2018年09月

太伯は古代中国の周の文王の伯父、武王の大伯父に当たり、三千年も昔の人です。末弟の季歴(文王の父)が優秀な人物で父の古公亶父(ここうたんぽ)が期待しているのを知り、すぐ下の弟・虞仲とともに南方の呉(現在の中国・江蘇省)に逃れ、呉の始祖になったとされる人物です。
古代の倭人が自らを太伯の子孫と称していたという記事が3世紀の中国の史書『魏略』(今は失われた書物だが、あちこちに逸文が残っている)にあり、『晋書』『梁書』にも同じ記事があります。13世紀の南宋の儒学者・金履祥は『通鑑(つがん)前編』で次のように推理しました。

いま日本国も呉の太伯の子孫と云う。おそらく呉が滅びたとき、その子孫が海に逃れ、倭になったのではないか。

呉の滅亡は西暦紀元前473年です。その前には南の越(現在の浙江省)との長い戦争がありました。呉と越の激烈な争いは「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」という熟語を生みました。9世紀の日本の『新撰姓氏録』では松野連(まつののむらじ)という氏族が最後の呉王・夫差の子孫だと書かれており、全くの嘘では無さそうです。しかし一つの氏族だけで、天皇家を含めた日本人そのものが夫差の子孫というには遠い内容です。南北朝時代の禅僧・中巌円月(ちゅうがんえんげつ)や江戸時代の儒学者・林羅山(はやし・らざん)は皇祖太伯説を支持しましたが、多くの日本人はこの説を受け入れませんでした。
私の見るところ、金履祥は勘違いをしています。『魏略』には「太伯の後」と書かれているのであって「夫差の後」とは書いてないのです。夫差の子孫であるなら、わざわざ始祖にまで遡って「太伯の後」などと言うでしょうか。もっと古いのではないか。
私が注目したいのは後漢の王充の『論衡』という著書です。王充は古代には珍しい合理的な唯物論者で、東洋のルクレティウスとも言うべき人物です。『論衡』恢国篇には次のように書かれています。

成王之時、越常献雉、倭人貢暢。

成王は武王の子で、周の第2代の王です。越常は中国南方の民族と思われます。この時代に「倭人」がいたかどうか、いたとしても大陸の南方ではないかという説もあります。しかし「越常」が南の果ての民族なら、「倭人」は東の果ての民族として記録に残されたと見るほうが自然です。まさか北や西の果てではないでしょう。古代中国の帝王は天下太平を祝って「封禅(ほうぜん)」の儀式を行ないましたが、成王を最後にこの儀式は中断し、秦の始皇帝が800年ぶりに行なったときには古代のやり方が分からなくなっており、新しい儀式をせざるを得ませんでした。
日本に伝わる「天孫降臨」の神話は、思想的・宗教的には別ですが、歴史的には中国大陸からの渡来を表していると思われます。ニニギノミコトが辿り着いた阿多(薩摩半島の西部)は中国船の漂着が多いところで、8世紀に遣唐使船に乗って来日した鑑真(がんじん)もここに漂着しました。鑑真の乗った船はその前に屋久島で停泊しました。屋久島は「洋上アルプス」と言われる高山で、ここが神話の「高千穂」の原型のように思われます。私が子供の頃は弥生時代の始まりは西暦紀元前300年頃と教えられましたが、今では紀元前10世紀頃という説が有力なようです。
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2018年9月30日追加
司馬遷の『史記』によると、太伯には子が無く弟の虞仲が後を継ぎ、虞仲の曾孫・周章を武王が改めて呉に封じ、周章の弟・虞仲(太伯の弟と同名の別人)を北方の虞に封じました。ところが「仲」は三人兄弟の真ん中を意味するので、太伯の弟・虞仲に季歴という弟がいたように(「季」は訓読みは「すえ」で「末」と同じ)、周章の弟・虞仲にも末の弟がいたはずです。この末弟が海を渡って倭人の祖となり、成王の時代に周に遣使した可能性が考えられます。太伯の弟・虞仲の子は季簡、季簡の子(周章の父)は叔達と言い、名前から見て兄がいたと思われるので、海を渡ったのは彼らだったかもしれません。本来「太伯」は固有名詞ではないので、倭人は季簡の兄(又は叔達の兄)を「太伯」と呼んだのかもしれません。それならば、その人物は「呉の太伯」ではなく「倭の太伯」ということになります。太伯→太白(金星)→太陽へと変わり、周と呉の王家が「姫」姓だったので世界でも珍しい女性の太陽神・アマテラス大神が生まれたのか。いくらでも想像できますが、この辺でやめましょう。

