。高倉下は前夜に夢を見て、夢の中で天照大神とタケミカヅチ神がこの剣を天から高倉下の倉に落とし、神武を助けるように命じたのでした。この「フツノミタマ」は石上神宮に納められており、ここでもイニシキ命と繋がります。
不思議なことに、日本書紀も古事記も高倉下が何者なのか、誰の先祖なのか記していません。神武天皇の即位後に行われた論功行賞にも入っていません。他の古文献や神社の伝承では尾張氏や物部氏に結びつけられていますが、謎の深い人物です。
そもそも「高倉下」は名前ではなく、「陛下(階段の下)」「殿下(宮殿の下)」「閣下(高殿の下)」のような敬称ではないかと思われます。神社の祭神としては「高倉下命」となっている場合もあり、日本書紀や古事記では「命(みこと)」をつけていませんが、敬意が無いのではなく、最大の敬意を払っているのかもしれません。天皇の玉座を「高御座(たかみくら)」と呼ぶことも思い出されます。源平時代には第80代の高倉天皇(在位1168年~1180年)もいました。
私はこの高倉下が57年の倭奴国王ではなかったかと推測します。光武帝の「光」から天照大神、「武」からタケミカヅチ神の夢の話を作ったとも考えられます。「倭国の極南界」は南九州にも思えますが、九州の南には島々が連なり、それこそ鬼界ヶ島辺りでないと「極南界」という感じになりません。熊野の南は広大な海しかなく、そこに常世の国が夢想されたのも頷けます。
それに対応するように、日本書紀の垂仁天皇の最後にはタジマモリを常世の国に遣わし、時じくの香の実(橘)を求めさせる記事があります。古事記も同様です。これは司馬遷の『史記』で秦の始皇帝が徐福を遣わし、蓬莱の神仙を求めさせた話に似ていますが、『後漢書』倭伝の最後にも始皇帝と徐福の記事があり、熊野には徐福の祠もあります。日本書紀によるとタジマモリが常世の国へ旅立ったのは垂仁天皇90年(西暦61年)でしたが、10年後に帰ったとき、天皇は既に140歳で亡くなっていました。タジマモリは墓に橘を供えて自ら死んだということです。
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三島由紀夫は『軽王子と衣通姫』を収めた短編集『殉教』に『三熊野詣』も収めました。ここでは折口信夫を想わせる人物「藤宮先生」を「老人の異類」(解説で高橋睦郎が紹介する三島のノートより)として描いています。常子は旅にお伴しながら思います。
「思うに、先生の故郷が熊野であることは確かなことだが、その故郷を頑に避ける先生のお気持も、どんな事情があるか知らないが、これまた確かなことである。すると、先生の故郷は、あたかも常世(とこよ)の国、黄泉(よみ)の国、濃い緑のかげの陰湿な他界だとも考えられ、それ故にこそ、先生はそこを恋いつつ怖れて、こうして旅に来られたとも思えるではないか。黄泉の国から来た方だとすると、先生にはそのすべての特徴が具わっているように感じられるのであるが・・」
高橋睦郎は次のように評しています。
「この些かあからさますぎるまでに折口信夫博士をモデルにした短編で、三島氏の描きたかったものは何だろうか。思うに、この意地悪すぎるほど意地悪な短編で、氏が罰しようとしたものは、何よりもまず、氏じしんに訪れるはずであった老いであろう」
日本書紀によると神武東征のとき、熊野の新宮市付近で一行が暴風に遭い、神武の二人の兄が入水しました。兄の一人である三毛入野命は「常世郷(とこよのくに)に往でましぬ」と表現されています。岩波文庫の『日本書紀』は折口信夫の解釈を載せます。
「折口信夫によれば、稲飯(いなひ)命・三毛入野命は、神武天皇の威力の源泉となった威霊の名で、稲の霊・御食野(みけの)の霊であって、この二魂が遊離した(入水した)結果、つぎの熊野荒坂の津の「をえ(やまいだれに「卒」の字。威霊の去った後の萎微)」が生じたと解釈した」
既に戦死した五瀬(いつせ)命を含めて三人の兄を失った神武は、なおも息子のタギシミミ命と軍を率いますが、荒坂の津で「神、毒気を吐きて、人ことごとくをえぬ」という事態になります。よく分かりませんが、まるで毒ガス攻撃を受けたかのようです。古事記では「熊野村に到りましし時、大熊ほのかに出で入りて即ち失せぬ。ここに神倭伊波礼毘古命、たちまちにをえまし、また御軍も皆をえて伏しき」と書いてあります。
危ういところを熊野の高倉下(たかくらじ)に救われますが、この高倉下がまた、謎の人物なのです。
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