太伯は古代中国の周の文王の伯父、武王の大伯父に当たり、三千年も昔の人です。末弟の季歴(文王の父)が優秀な人物で父の古公亶父(ここうたんぽ)が期待しているのを知り、すぐ下の弟・虞仲とともに南方の呉(現在の中国・江蘇省)に逃れ、呉の始祖になったとされる人物です。
古代の倭人が自らを太伯の子孫と称していたという記事が3世紀の中国の史書『魏略』(今は失われた書物だが、あちこちに逸文が残っている)にあり、『晋書』『梁書』にも同じ記事があります。13世紀の南宋の儒学者・金履祥は『通鑑(つがん)前編』で次のように推理しました。
いま日本国も呉の太伯の子孫と云う。おそらく呉が滅びたとき、その子孫が海に逃れ、倭になったのではないか。
呉の滅亡は西暦紀元前473年です。その前には南の越(現在の浙江省)との長い戦争がありました。呉と越の激烈な争いは「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という熟語を生みました。9世紀の日本の『新撰姓氏録』では松野連(まつののむらじ)という氏族が最後の呉王・夫差の子孫だと書かれており、全くの嘘では無さそうです。しかし一つの氏族だけで、天皇家を含めた日本人そのものが夫差の子孫というには遠い内容です。南北朝時代の禅僧・中巌円月(ちゅうがんえんげつ)や江戸時代の儒学者・林羅山(はやし・らざん)は皇祖太伯説を支持しましたが、多くの日本人はこの説を受け入れませんでした。
私の見るところ、金履祥は勘違いをしています。『魏略』には「太伯の後」と書かれているのであって「夫差の後」とは書いてないのです。夫差の子孫であるなら、わざわざ始祖にまで遡って「太伯の後」などと言うでしょうか。もっと古いのではないか。
私が注目したいのは後漢の王充の『論衡』という著書です。王充は古代には珍しい合理的な唯物論者で、東洋のルクレティウスとも言うべき人物です。『論衡』恢国篇には次のように書かれています。
成王之時、越常献雉、倭人貢暢。
成王は武王の子で、周の第2代の王です。越常は中国南方の民族と思われます。この時代に「倭人」がいたかどうか、いたとしても大陸の南方ではないかという説もあります。しかし「越常」が南の果ての民族なら、「倭人」は東の果ての民族として記録に残されたと見るほうが自然です。まさか北や西の果てではないでしょう。古代中国の帝王は天下太平を祝って「封禅(ほうぜん)」の儀式を行ないましたが、成王を最後にこの儀式は中断し、秦の始皇帝が800年ぶりに行なったときには古代のやり方が分からなくなっており、新しい儀式をせざるを得ませんでした。
日本に伝わる「天孫降臨」の神話は、思想的・宗教的には別ですが、歴史的には中国大陸からの渡来を表していると思われます。ニニギノミコトが辿り着いた阿多(薩摩半島の西部)は中国船の漂着が多いところで、8世紀に遣唐使船に乗って来日した鑑真(がんじん)もここに漂着しました。鑑真の乗った船はその前に屋久島で停泊しました。屋久島は「洋上アルプス」と言われる高山で、ここが神話の「高千穂」の原型のように思われます。私が子供の頃は弥生時代の始まりは西暦紀元前300年頃と教えられましたが、今では紀元前10世紀頃という説が有力なようです。
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2018年9月30日追加
司馬遷の『史記』によると、太伯には子が無く弟の虞仲が後を継ぎ、虞仲の曾孫・周章を武王が改めて呉に封じ、周章の弟・虞仲(太伯の弟と同名の別人)を北方の虞に封じました。ところが「仲」は三人兄弟の真ん中を意味するので、太伯の弟・虞仲に季歴という弟がいたように(「季」は訓読みは「すえ」で「末」と同じ)、周章の弟・虞仲にも末の弟がいたはずです。この末弟が海を渡って倭人の祖となり、成王の時代に周に遣使した可能性が考えられます。太伯の弟・虞仲の子は季簡、季簡の子(周章の父)は叔達と言い、名前から見て兄がいたと思われるので、海を渡ったのは彼らだったかもしれません。本来「太伯」は固有名詞ではないので、倭人は季簡の兄(又は叔達の兄)を「太伯」と呼んだのかもしれません。それならば、その人物は「呉の太伯」ではなく「倭の太伯」ということになります。太伯→太白(金星)→太陽へと変わり、周と呉の王家が「姫」姓だったので世界でも珍しい女性の太陽神・アマテラス大神が生まれたのか。いくらでも想像できますが、この辺でやめましょう。