2018年07月

https://youtu.be/bmw_VRo55kY
私が中学生の頃によく聴いた太田裕美さんの曲です。この『遠い夏休み』は『手作りの画集』(1976年)というアルバムに入っていました。なかなかの名曲で、この季節になると聴きたくなります。
太田裕美と言えば『木綿のハンカチーフ』を思い出す人が多いと思いますが、彼女はこの曲が嫌いだったそうです。

私だったら『木綿のハンカチーフ』の彼女みたいに待たないわ。彼を追ってさっさと都会に行っちゃう。

こんなことを何かの週刊誌で語っていたのを読んだ記憶があります。
『木綿のハンカチーフ』は不思議な曲で、いつ聴いても初めて聴くような新鮮さが感じられます。「こんな歌詞、現実には有り得ないよな」と昔の私は思っていて『しあわせ未満』のほうが好きだったのですが、『木綿』の神話的な美しさも認めるようになりました。太田裕美さんのヒット曲はほとんど松本隆と筒美京平の作詞・作曲です。
『木綿』と対照的に太田さん自身が大好きだったのは『九月の雨』で、『こけてぃっしゅ』(1977年)というアルバムから彼女自身の強い希望でシングルカットされたのですが、喉をこわしてしまって苦労されたようです。彼女の声質にはあまり合っていない歌のように思われます。ただ歌詞も曲も素晴らしく、太田さんが気に入ったのもよく分かります。最後の「♪愛がきのうを消してゆくなら私あしたに歩いてくだけ」とか、最高です。
太田裕美さんは特徴的な声と独特な世界を持つ歌手だと思います。少し舌足らずで、曲によっては歌詞が聞き取りにくい場合もあります。私の母の表現を借りると「青春のはかなさ」・・なるほど。バラエティ番組で共演した堺正章から「やる気があるのかないのか分からないような歌手」と茶化されておりました。(笑)
水越けいこさんも個性的な声の持ち主ですが、アイドル歌手は声に特徴がないと売れない気がします。かとうれいこさんも結構上手いのですが、あまり声が印象に残らないのですね。
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黒田有彩(くろだ・ありさ)さんという女性タレントをご存じでしょうか。お茶の水女子大学物理学科在学中に『キャンパスナイトフジ』に出演され、その後『シューイチ』にも出演されていました。宇宙飛行士を目指すと公言されて『すべての道は宇宙に通ず』というメルマガを発行され、私も購読しておりました。メルマガ終了後は疎遠になってしまいましたが、今も宇宙方面で活躍されています。
黒田さんは2015年、大学の先輩であるTBSアナウンサー・加藤シルビアさんと共著で『宇宙女子』という本を出しておられますが、その中でこんな会話をしておられます。

黒田:人類は、本当に月に行ったんですかねぇ・・。
加藤:え? 黒田さん、「アポロは月に行ってない派」なの? そういう説が世の中にあることは知ってるけど・・。
黒田:いや、そんなに確固たる自信があるわけじゃないんですけど、いろいろ考えてみると、腑に落ちないことがたくさんあるんですよ。

アポロ計画は1961年、ケネディ大統領が「アメリカは1960年代のうちに人間を月に送る」と宣言したところから始まりました。そして1960年代最後の年、1969年7月、アポロ11号でアームストロングとオルドリンの二人が月面の「静かの海」に着陸し、星条旗を立てる映像が世界に伝えられました。
この事件は大きな意味がありました。第二次世界大戦に負けてアメリカの属国となっていた日本では「アメリカは文字通り天(アメ)の国、科学(理科)の国だ。アメリカは世界の永遠絶対の支配者だ。ケネディは人類史上最高の偉人だ」という神がかりのような認識が広まりました。
三島由紀夫も、この事件に疑問を持った形跡はありません。三島は当時『豊饒(ほうじょう)の海』という長編の遺作を書いていました。このタイトルは月面の地名から取られたものです(今は「豊かの海」と訳されています)が、特にこの事件を詳しく論じたことは無かったようです。
立花隆の『宇宙からの帰還』には、バズ・オルドリンは地球に帰還した後に精神病になったこと、ジム・アーウィンはキリスト教の伝道師になったことなどが記されています。立花氏はそれを「感動的な宇宙体験」によるものだと説明しています。しかし、アメリカ帝国による重大な「歴史の偽造」に関わった罪の意識のために発狂したのかもしれません。彼らは真実を知らされずに洗脳された可能性もあります。その洗脳の後遺症かもしれません。
立花氏は「知の巨人」と言われていますが、私はやはり胡散臭さを感じてしまいます。立花氏らによって徹底的にイメージを悪くされた田中角栄や佐藤昭子さんについても、多くの人達に実像を知ってほしいものです。
黒田有彩さんも今の立場では思い通りのことは言えないでしょうが、素朴な疑問を大切にしてほしいと思います。
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養老孟司氏の『身体の文学史』は面白い本です。日本の近代文学全般を扱っていますが、あとがきによると「この『身体の文学史』での私の意図の一つは、三島事件とはなんだったのかを考えることだった」ということです。
1956年の第1回「中央公論」新人賞を得た深沢七郎の『楢山節考』は問題作でした。審査員の一人だった三島由紀夫はこの作品は「怖い」と言いました。

三島はゆうべは怖い小説を読まされて、眠れなかったと言う。選評でも、耐えがたく怖いと述べる。そこに歴然と表われるのは、深沢七郎の世界ではなく、むしろ三島が住む世界である。いったい三島は『楢山節考』のどこを評価したのか。評価がはっきり意識化されていないように思われる。ホラー小説の選考ではあるまいし、ただ「怖い」ではなんとも要領を得ない。

