2018年07月

前回の続きです。佐藤昭子さんは2010年3月11日、東日本大震災のちょうど1年前に81歳で亡くなりましたが、2012年に娘の敦子さんが出した母の伝記が『昭・田中角栄と生きた女』です。
表紙は幼い頃の敦子さんと父・田中角栄のツーショットですが、表紙裏は幼い敦子さんと母のツーショットです。これは海水浴場で撮られた写真で、二人とも水着姿で巨岩に腰掛け、脚を伸ばしています。昭子さんは妖艶そのものです。こちらを表紙にする方が売れただろうと思いますが、下品過ぎるとして却下された?
前回に紹介した昭子さんの自伝ともいえる『私の田中角栄日記』(1994年)では重要なことが書かれていなかったことを、敦子さんは明らかにしました。昭子さんは最初の結婚で男の子を産んでおり、その子は離婚のとき夫に「取られた」のです。敦子さんの異父兄です。
昭子さんはその後、田中角栄と再会して秘書になりますが、児玉隆也氏が文藝春秋の記事で明らかにしたように、一時キャバレーで働いていました。そのキャバレーの客だったT氏が昭子さんの二番目の夫です。1957年に生まれた敦子さんの戸籍上の父はT氏です。昭子さんは角栄と愛人関係にあったのに、なぜT氏と再婚したのでしょうか。敦子さんは朝賀昭(あさが・あきら)氏に疑問をぶつけました。朝賀氏は敦子さんが「お兄ちゃん」と呼んで慕う人で(もちろん赤の他人です)角栄の秘書として、昭子さんの下で働きました。
「腹いせだよ」
朝賀氏は即答しました。言うまでもありませんが、角栄にははなさんという妻がいました。

「ママ(昭子さんのこと。引用者注)はオヤジ(角栄のこと。同)に迫ったんだ。『私はプロポーズされたのよ。結婚してくれと言われているのよ、私がお嫁にいってもいいの!』とね。ママの性格だ。一度入れたギアを戻せなくなったんだ。煮えきらない態度を続けるオヤジに対して、ママは腹いせでTさんと結婚したんだよ」

朝賀氏はさらに、敦子さんの出生についても説明しました。

「あつ子は、ママが謀りに謀って生まれてきたんだ。(中略)戸籍上はTさんの子だ。もし子供を生む前に、Tさんと離婚したら、オヤジの認知を受けなければならない。オヤジに認知をさせずに、オヤジの子を生もうとママは考えたんだ」

敦子さんはこれを聞いて「理屈としては通る話だが、何か大事な考えが欠落しているのではないか」と思いました。実際、敦子さんは思春期に深く悩み(出生だけが原因ではないと思われますが)自殺未遂などを繰り返しました。
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「越山会の女王」佐藤昭子さんについては、当ブログでも過去に取り上げたことがあります。「壮絶」という言葉がふさわしい生涯についてはウィキペディアに纏められているので、田中角栄の死の翌年に発行された『私の田中角栄日記』で印象的な文章を紹介したいと思います。

私はお嫁に行ってその亭主に食べさせてもらうなんていう観念は、初めからさらさら持ってはいなかった。(中略)夢多き少女のころから私は自立ということを常に考え続けていた。自分の力で自分の人生を生きていかねばならない。数学が得意だった私は、自立という言葉が女学校の先生になって教壇に立つという姿に結晶していた。東京の学校に行きたい、数学の先生になりたい・・

昭子さんは新潟県に生まれ、6人きょうだいの末っ子でしたが、親きょうだいが次々と病死し、15歳で天涯孤独の身となりました。「こうした境遇に育った私にとって、自分の力で人生を生きるというのはごく当たり前のことだった」と彼女は言います。
1945年、親戚に内緒で東京女子専門学校の二次試験を受けるために上京し、みごと合格しますが、3月10日のアメリカ軍による大空襲で学校が焼けてしまいます。

けたたましい空襲警報、轟音をあげて飛来するB29。親兄弟全員が亡くなっていたせいか、死を恐れる気持ちはあまりなかった。どうにでもなれという意識からか、防空壕にも入らず、下宿の物干しに上がって真昼のように明るく燃え続ける夜空を空虚な目で見つめていた。

三島由紀夫の『仮面の告白』が思い出されます。郊外にいて空襲を免れた主人公は、帰ってきて惨状を目の当たりにします。

都内の環状線に乗りかえると九割方が罹災者の乗客だった。ここにはもっと露わな火の匂いが息まいていた。人々は声高に、むしろ誇らしげに、自分たちが今くぐって来た危難のことを語っていた。彼らは正しく「革命」の群衆だった。なぜなら彼らは輝やかしい不満・充溢した不満・意気昂然たる・上機嫌な不満を抱いた群衆であったからだ。

