2018年09月

https://youtu.be/IaAiGgY75RA
1972年(昭和47年)平田隆夫とセルスターズの『ハチのムサシは死んだのさ』です。この作詞者の内田良平は俳優ですが、日本の右翼の歴史を語るのに欠かせない同姓同名の政治運動家も有名です。
ハチのムサシとは誰なのか。これは1960年代の学生運動を歌っているという説があります。安保闘争の犠牲になった樺美智子さん、羽田事件で命を落とした山崎博昭などが思い浮かびます。羽田事件というのはアメリカがベトナムの民衆を殺し続けていた1967年(昭和42年)10月8日、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした新左翼の学生たちが機動隊と衝突した事件です。
しかし歌というものは聴く人によってさまざまな受け取り方をされるもので、ここから三島由紀夫と森田必勝を連想してもよいわけです。あるいは林房雄のいう「東亜百年戦争」を戦った日本をハチのムサシにたとえても良いでしょう。フィリピンのシブヤン海に沈んだ戦艦「武蔵」、沖縄に向かう途中で沈んだ戦艦「大和」も思い出されます。
ベトナムという国は中国・朝鮮(韓国)・日本と共に中国の漢字文化圏に属してきた歴史を持ちますが、島国でなく陸続きでありながら中国の支配に抵抗し、民族の独立を守ってきた歴史は朝鮮民族と共に尊敬に値します。19世紀からはフランス、日本、アメリカの侵略も受け、再び中国とも戦いました。
西暦3世紀、中国の三国時代に呉国と戦ったベトナムの有名な女傑がいます。趙嫗(ちょうおう)という名前で、生涯独身だったので趙氏貞とも言い、ウィキペディアにはこちらの名で載っています。彼女は著しい身体的特徴を持ち、『大越史記全書』には「乳長三尺施於背後」と記されています。この時代の中国の一尺は23センチですから、乳房の長さ(胸囲ではない)が70センチほどあり、背中に回るほどだったと。ここまで大きいと気味が悪いですが、神秘性が感じられたかもしれません。
交州九真郡(現在のベトナム・タインホア省)で兄の趙国達と共に蜂起した趙嫗は象に乗って軍の指揮をとり、現地の呉軍を敗走させましたが、呉の皇帝・孫権は交州刺史・陸胤(りくいん)に大軍を与えて派遣します。両軍は死闘を繰り広げましたが、趙嫗が処女だと聞かされた陸胤は一計を案じ、趙嫗から見えるところで鎧を脱いで全裸になりました。趙嫗が恥ずかしがって隙を見せたので、呉軍は一気に攻めかかって決着がつきました。女性ではありますが、彼女も「ハチのムサシ」のようです。
趙嫗が死んだのは西暦248年で、まだ23歳の若さでした。余談ですが、やはり三国時代の魏国に使者を送った倭(日本)の女王・卑彌呼が死んだのも同じ248年頃です。卑弥呼はかなり年寄りだったらしいので、13歳で後を継いだ壹與(壱与)のほうが年齢は近いかもしれません。
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林房雄は『天皇の起原』という著書を当ブログで取り上げたことがありますが、こちらは近代史です。タイトルに抵抗を感じましたが、よく読むと面白く、刺激的な良書だと感じました。
三島由紀夫が最後まで逃れられなかったあの「永遠の夏」昭和20年(1945年)8月15日は大東亜戦争(太平洋戦争)だけでなく、幕末の弘化年間(西暦1845~48年)に始まる「東亜百年戦争」の終わりだったと林は論じます。

日清戦争(1894~95年。引用者注)ではたしかに朝鮮、満州まで出撃した。だが、そこで欧州三国強国の干渉を受けて後退せざるを得なかった。・・日露戦争(1904年~05年。引用者注)においても、カラフト島の半分のほかには償金さえも得ることができなかった。得たものはただ、幕末以来日本列島を包囲しつづけた「西洋列強」の鉄環がますます強力になり、ますます狭くしめつけられて行くという「教訓」だけであった。(125頁)

127頁では、日中戦争勃発(1937年)直後の和辻哲郎の言葉が引用されています。

日本は近代の世界文明のなかにあって、きわめて特殊な地位に立った国であり、二十世紀の進行中には、おそかれ早かれ、この特殊な地位にもとづいた日本の悲壮な運命は展開せざるを得ない。あるいは、すでにその展開ははじまっているのかもしれず・・この運命は逃れうるところではない。

129頁では東京裁判(1948年判決)の「驚くべき事態」が説明されます。

東京裁判の被告席には、ニュールンベルグ裁判のナチス被告席とはちがい、「開戦への決断に関する明白な意識を持って」いた者は一人もいなかった。すべて「何となく何者かに押されつつ」(言い換えれば、和辻博士のいう「日本の悲壮な運命」に押されつつ)「ずるずると戦争に突入した」者ばかりであった。まさに「驚くべき事態」である。

