https://youtu.be/IaAiGgY75RA
1972年(昭和47年)平田隆夫とセルスターズの『ハチのムサシは死んだのさ』です。この作詞者の内田良平は俳優ですが、日本の右翼の歴史を語るのに欠かせない同姓同名の政治運動家も有名です。
ハチのムサシとは誰なのか。これは1960年代の学生運動を歌っているという説があります。安保闘争の犠牲になった樺美智子さん、羽田事件で命を落とした山崎博昭などが思い浮かびます。羽田事件というのはアメリカがベトナムの民衆を殺し続けていた1967年(昭和42年)10月8日、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした新左翼の学生たちが機動隊と衝突した事件です。
しかし歌というものは聴く人によってさまざまな受け取り方をされるもので、ここから三島由紀夫と森田必勝を連想してもよいわけです。あるいは林房雄のいう「東亜百年戦争」を戦った日本をハチのムサシにたとえても良いでしょう。フィリピンのシブヤン海に沈んだ戦艦「武蔵」、沖縄に向かう途中で沈んだ戦艦「大和」も思い出されます。
ベトナムという国は中国・朝鮮(韓国)・日本と共に中国の漢字文化圏に属してきた歴史を持ちますが、島国でなく陸続きでありながら中国の支配に抵抗し、民族の独立を守ってきた歴史は朝鮮民族と共に尊敬に値します。19世紀からはフランス、日本、アメリカの侵略も受け、再び中国とも戦いました。
西暦3世紀、中国の三国時代に呉国と戦ったベトナムの有名な女傑がいます。趙嫗(ちょうおう)という名前で、生涯独身だったので趙氏貞とも言い、ウィキペディアにはこちらの名で載っています。彼女は著しい身体的特徴を持ち、『大越史記全書』には「乳長三尺施於背後」と記されています。この時代の中国の一尺は23センチですから、乳房の長さ(胸囲ではない)が70センチほどあり、背中に回るほどだったと。ここまで大きいと気味が悪いですが、神秘性が感じられたかもしれません。
交州九真郡(現在のベトナム・タインホア省)で兄の趙国達と共に蜂起した趙嫗は象に乗って軍の指揮をとり、現地の呉軍を敗走させましたが、呉の皇帝・孫権は交州刺史・陸胤(りくいん)に大軍を与えて派遣します。両軍は死闘を繰り広げましたが、趙嫗が処女だと聞かされた陸胤は一計を案じ、趙嫗から見えるところで鎧を脱いで全裸になりました。趙嫗が恥ずかしがって隙を見せたので、呉軍は一気に攻めかかって決着がつきました。女性ではありますが、彼女も「ハチのムサシ」のようです。
趙嫗が死んだのは西暦248年で、まだ23歳の若さでした。余談ですが、やはり三国時代の魏国に使者を送った倭(日本)の女王・卑彌呼が死んだのも同じ248年頃です。卑弥呼はかなり年寄りだったらしいので、13歳で後を継いだ壹與(壱与)のほうが年齢は近いかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m