2018年04月

聖書は世界的なベストセラーです。それに次いで多く読まれたのはユークリッドの『幾何学原論』だと言われますが、今日は旧約聖書の『創世記』に注目したいと思います。
高橋和夫は『スウェーデンボルグの思想』でスウェーデンボルグによる創世記の解釈を紹介しています。それに先立って次のような前置きがあります。

天地創成をめぐる聖書の記述は神的な霊感を吹き込まれて書かれた神のことばだという主張に対して、多くの異議が唱えられている。聖書の記述は地質学や進化論と矛盾するという説、その神話はバビロニアの創成神話の焼き直しにすぎないという説、さらには、文献批評によって聖書の歴史的検証を重んずる「高層批評」による原資料の寄せ集め説など、論争は絶えず、聖書の権威は揺らいできている。

この前置きは岩波文庫の『創世記』(関根正雄訳)の解説にも見られる一般的な見解ですが、高橋氏によるとスウェーデンボルグの解釈は全く違います。

彼によれば、「創世記」の作者たちは霊界と自然界とが全体的にも個別的にも照応することを熟知しており、(中略)神による宇宙や人類の創造という主題だけを扱おうとしたものではなく、もっと明確な宗教的意図のもとに書かれたものであるという。その意図とはつまり、一つは、生物学的な「ヒト」から霊的な「人間」へと新生してゆく人類の霊的な進化のプロセスの叙述であり、いま一つは、霊的な新生へと向かう個人の精神的な成長のプロセスの叙述である。

これは面白い解釈で、これが正しいとすれば、「その記述が進化論と一致するとかしないとかいう議論も意味がない」ということになります。高橋氏は深入りを避けていますが「スウェーデンボルグによれば、バベルの塔の神話を扱う「創世記」第11章までは、「創世記」の他の章から本質的に分離した、原聖書とも言うべき人類最古の宗教文書である」とのことです。
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『禁色』の老作家・檜俊輔は美青年・南悠一に全財産を遺贈する遺書を残して自殺する前、みずから「檜俊輔論」を書き上げます。その中で十六歳のときに書いた短い寓話『仙人修業』を取り上げ「彼の後年の主題が悉く含まれているのを見て、われわれは愕くのである」と語ります。

「私」は仙人たちの洞窟に使われている侍童である。侍童はこの山岳地帯の生まれで、幼時から霞以外のものを喰べたことがない。(中略)ある悪賢い村人が、悪疫にかかった羊の肉を売った。これを喰べた仙人たちは、毒に中って、次々と斃死した。毒の肉の売られたことを知った善良な村人たちは、心配して山頂へ登ってきたが、霞だけしか喰わなかった不老不死の仙人たちが悉く死に、毒の肉を喰った侍童が元気でいるのを見て、かえって侍童を仙人として尊崇する。

檜俊輔は続けてこの作品を解説しますが、これは三島由紀夫による三島由紀夫文学の解説と見てもよいように思われます。

ここで語られているのは、云うまでもなく、芸術と生活に関するサティールなのだ。侍童は芸術家の生活の詐術を知る。・・侍童は生まれながらに、この詐術の極意、生活の秘鑰(ひやく)を握っている。つまり彼は本能的に、霞をしか喰べないので、無意識の部分が芸術家の生活の最高の詐術であるという命題を体現しながら、同時に無意識なるが故に、にせものの仙人たちに使役せられているのである。仙人たちの死によって、彼の芸術家の意識がめざめる。・・この意識化、天賦の才を最高の詐術として利用すること、これによって彼は生活を蝉脱して、芸術家になるのである。

俊輔が死んだ翌朝、悠一は散歩しながら「一千万円、花が何本買えるだろう」と心に呟き、駅の前に二三人の靴磨きが並んでいるのを見て「まず靴を磨いて」と思うのでした。
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三島由紀夫の『禁色』(きんじき)を読みました。野口武彦によれば「『盗賊』を作者自身の呼称にしたがって「試作」、『仮面の告白』を戦後文壇への登場作であるとすれば、この『禁色』は質量ともに戦後文学の世界の中で三島氏の作家的地位を不動のものにした作品」であり、極めて興味深いですが、女性を愛さない美青年・南悠一が妻・康子の出産に立ち会う場面に今日は注目したいと思います。
現代でも妻の出産に立ち会う夫は多くはないと思われます。まして戦後すぐの時代では全く考えられないことだったでしょう。悠一は老作家・檜俊輔から「それが出来れば、おそらく君には新らしい生活がはじまる筈だが、まあ無理だろう」とけしかけられ、「きっと後悔しますよ」「なんて酔興でしょう」と呆れられながら、ついに立ち会いを強行します。