この本を草思社文庫で読みました。佐藤昭子さんのことが324頁に2行しか出てこないのは残念ですが(笑)まず、プロローグ22~23頁から引用します。

しばしば、田中は資源を求めて動き回った外交で「アメリカの虎の尾」を踏み、ロッキード事件を仕掛けられたといわれる。資源外交とロッキード事件をつなぐ物証はなく、陰謀論の域を出ない。ただ74年1月のインドネシアでの反田中暴動は明らかに仕組まれたものだった。背景には石油利権が見え隠れしている。

この事件は私も鮮烈に覚えており、私の世界観に影響したと思います。中日新聞は「ジャカルタで反日暴動、日本車200台に放火」と大見出しをつけて報じました。山岡氏は現地でのインタビューを通じ、「政権への抗議活動が、ある日、いきなり反田中暴動へとエスカレート」した背景を照らし出しています。
その前年(1973年)の11月、アラブ諸国とイスラエルが戦った第4次中東戦争、アラブ産油国の戦略による石油ショックの中でアメリカのキッシンジャー国務長官が来日し、角栄と会談しました。
「仮に日本がアメリカと同じような姿勢を続け、禁輸措置を受けたら、アメリカは日本に石油を回してくれるのか」という角栄の問いかけにキッシンジャーは「それはできない」と答えます。日本はアメリカとイスラエルの盾になって死んでくれというに等しい侮辱です。角栄は伝えました。
「なんらかの形でアラブの大義に共感を表す必要がある。日本は独自の外交方針をとるしかない」(210頁)
彼はこれを実行しました。
角栄の資源戦争のもうひとつの柱は原子力でした。1973年9月27日、パリでフランスのメスメル首相と会談した角栄は「ウラン濃縮加工の発注」を決断し、「アメリカの核の傘」の外へ跳びました。翌日の朝日新聞は「日本がフランスに濃縮ウランの委託加工を依存することは、米国の核支配をくつがえすことをねらったフランスの原子力政策を一段と推進するばかりか、米国の核燃料独占供給体制の一角が崩れることを意味し、世界的に与える影響は極めて大きい」と解説しました(191~195頁)。
言うまでもなく、原子力は人類と共存は出来ません。山岡氏は2011年の福島原発事故で対応に当たった菅直人元首相にもインタビューしています。

現場の人が懸命に取り組んでくれたので、3000万人避難という最悪のシナリオは紙一重で回避できました。でも、なぜ炉内に水が入るようになったのか、実は正確な理由はわかりません。一応、ベントで炉内の圧力が下がって水が入ったことになっていますが、メルトダウンして、炉のどこかに穴が開いて圧力が下がった可能性もある。わからない。だから紙一重。崖っぷちで、たまたまいい方向に転んで、3000万人避難が回避されたんです。(371頁)