紆余曲折を経て昭子さんは田中角栄と出会い、共に人生を歩むことになります。この本は第一部「二人三脚」、第二部「波瀾万丈」、第三部「落花流水」に分けられ、各部の冒頭には彼女が愛読した『スコットランド女王メアリ』(アントニア・フレイザー著、松本たま訳)から引用した言葉が掲げられています。
昭子さんは最後をこう結んでいます。

私の事務所の部屋からは、田中の最後の事務所となったイトーピアが見える。ふと、窓外に目をやる時、あの総裁選で勝利した時の堂々たる田中の姿がまぶたに甦ってくる。
政治家としての最高の日。あんなにいい顔はなかった。男の本懐をなし遂げ、毅然とした自信に満ち溢れていた。
そして、もうひとつの稚気溢れた人間田中角栄の顔があった。ホールイン・ワンをした時の子供のような笑顔。親しい人がくると一日四ラウンドもした自分のゴルフスコアをメモにして見せる得意そうな顔。秘書相手に将棋をやっている時、相手の駒を取ってニコニコしている顔。
そのすべてを、私は好きだった。

余談ですが、サトエリこと佐藤江梨子さんが田中角栄と佐藤昭子の孫だという噂がありました。昭子さんは、かとうれいこさんやマリリン・モンローも顔面蒼白となるスタイルの持ち主だったので私も本気にしかけましたが、昭子さんの娘・敦子さんは1987年に娘を産んだと記しており、江梨子さんは1981年生まれなので、これは都市伝説と見られます。
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三島由紀夫の『鏡子の家』第五章、喫茶店「アカシヤ」での武井との論争に疲れて外に出た山形夏雄に、追ってきた舟木収が話しかけます。

「気にしないでいたまえ。武井はひたかくしにしているが、本当は朝鮮人だという話だ」
これはふしぎな啓示だった。夏雄はその昔、半島出身のマラソン選手が国際競技で日本の栄誉を担ったという話を思い出した。被圧迫民族の狂おしい肉体への執着と、その精力崇拝。
「へえ、そうだったのか」
夏雄にいつものやさしい微笑が蘇り、こんな発見が彼をすっかり安心させた。武井の思想はこれで彼と何の関わりもないものになった。武井は朝鮮人であり、夏雄は天使だったのだ。

この短い一節に、在日韓国・朝鮮人問題がよく出ています。それは「ひたかくしに」されねばならぬもの、まわりでコソコソと囁かれるべきもの。『鏡子の家』は1950年代、今から60年前の作品であるのに、この問題は全く改善されていないことに驚きと憤りを覚えます。
私が大学時代、カウンセリングを受けていた時(1980年代です)、在日朝鮮人の学生と知り合いました。私と違って筋骨逞しく、喧嘩が強そうでした。優しいところもありましたが、(彼が見るところの)「弱い、愚かな、劣った」ものを罵倒することに生きがいを見出しているように見えました。彼がいつも罵倒していたのが村上春樹とビートルズでした。
芸能界にも在日韓国・朝鮮人の方は多いようですが、たいていは「ひたかくしに」されるようです。和田アキ子さんは在日韓国人として生まれ、日本に帰化したことを公表していらっしゃいますが、これはむしろ例外です。
遠い古代はさておき、豊臣秀吉の朝鮮出兵の後、徳川家康は朝鮮との国交を回復しました。江戸時代は一貫して友好的な関係が保たれたのに、明治維新で一変しました。
李氏朝鮮は明と清に臣従していましたが、中国の一部になったわけではなく、あくまで中国と朝鮮は別の国でした。日本が日清戦争と日露戦争に勝った後、1910年に大韓帝国(1897年に改名した)を滅ぼし、完全に植民地にしてしまったのは何故か、いくら考えても不思議です。日英同盟を結んでいたイギリスがけしかけたのでしょうね。アジア人同士が未来永劫、憎み合うように仕向けたのでしょう。
かとうれいこさんが在日韓国・朝鮮人かどうかは分かりませんが、彼女は何度か韓国を訪れており、今年2月の平昌オリンピックの直前、ソウルに行かれたようです。(平昌には行かれなかったらしい)開会式でジョン・レノンの『イマジン』が流れましたが、どんな想いで聴かれたのでしょうね。私としては『イムジン河』も流してほしかったですが、原曲は北朝鮮のプロパガンダなので、やはりマズイかもしれません。『イマジン』は47年前、『イムジン河』は50~60年前の曲ですが、まだ懐メロではありません。
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前々回の投稿で私は田中角栄のことを書きましたが、戦後の総理大臣でもう一人、忘れられがちですが重要な人物がいます。それは石橋湛山(いしばし・たんざん)です。惜しいことに、僅か2ヵ月の在任期間でした。
私は湛山が1973年4月25日、88歳で亡くなったことを報じた中日新聞を読んだことを微かに覚えています。私は小学校五年生で、湛山は名前を知っているだけでした。その後、日本史を学んでも彼に深く興味を持つことは無く、この本を読むまで何も知りませんでした。
湛山が亡くなった時、その葬儀は自民党葬として行われました。当時の自民党総裁は総理大臣でもあった田中角栄です。前年の9月に角栄が訪中し、日中の国交正常化が実現したばかりでした。葬儀で田中角栄は、日中国交正常化に大きな役割を果たした湛山に深く感謝したのでした。
1956年12月、日ソ国交正常化と国連加盟を果たした内閣総理大臣・鳩山一郎が引退した時、後継を争ったのが岸信介と石橋湛山でした。アメリカ一辺倒の岸に対抗して、湛山は中国との国交正常化を主張しました。湛山は僅差で岸を破り、総理大臣に指名されました。岸が後を継ぐのを期待していたアメリカのジャパン・ハンドラーたちは慌てました。
しかし湛山は不幸にも病魔に襲われ、2か月の静養が必要と診断されました。彼が厚顔無恥な普通の政治家なら、総理の椅子にしがみつくことは可能だったでしょう。しかし湛山はそうしませんでした。
湛山はジャーナリストの出身です。早稲田大学の哲学科を出て東洋経済新報社に入り、通勤電車の中で経済学を学び直し、当時の大日本帝国の軍部や右翼を怒らせるようなリベラルな論説を発表し続けました。

