2018年05月

三島由紀夫は時間をよく守る人でしたが、『天人五衰』では「時間」について次のように書いています。

・・利子や各種の利得は、時を刻むにつれて少しずつ増大していたのである。
人々はそうやって財産が少しずつふえてゆくと思っている。物価の上昇率を追い越すことができれば、事実それはふえているのにちがいない。しかしもともと生命と反対の原理に立つもののそのような増加は、生命の側に立つものへの少しずつの浸蝕によってしかありえない。・・そのとき人は、利子を生んでゆく時間と、自分の生きてゆく時間との、性質のちがいに気づく。

コリン・ウィルソンはSF小説『賢者の石』で「時間」を次のように説明しています。(中村保男訳)

何よりもまず、時間とは何か。それは意識の働きであり、それ以外の何ものでもない。外界で起こっていることは「過程」すなわち新陳代謝であり、そこには時間はない。時間旅行をテーマとした従来の物語がひどく理屈に合わない莫迦莫迦しいもので、その種の時間旅行があれほどたくさんのパラドックスを生じさせるのは、このためである。(中略)外に横たわる「時間」などというものはないのだ。「時間」は、過程という観念を勝手に抽象したものにすぎない。「時間旅行」と言えば尤もらしく聞こえるが、厳密に「過程内の旅行」あるいは「新陳代謝を通りぬける旅行」と言ったとすれば、それが莫迦げたたわごとであることが一目瞭然となる。

アインシュタインが相対性理論を発表して、時間旅行は半分、あるいは四分の一は可能だと考えられるようになりました。それは未来への片道旅行に限られます。これならパラドックスは発生しません。
現代人はまるで時間の奴隷で、時間とお金以外には何も存在しないかのように生活しています。「時間を無駄にするな」などと言う人は、恐ろしい勘違いをしているのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

澁澤龍彦は『夢の宇宙誌』に収められた論文『アンドロギュヌスについて』の中に「生殖に奉仕しない愛欲について」という一章を設け、ゾウリムシの接合に注目しています。

淡水の沼や溝に棲む微小な滴虫ゾウリムシは、一般に分裂による増殖を行う。すなわち、己れの唯一の細胞を分裂して、二つの相似たゾウリムシに分れるのである。この分裂は日に一度ないし二度行われるので、二十日もたたぬうちに、たった一匹のゾウリムシから百万匹もの同類が誕生することもある。一年もたてば、天文学的数量に達するゾウリムシの大群がうじゃうじゃ生まれる。性も必要とせず、愛も必要としない繁殖。しかるに、時あって、彼らのあいだに愛の必要が生ずるのは、いかなる神の摂理によるものであろうか。

三島由紀夫の小説『美しい星』で邪悪な宇宙人たちと論争する火星人・大杉重一郎の言葉は、この澁澤の疑問に裏側から答えています。

「愛と生殖とを結びつけたのは人間どもの宗教の政治的詐術で」と重一郎は平然とつづけた。「ほかのもろもろの政治的詐術と同様、羊の群を柵の中へ追い込むやり方、つまり本来無目的なものを目的意識の中へ追い込む、あの千篇一律のやり方の一つなのだね。性的対象への欲望は、滑りやすい暗黒の中を手さぐりするようなものなのに、最高の目的意識と目される愛の蝋燭をその手に持たせると、対象はあたかもありありと神々しく照らし出されたような錯覚を与える。(中略)
人間はこの蝋燭の光りをたよりに生殖を営むことに慣れてしまった。われわれは彼らを、愛のない壮大な生殖の場面、あの太古の宇宙的な闇の中で営まれた生殖の場面へ、引戻してやらなくてはならない」

澁澤も「ああ、性を生殖に奉仕させる理論の、ブルジョワ的俗悪さよ!」と嘆きながら、次のように結論します。

性とは、詮じつめれば、二元的になった生命の一つの表現形式、としか言えないのではなかろうか。性的結合は、この二元性を解消しようとする一つの方法、単なる一つの方法であって、それ以上でもそれ以下でもないのではないか。ゾウリムシの接合から導き出される必然的帰結は、このようなものである。

お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

前回の投稿で、手塚治虫が漫画化した「火の鳥」とイエス・キリストの関係を指摘しましたが、「火の鳥」は秋の星座にもなっています。和名は「ほうおう(鳳凰)座」です。原恵氏の『星座の文化史』から引用します。

ほうおう(鳳凰)座(秋、南天)
晩秋の宵、南の地平線に近く南中する星座で三等星が二つ、くじら座の尾の先の星デネブ・カイトスの南のほうに見えるあたりである。
がんらいは古代ギリシアやローマでその存在が信じられた不死鳥である。美しい金色と赤い翼の霊鳥でインドに住み、五百年の寿命がおわると、自らたきぎを積んで焼け死に、その灰の中から若々しくよみがえって、再び飛び立つという。夕方西に沈んで、翌朝東にのぼる太陽の象徴であるともいうが、中世の間に、フェニックスは十字架上に死んで三日目によみがえったキリストのシンボルとなった。
わが国では、明治以来この星座は鳳凰と訳されてきたが、これは西洋のフェニックスとは同一のものとは言えないが、東西の霊鳥をうまくあてはめた訳ではある。