三島は養老孟司氏が言うところの「脳化社会」(都市)の人間です。それに対して深沢は、都会暮らしも経験しましたが、本質は山村の人間です。天皇制以前、おそらく縄文時代にまで遡り、日本人の無意識を占めている世界でしょう。その世界は日本の近代文学では排除されてきたものです。
同じく中央公論新人賞の審査員だった伊藤整は次のように述べました。

近代文学の中での人間の考え方ばかりが、必ずしもほんとうの人間の考え方とは限らない。・・僕ら日本人が何千年もの間続けてきた生き方がこの中にはある。ぼくらの血がこれを読んで騒ぐのは当然だという感じがする。

私は『楢山節考』を図書館で読み、姥捨て山の話は怖いなと思いましたが、眠れないというほどではありませんでした。都市では「自然」は排除されますが、農村では自然と向き合って生きなければなりません。日本の近代文学で排除されてきた「自然」は、また「身体」でもあります。
三島由紀夫は蛙の鳴き声を聞いても、その鳴き声が蛙だと分からず「あれは何の声だ?」と尋ねたという話があります。そんな三島も晩年には「自然」に目覚め、自衛隊の演習で富士山の周辺を走破したり、ボディビルに凝ったりしたという見方も出来そうです。そして最後は「切腹」という形に至ったのかもしれません。
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三島由紀夫と東大全共闘の伝説的な公開討論は1969年5月13日に行われました。同年1月には機動隊を迎え撃った安田講堂攻防戦があり、東大入試も中止されました。公開討論も安田講堂で行われたと勘違いしている人もいますが、本郷ではなく駒場キャンパスの講堂(900番教室)でした。
30年後の1999年、全共闘のメンバーは再び集まりました。その一人・木村修氏は当時の会場の緊迫を回想します。

・・つまりまあ公式主義的な世俗的な理解に基づいて、三島由紀夫イコールファシストであるというような世俗的な理解に基づいて潰しに来るようなところがあるかもしれない。ただそれに対してはこれはゲバルト(暴力的対決)になるのはやむを得ないと、その覚悟はしてましたね。付け加えて言うと、三島さんが襲われるかもしれないというんで「楯の会」のメンバーが十人ほど来てたそうです。

しかし、当の三島は「愉快な経験」をしました。

・・ふと見ると、会場入口にゴリラの漫画に仕立てられた私の肖像画が描かれ、「近代ゴリラ」と大きな字が書かれて、その飼育料が百円以上と謳つてあり、「葉隠入門」その他の私の著書からの引用文が諷刺的につぎはぎしてあつた。私がそれを見て思はず笑つてゐると、私のうしろをすでに大勢の学生が十重二十重と取り囲んで、自分の漫画を見て笑つてゐる私を見て笑つてゐた。

この討論で三島が用意していた論理は次の五つでした。

一は暴力否定が正しいかどうかといふことである。
二は時間は連続するものか非連続のものかといふことである。
三は三派全学連はいかなる病気にかかつてゐるのかといふことである。
四は政治と文学との関係である。
五は天皇の問題である。

三島は討論を振り返る文章に『砂漠の住民への論理的弔辞』というタイトルを付けています。文中に「了解不可能な質問と砂漠のやうな観念語の羅列の中でだんだんに募つてくる神経的な疲労は・・」とありますが、中東の砂漠に向かった日本赤軍を予感させる表現にも思えます。思えば田中角栄も、オイルショックに対処するためアラブ(アブラ、石油)重視の外交をせざるを得ず、アメリカとイスラエルにやられました。
木村修氏は三島の死について次のように述べています。

三十年前、日本は自衛隊のヴェトナム派兵を、当時の米国ニクソン大統領から強く要求されていて日本政府は屈服寸前だった。韓国は既に派兵していた。彼は生命を賭けて阻止に向かったのだと思う。

これも一つの見方です。
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三島由紀夫の『金閣寺』の第四章、主人公の溝口が内飜足(ないほんそく)という不具をもつ柏木と出会う場面で、柏木は自分の内飜足を解説してみせます。

・・しかし忽ち内飜足が俺を引止めにやって来る。これだけは決して透明になることはない。それは足というよりは、一つの頑固な精神だった。それは肉体よりももっと確乎たる「物」として、そこに存在していた。
鏡を借りなければ自分が見えないと人は思うだろうが、不具というものは、いつも鼻先につきつけられている鏡なのだ。その鏡に、二六時中、俺の全身が映っている。忘却は不可能だ。

溝口はこれより前、第二章で親友の鶴川と南禅寺を訪れた時、これから出陣する若い陸軍士官と、彼の子を孕んだ女との「別れの儀式」を目撃します。女は乳房の片方を引き出し、士官が捧げ持つ茶碗に白いあたたかい乳をほとばしらせ、士官は乳の混じった茶を飲み干したのです。
溝口は第六章で柏木に導かれ、この女と再会します。すでに鶴川は亡く、士官は戦死し、子供は死産でしたが。
「そうやったの。いやア、そうやったの。何ていう奇縁どっしゃろ。奇縁てこんなことやわ」
女はそう言って、溝口の前で左の乳房を掻き出して見せました。

私には美は遅く来る。人よりも遅く、人が美と官能とを同時に見出すところよりも、はるかに後から来る。みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、・・肉を乗り超え、・・不感のしかし不朽の物質になり、永遠につながるものになった。
私の言おうとしていることを察してもらいたい。又そこに金閣が出現した。というよりは、乳房が金閣に変貌したのである。

これを柏木の内飜足の描写にきわめて似ています。溝口流に言えば、内飜足は柏木にとっての「金閣」であったということでしょうか。

こうして又しても私は、乳房を懐ろへ蔵う女の、冷め果てた蔑みの眼差に会った。私は暇を乞うた。玄関まで送って来た女は、私のうしろに音高くその格子戸を閉めた。

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