澁澤龍彦のエッセイ「付喪神」には、『金閣寺』からの引用に先立って次のような文章があります。
アニメーションという言葉がある。動画と訳される。語源的には、物に生命を吹きこむというほどの意味だが、現在では、静から動を生ずる映画トリックをさす技術用語として一般化している。ボッシュやブリューゲルの器物のお化けは、画家の物に対する執着が、ついに物をアニメイトするにいたった結果ではないかと私は考えたい。
澁澤は同じエッセイ集『思考の紋章学』の中のエッセイ「幻鳥譚」の中で、上の文章にそのまま通じるような考察をしています。
子供や動物が主人公となり得る物語の世界、それはまた、ただちに御伽草子の世界に通じるものでもあろうし、鳥獣戯画の世界に通じるものでもあろう。何なら動物文学の伝統といってもよい。そして、日本文学におけるこうした伝統に思いを馳せるとき、それと対照的にどうしても私の目の前に浮かんでこざるを得ないのは、あの古今集が確立し、新古今集が絶頂にまで高めたところの、子供や動物とはまったく縁のない、蒼ざめた観念世界の秩序の伝統なのである。
ここで澁澤は生き生きしたアニメーションと対照的な観念世界の伝統に言及し、「三島由紀夫がうまいことをいっているので、その文章(『日本文学小史』)を遠慮なく」引用します。
「百三十四首の春歌の中で、もつとも頻出度の高い『花』といふ一語をとつてみるだけでも、古今集の特色がわかる。すなはち花は、あの花でもこの花でもなく、妙な言ひ方だが極度にインパーソナルな花であり、花のイメージは約束事として厳密に固定されてゐる。花についての分析も禁じられ、特殊化、地域的限定(地方色)、種別その他も禁止されてゐる。ここには犯すべからざる『花』といふ一定の表象があり、『花』は正に『花』以外の何ものでもなく、従つて『花』と呼ぶ以上にその概念内容を執拗に問ふことは禁じられてをり、第一さういふ問は無礼なのである。」
これは三島が『小説家の休暇』で世阿弥の「花」に言及した文章と似て非なるものです。澁澤はさらに舌鋒鋭く続けます。
かくて新古今の美学はネクロフィリア(屍体愛好)に似てくるのだ。それでも屍体愛好は一つの美学であり、そういってよければ、高度に自律的な観念世界の美学、言語的秩序の美学である。やがてこの屍体が分解して腐臭を放ちはじめるとき、もはや完全に内容を喪失して空っぽになった観念の幽霊鳥が、応仁の戦火によって赤々と燃える中世の夕焼け空を飛びまわり出すのである。
私がさらに補足するならば、その夕焼け空はもはや中世ではなく、溝口が放火した金閣寺が赤々と燃え、三島と森田の切腹の血が赤く染めているのです。
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