アメリカは角栄以後、日本への同化圧力を強め、在日米軍の忠犬のような安倍首相のもとで日本の荒廃は深まっています。しかしアメリカのトランプ、韓国の文在寅政権で新しい流れが出てきました。山岡氏は377頁で「日本は、どこへ向かって進めばいいのか。エネルギー資源は、ひとり一人が「生活」を通して未来を考える大切な手がかりである」と締めくくっています。
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この曲のタイトルには私の生年が入っています。発売は1980年でしたが、橋本治の『桃尻娘』が面白いと言っていた片想いの女子大生がこの曲も好きだと話していたのを覚えています。その時点で数年前の懐メロでした。
前年の1961年は、上下をさかさまにしても変化しない年です。(9をさかさまにすると6、6をさかさまにすると9になるので)次回は6009年なので、生きて迎えることはないでしょう(笑)
1962年はキューバ危機が起こり、アメリカとソ連が核戦争の一歩手前まで行きました。三島由紀夫も核戦争の恐怖を宇宙的な観点から描いた異色の小説『美しい星』を書いています(最近、映画化もされましたが、設定を現代的に変えたというので見る気がしません)。日本では「ケネディが偉い!」ということになっていますが、ケネディは「キューバのミサイルを撤去しないと戦争するぞ!」と脅したのですから、撤去したフルシチョフのおがげで人類は助かったのではないでしょうか。
ケネディは1961年に「アメリカは1960年代のうちに人間を月に送る」と演説してアポロ計画を始めました。この計画がハリウッドを巻き込んだ国家的な詐欺だった疑いがあることは、当ブログでも指摘した通りです。
そうは言っても、私はケネディが嫌いというわけではありません。アメリカの大統領にしてはマシな人物であり、それゆえに「アメリカの闇」に嫌われて暗殺されたのでしょう。
田中角栄はジョン・F・ケネディに会うことはありませんでしたが、弟のロバート・ケネディ司法長官が来日した1962年2月6日、自民党の政調会長として会っています。このときの田中政調会長の発言が大問題になりました。
「沖縄返還の前提条件として、日本が早急に憲法改正をし、再軍備を進めるよう、米国から提起したらどうか」
角栄としては沖縄問題の突破口を作りたかったのでしょうが、東京タイムズの早坂茂三記者にスクープされてしまいました。朝賀昭氏によると、早坂記者は「大騒ぎになって気がとがめたのか」目白に出向き、角栄から「よく来たな。今度はオマエさんの勝ちだ」と握手を求められたそうです。このような発言をしていた角栄が十年後、首相として国内の親台湾派を押し切って中国との国交正常化を果たし、早坂茂三は記者をやめて佐藤昭子と並んで角栄を支える秘書になるのですから、歴史は分からないものです。
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https://youtu.be/BSnnnXDoveI
革命歌『インターナショナル』中国語版です。中国共産党、中華人民共和国でよく歌われる歌です。左翼嫌い・共産党嫌いでも、この曲の壮大な美しさは認める人が多いのではないでしょうか。私にとって、この歌は懐かしい歌です。私は大学で第二外国語として中国語を選択しました。ほとんど忘れましたが、この歌は(発音はデタラメなジャパニーズ・チャイニーズですが)完璧に覚えています。
それにしてもなぜ中国語を選択したのか、今となっては不思議です。普通はドイツ語かフランス語だと思いますが、大アジア主義の意識があったのかもしれません。当時の東京大学ではドイツ語・フランス語・中国語・ロシア語と四つの選択肢があり、私も現役の年はドイツ語を選びましたが、一浪の年は中国語を選んでしまいました。もっとも外国語を学びたい人は三語(第三外国語)をいくつでも選べますが、私にそんな気力はありませんでした。