湛山の意図は明白であった。・・口に正義人道、東洋平和、日中友好を叫びながら、その実行うことは侵略主義に他ならぬ日本外交の偽善性をたたいていたのだ。・・「初めから我が国民は、彼の国民を劣等扱いにしておるのである。少なくとも肩を並べて親しもうとはしないのである」「その責任はほとんど全く彼れに無く、悉く我れの負うべきもの」(160頁)
賢明なる策はただ、何等かの形で速に朝鮮・台湾を解放し、支那・露国に対して平和主義を取るにある。而して彼等の道徳的後援を得るにある。かくて初めて、我国の経済は東洋の原料と市場とを十二分に利用し得べく、かくて初めて我国の国防は泰山の安を得るであろう。(181頁)

湛山は朝鮮の独立運動にも理解を示し、朝鮮・台湾・南樺太などの植民地を放棄して加工貿易に専念せよという「小日本主義」を唱え、戦後の日本国憲法の中心理念となる「国民主権」を主張しました。彼は日本が嫌いだったわけではありません。彼は日蓮宗の仏門の子でした。小欲に拘る愚を戒め、大欲につくべきと考えたのです。
1930年に当時の総理大臣・浜口雄幸が撃たれて重傷を負いながらも総理の椅子にしがみつき続けたとき、湛山はこれを激しく責めました。当然のことではありますが、自分が同じ立場になった時、同じ行動が出来る人間は多くいません。湛山はそれが出来ました。素晴らしいことですが、湛山がしぶとく総理大臣を続けてくれていたら・・と惜しむ気持ちもあります。
湛山の後継は副総理の岸信介と決まりました。今更言うまでもありませんが、岸は今の総理大臣・安倍晋三の祖父で、アメリカとの戦争を始めた東条英機内閣の商工大臣であり、戦後はA級戦犯容疑者としてアメリカ軍に逮捕された人物です。東条ら7人が処刑された翌日、岸は釈放されました。おそらく、彼が満州国の官僚だった時代に得た機密情報をアメリカに渡し、今後はアメリカに絶対服従することを誓って釈放されたのでしょう。昭和天皇は「本当に岸でよいのか」と懸念されたそうです。
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大下英治氏は『巨乳をビジネスにした男・野田義治の流儀』(2008年、講談社)で、芸能プロダクションのイエローキャブ社長であった野田義治氏(現・サンズエンタテインメント会長)と、彼が育成したタレントたちについて書いています。最初に育てた堀江しのぶ(本名・堀部しのぶ)さんとの出逢いは次のようでした。1983年7月、カーオーディオメーカー・クラリオンのキャンペーンガール選考会場でのことです。選ばれたのは黒川ゆりさんで、名古屋の高校生だった堀部さんは特別賞をもらったものの、落選しました。