手塚治虫の『火の鳥』でも、奈良時代の日本を舞台にした巻は『鳳凰編』と名付けられています。
三島由紀夫の『豊饒の海』第一巻『春の雪』では(好きな場面なので既に何度か取り上げました)清顕・本多とシャム(タイ)の二王子が夏の星座を見上げる場面で「白鳥座の北十字星」が登場します。白鳥座はギリシアの大神ゼウスが変身し、レダのもとに通った姿とも言われますが、キリスト教徒はこれを神聖な十字架と見ました。改めて見ると、フェニックスか鳳凰のようにも見えてきます。『春の雪』ではこのすぐ後で、松枝清顕が飯沼勲に生まれ変わって猟銃で鳥を撃つ夢(もちろん清顕は自分が生まれ変わったとは気付かない)を見る場面が続き、独特な効果をあげています。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

四つの福音書の中で「ヨハネ福音書」は特に興味深いです。書き出しのところから、ギリシア哲学を思わせます。

世の始めに、すでにロゴス(言葉)はおられた。ロゴスは神とともにおられた。ロゴスは神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの一つもない。この方は命をもち、この命が人の光であった。この光はいつも暗闇の中に輝いている。

「パン問答」のイエスの言葉は「火の鳥」伝説を思わせます。

アーメン、アーメン、わたしは言う、人の子わたしの肉を食べず、その血を飲まねば、あなた達の中に命はない。わたしの肉を食い、わたしの血を飲む者は、永遠の命を持つ。わたしはその人を最後の日に復活させる。わたしの肉は本当の食べ物、わたしの血は本当の飲み物だから。わたしの肉を食いわたしの血を飲む者は、わたしに留っており、わたしも彼に留っている。

他の三つの福音書では、イエスは最後の晩餐で弟子達にパンと葡萄酒を与えて「これはわたしの血であり、体である」と言います。
手塚治虫の『火の鳥』は日本人向けに女性化されていますが、まさにイエス・キリストを表しているように思われます。佐藤忠男が指摘していたように、『火の鳥』望郷編は紛れもなく旧約聖書のパロディです。
三島由紀夫は手塚治虫の漫画を日教組やマルクシズムと結び付けて嫌っていたようですが、三島らしくもない浅薄な見方だと思います。「聖セバスチャン」への三島の傾倒は、イエス・キリストと紙一重、というより同一ではないでしょうか。「日本」「天皇」を重んじる三島の立場が、それを意識させなかったのかもしれません。「日本」「天皇」に何の価値も置いていない稲垣足穂は躊躇せず

キリストはダンディーの極致である。

と『弥勒』で書いています。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

岩波文庫の塚本虎二訳で、新約聖書の『福音書』を初めて読んでいます。私は何故かキリスト教が嫌いで、今まで真面目に読んだことがありませんでした。
福音書は四つあり、マルコ、マタイ、ルカの三つはよく似ていて「共観福音書」と総称されます。ヨハネは全然別の立場から「ヨハネ福音書」を書いています。
多くの発見がありましたが、一番驚いたのはイエス・キリストの母である聖母マリアの記述が少ないことです。聖母マリア信仰は本来のキリスト教には無かった要素で、後世に付加されたことは知識としては知っていましたが、聖書を読んで確認すると、大きな驚きでした。
それどころか、「マルコ福音書」の中でイエスが次のように発言する場面まであります。

そこにイエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていてイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスのまわりに坐っていたが、彼に言う、「それ、母上と兄弟姉妹方が、外であなたをたずねておられます。」イエスは「わたしの母、兄弟とはだれのことだ」と答えて、自分のまわりを取りまいて坐っている人々を見まわしながら、言われる、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。神の御心を行う者、それがわたしの兄弟、姉妹、また母である。」

この少し後で、イエスは郷里のナザレで伝道するのですが・・

「これはあの大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブとヨセとユダとシモンとの兄弟ではないか。女兄弟たちは、ここで、わたし達の所に住んでいるではないか。」こうして人々はイエスにつまずいた。そのため彼の言葉に耳を傾ける者がなかった。イエスは彼らに言われた、「預言者が尊敬されないのは、その郷里と親族と家族のところだけである。」郷里の人々の不信仰のゆえにそこでは何一つ奇蹟を行うことが出来ず、ただわずかの病人に手をのせて、なおされただけであった。イエスは人々の不信仰に驚かれた。

「マタイ福音書」と「ルカ福音書」にも同じような記述が見られます。「ルカ福音書」では、イエスは怒った郷里の人々によって、危うく山の崖から突き落とされそうになったと書かれています。
仏教でも「出家」は家を出ると書きますから、それほど驚くようなことでもないわけですが。現代日本の葬式仏教のイメージから見ると、やはり驚くべきかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

↑このページのトップヘ