『見なければならぬ。とにかく、見なければならぬ』と彼は嘔吐を催おしながら、心に呟いた。『(中略)外科医はこんなものにはすぐ馴れる筈だし、僕だって外科医になれない筈はないんだ。妻の肉体が僕の欲望にとって陶器以上のものではないのに、その同じ肉体の内側も、それ以上のものである筈はないんだ』

しかし、それは陶器以上のものでした。「康子の下半身のまわりで行われている作業は、嵐に抗する船の船員の作業のような、力をあわせた肉体労働」に類するものでした。
生まれたのは女の子で、後に「渓子」と名付けられました。康子は悠一も渓子も見ようとせず、微笑も浮かべません。

この無感動な表情は、正しく動物の表情で、人間がめったなことではうかべることのできなくなった表情である。それに比べると、人間のどんな悲喜哀歓の表情も、お面のようなものにすぎないと悠一の中の「男」は思った。

「出産」と「切腹」の相似については言い古されていますが、やはり連想してしまいます。
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「葉隠」は一応、選びうる行為としての死へ向かって、われわれの決断を促しているのであるが、同時に、その裏には、殉死を禁じられて生きのびた一人の男の、死から見放された深いニヒリズムの水たまりが横たわっている。人間は死を完全に選ぶこともできなければ、また死を完全に強いられることもできない。

『葉隠入門』で三島由紀夫が展開する「死」の議論には、宗教的な「自力」と「他力」の対立が反映されているように思われます。三島はさらに具体的に解説します。

ある場合には完全に自分の選んだ死とも見えるであろう。自殺がそうである。ある場合には完全に強いられた死とも見えるであろう。たとえば空襲の爆死がそうである。
しかし、自由意思の極致のあらわれと見られる自殺にも、その死へいたる不可避性には、ついに自分で選んで選び得なかった宿命の因子が働いている。また、たんなる自然死のように見える病死ですら、そこの病死に運んでいく経過には、自殺に似た、みずから選んだ死であるかのように思われる場合が、けっして少なくない。

三島は第二次大戦中の「神風特攻隊」のイメージを『葉隠』の死の理想に近いと評価しますが、当然に予想される反発も考慮しています。この考慮が十分なものかどうかは議論がありそうです。

いま若い人たちに聞くと、ベトナム戦争のような誤った目的の戦争のためには死にたくないが、もし正しい国家目的と人類を救う正しい理念のもとに強いられた死ならば、喜んで死のうという人たちがたくさんいる。
(中略)
しかし、人間が国家の中で生を営む以上、そのような正しい目的だけに向かって自分を限定することができるであろうか。またよし国家を前提にしなくても、まったく国家を超越した個人として生きるときに、自分一人の力で人類の完全に正しい目的のための死というものが、選び取れる機会があるであろうか。

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稲垣足穂は『新潮』1965年1月号に載せた「蔵書一冊「作家のプライド」」というエッセイで、広辞苑が私の唯一の蔵書だと書いています。冒頭の部分は次のようです。

恵心僧都の年代に五百年もの狂いがあるので、その由を注意したところ、新版では直してあるとのことであった。又、看聞御記の著者が御崇光天皇とあるので、「そんなミカドはいない。それは後花園天皇のお父さんで、太上皇を贈られた後崇光院のことであろう」と云ってやると、「なるほど間違っていた、さっそく訂正する、有難う」との返事がきた。

こんな足穂ですが、末尾のほうで『葉隠』に触れているのが興味を引きます。少し前から引用します。

自動車も飛行機も、私には四十年前に卒業済みだ。ロケットは、エスノート・ペルテリ、オーベルト博士、ゴッダート教授の頃からのお馴染である。十二、三の頃、このまま英国へでも行ってしまいたいと思っていたのだから、その希望が失われたのだから、いまさら何処へも行きたいとは思わない。"Anywhere, out of world"(中略)
では創作にいそしむわけか? これだってタカが知れている。葉隠の口述者が、「若い者には誤解される懼れがあるので聞かされないが」と前置きして、次のように述べている。「人の一生は短いから、なるべく好きなように暮せばよいのである。自分は寝るのが好きだから、暇があったら横になっている」と。

私などは若い頃にこの文章を読んで誤解してしまったのかもしれません。
三島由紀夫も『葉隠入門』でこの文章に注目しています。

「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という「葉隠」のもっとも有名なことばは、そのすぐ裏に、次のような一句を裏打ちとしているのである。
「人間一生誠にわづかの事なり。好いた事をして暮すべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦を見て暮すは愚なることなり。この事は、悪しく聞いては害になる事故、若き衆などへつひに語らぬ奥の手なり」と言っている。

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