大学生の「五月病」はよく言われますが、私の場合、十一月の駒場祭までは結構楽しくやっていました。それから徐々に無気力になり、本郷の進学先を決める段階では行きたいところがありませんでした。結局は文学部の国文科に進学したのですが、症状が悪化してゆく自覚があったので、本郷で留年した頃からカウンセリングを受けるようになり、8年かかって卒業するまで続きました。
もともと私は理科系志望で、高校時代に無理強いされて文科系に行かされたという意識がありました。駒場でも数学や科学史を選択していました。いま思い出すと理科系もブルーバックス的な興味で、学問に情熱があったとも思えません。それでも普通の人は適当にうまくやってゆくのでしょうが、どうも私の場合、それが出来なかったようです。
国文科に進学したのも、特に国文学に興味があったわけではありません。当時は三島由紀夫も読んでいませんでした。子供の頃に野尻抱影や草下英明の星座の本をよく読んでいて、草下と親しかった稲垣足穂を知り、足穂から三島由紀夫を知ったという順序です。
一方で日本の古代史や日米戦争の本もよく読み、子供の頃から歴代天皇の名前を覚え、アメリカ軍の日本支配に腹を立てていました。三つ子の魂百までもと言う通り、今とあまり変わらないようです。
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前回の投稿で卑彌呼や趙嫗のことを書いたので、また古代史の謎を考えてみたいと思います。
林房雄は『天皇の起原』で『上記(うえつふみ)』『富士古文書』などの古史古伝を挙げて天皇の歴史が想像以上に古いことを主張しますが、中国の史書を読むとさすがに無理があるかと思います。以前に当ブログで初代の神武(じんむ)に続く2・3・4代の天皇(綏靖(すいぜい)・安寧(あんねい)・懿徳(いとく))の名前が後漢の摂政皇太后綏・安帝・少帝懿に類似すること、5~8代の天皇(孝昭・孝安・孝霊・孝元)の名前が後漢の皇帝と同じく「孝」から始まることを指摘しましたが、これでも十分に古いと思います。
『魏志倭人伝』の邪馬臺国の所在については、距離と方位をそのまま信じると九州の遥か南の海上になるので、方位だけを信じれば九州説になり、距離だけを信じれば畿内説になります。冒頭に「倭人は帯方の東南大海の中にあり」とあるように、九州は朝鮮半島から見て東南にありますが、日本列島は九州から東南ではなく東北に延びています。このため方位の誤りが生じたのではないでしょうか。
「女王国の東、海を渡る千余里、また国あり、皆倭種なり」の「東」も「北」に読み替えると、畿内から琵琶湖を渡った越(こし)の国(北陸地方。福井県・石川県・富山県・新潟県)になります。越の国は日本書紀の一書では「越洲(こしのしま)」と書かれ、大八洲(おおやしま)の一つとされています。
「また侏儒国あり、その南にあり。人長三、四尺、女王を去る四千余里」は難しいです。「侏儒(しゅじゅ)」は小人の意味で、身長70~90センチという記述もこれに符合しますが、もともとは表音文字で小人伝説は後から生じた可能性も考えられます。それなら石川県の能登半島の「珠洲(すず)」はどうでしょうか。「珠洲」は大伴家持の和歌にも現れる古い地名で、万葉集でも同じ表記です。
「また裸(ら)国・黒歯(こくし)国あり、またその東南にあり。船行一年にして至るべし」はハワイや南米を考える人もいますが、それでは気宇壮大に過ぎるような気がします。「黒」という色は黒人や黒潮のイメージから南方と思われがちですが、中国の四神(玄武・青龍・白虎・朱雀)思想からは玄武の「玄」と同じで、北方を表す色です。中国とロシアの国境を流れるアムール川は中国では黒龍江と呼ばれ、古くは黒水とも呼ばれました。『ハチのムサシは死んだのさ』の作詞者と同姓同名の内田良平は、明治時代に日本の右翼運動の源流になったと言われる団体「黒龍会」を設立しました。黒龍会のもとになったのは頭山満(とうやま・みつる)が設立した「玄洋社」という団体です。
私が裸国・黒歯国の候補として挙げるのは、山形県の出羽三山(月山・湯殿山・羽黒山)です。羽黒は歯黒に通じ、湯殿は裸に通じます。江戸時代の儒学者、荻生徂徠(おぎゅう・そらい)がこの説を唱えています。
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