野田は審査が終了するや、堀部のもとへ大急ぎで駆けていき、名刺を差し出した。野田は堀部に説明した。
「私は、こういう事務所をやっている者なんだ。君、うちで仕事をしてみないか?」
堀部は名刺を見ると言った。
「すみません。この名刺には、労働大臣認可のマークがないので、お受けできません」

野田氏は慌てて説明しながら、(この娘はしっかりしているな)と思ったそうです。
二人目のかとうれいこさんは、かなり違う出逢いでした。

1988年秋、野田は仕事の合間に、喫茶店でいつものようにグラビア誌をめくっていた。新人を発掘するために、発行されたすべてのグラビア誌をチェックすることが、野田の日課の一つとなっていた。喫茶店でグラビア誌の水着写真を食い入るように見ているので、まわりの客からは「変なオヤジ」という目で見られるが、おかまいなしである。
その中の一冊、白夜書房刊の『写真時代ジュニア』の一ページに、野田の目は釘付けになった。
(このコ、いける!)
街で見つけたカワイイ女の子として微笑んでいる、20歳(19歳の誤りと思われる。引用者注)の星野裕子の写真である。

星野裕子は、かとうれいこ(当時の本名は加藤房江)さんの最初の芸名です。裕子さんは移籍して星野麗子と改名し、翌年にはクラリオンガールに選ばれて二度目の改名をすることになります。
ここで奇妙なことがあります。大下英治氏はかとうれいこさんの両親やきょうだいのこと、芸能界に入る前のことについて、何も書いていないのです。
堀江しのぶさんについては、父親が大工であったこと、多くのミスコンテストに入賞したこと、お転婆娘だった幼い頃のことが詳しく書かれています。堀江さんは23歳の若さで胃癌で亡くなりましたが、その死の床でも野田氏と堀江さんの両親は一緒でした。
私は念のため、細川ふみえさん・雛形あきこさん・山田まりやさん・MEGUMIさんの各章も読みましたが、明らかにかとうさんの章だけが不自然です。山田さんの両親の離婚、MEGUMIさんは母子家庭で育ったなどの苦労話もあるのですが、かとうさんの両親はどこにも存在していないかのようです。ひょっとしたら、彼女はどこかの秘密工場で組み立てられたヒューマノイドかもしれません。(たぶん違う・・)
かとうさんのバストサイズ詐称も、新たな見方が可能になります。「86センチしかありません」と見え透いた嘘をつき続けることで話題を提供し、出生の秘密に触れさせまいとしているのではないかと。
かとうさんがクラリオンガールに選ばれた翌日の中日新聞には「両親と兄二人の五人家族」とあるので、孤児や片親でないことは確かです。
ネットで検索すると「かとうれいこは在日(韓国又は朝鮮人)」と書いている人もいます。この情報の真偽については、私は判断材料を持っていませんので今回は深入りを避けますが、また論じてみたいと思っています。
ちなみにマリリン・モンローは、1926年生まれで本名をノーマ・ジーンと言い、親の離婚や病気のため、幼少期のほとんどを孤児院と里親のもとで過ごしました。16歳で最初の結婚をし、18歳から航空機部品の工場で働きました。19歳で陸軍の報道部員に撮られた写真が陸軍の機関誌に載ったのがもとで、ハリウッド女優への道を歩むことになります。
モンローはケネディ大統領との不倫も噂されましたが、36歳で不審な死を遂げました。彼女はケネディ兄弟やベトナムの民衆と同じように「アメリカの狂気」に殺されたのだと言う人もいます。「アメリカの狂気」はその後もキング牧師を殺し、ジョン・レノンを殺し、マイケル・ジャクソンを殺し、ワールド・トレード・センターを崩壊させ、「イスラム国」をつくり、アフガニスタン、イラク、シリアの民衆を殺しました。しかしトランプ政権の誕生で、少し光が見えてきました。
私は何の力もない人間ですが、かとうれいこ(横尾房江)さんの出自が何であるにせよ、彼女やご主人の横尾要さん、娘の紗千さんが「東洋の狂気」の犠牲にならないように祈らずにはいられません。それとも、彼女は組み立てられた秘密工場に連れ戻されて解体されてしまうのでしょうか。(たぶん違うと思う)
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2018年7月5日、「イスラム国」とシリアを追加しました。

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