この「悲壮な運命」の正体は、被告たちが生まれる前、幕末から始まっていた西洋列強との東亜百年戦争だったというわけです。その中で、日本は1910年に朝鮮を併合して35年間、植民地として支配しました。林は「朝鮮併合の残虐性」を認めます。

私は朝鮮併合を弁護する気持はない。その必要も認めない。朝鮮併合が日本の利益のために行なわれ、それが朝鮮民族に大きな被害を与えたことは誰も否定できない。ただ私は朝鮮併合もまた「日本の反撃」としての「東亜百年戦争」の一環であったことを、くりかえし強調する。(183頁)

満州事変(1931年)、日中戦争も同じ構図です。林は日本の苦悩だけでなく、日本と戦わねばならなかった中国の苦悩を察します。

清朝の悪政と欧米の植民地主義よりの脱出と打倒は孫文以来のシナ・ナショナリスト革命家の念願であり、その故に中国の革命家たちが日本の奮闘に好意と信頼を寄せた一時期はたしかにあったが、「満州建国」と日本軍の中国本土侵入はこの信頼の最後の根を刈りとった形になってしまった。孫文の子弟である蒋介石も毛沢東もアジアの究極の仇敵が西洋列強の植民主義であることはもちろん知っていたが、「聖戦」と称して武力侵入を強行して来た日本に対しては敢然と抗戦するよりほかはない。

そして昭和16年(1941年)12月8日。三島由紀夫も『暁の寺』で書いていますが、林も「十二月八日の感動」を書いています。

開戦の第一報を聞いた時、私は奉天(現在の中国・遼寧省の瀋陽市。当時は満州国。引用者注)にいた。堅い粉雪が降っていた。新京(現在の中国・吉林省の長春市。当時は満州国の首都。引用者注)行の急行列車に間にあうように、旅館を出るその玄関先で聞いたのだと思う。ラジオであったか号外であったかはおぼえていない。
ただひとり洋車にのって奉天駅にいそいだのであるが、頬をうつ雪片も爽快であった。肩を圧していた重荷がふりとばされ、全身の血管に暗く重くよどんでいた何ものかが一瞬に吹きはらわれた気持であった。(338頁)

林は高村光太郎の『十二月八日の記』の一節「頭の中が透きとおるような気がした」「私は不覚にも落涙した」を引用し、次のように解説します。

明治と大正を生きてきた日本人の感慨であり、涙である。高村氏は西洋の文明と文化の価値を知っている詩人である。彫刻家としては間接ながらロダンの弟子である。にもかかわらず、政治的軍事的には、西洋が日本の圧迫者であることを、すべての明治人・大正人とともに知っていた。(340頁)

続いて林は『昭和戦争文学全集』の解説者・奥野健男の文章を引用します。

対中国戦争に対しては、漠然たるうしろめたさを感じていた大衆、侵略戦争としてはっきり批判的だった知識人も、米英に対しての戦争となるとその態度を急変した。・・遂にやった、おごれる米英老大国、白人どもにパンチを加えた、という気も遠くなるような痛快感もあった。(340~341頁)

最後に林の未来への予言(この本が書かれた1965年の時点で)を引用しましょう。

日本をしばりあげている鎖は強力である。この鎖を自ら断ち切る力は、まだ養われていない。今ただちにアジア・アフリカの側に立って戦えと叫ぶことは、日本の亡国を招きよせる暴論となる。私たちに許されていることは、アジアの歴史をふりかえり、世界の歴史の将来を考えて、日本はアジアの一員としてその方向に進むよりほかに道はないと予言することだけである。
・・いつの日か、歴史は「東亜百年戦争」の戦士の息子たちを再び歴史の舞台の正面に呼び出すことであろう。(375頁)

私は2001年(平成13年)の今日、ニューヨークのテロをテレビで知ったとき、1941年12月8日に日本人が感じたのと似た感慨を持ちました。まだ日本は鎖にしばられていますが・・

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約30年前、昭和末期の大ベストセラーですね。私は大学生協の書店で立ち読みしただけでした。村上春樹というと「毒にも薬にもならない」という先入観があって読まなかったのですが、初めて読みました。結論から言えば、先入観を改める必要は無かったです。
彼の作品には「日本」は無いと言われますが、その通りです。読んでいると例えばコリン・ウィルソンの翻訳文のような印象を受けます。宮沢賢治や稲垣足穂も「無国籍」の文学ですが、この二人の場合、ことさら日本の伝統的な要素を排除してはいません。ところが春樹の場合は意図的にそうしたものを排除しているように思われます。
この作品には標題のビートルズの曲を含め、多くの音楽作品が出てきます。それは全て洋楽(西洋音楽)で、邦楽、というより西洋以外の音楽は完全に排除されています。最後の章で「上を向いて歩こう」が出てきますが、これはアメリカで流行ったからでしょうね。ビルボード1位とか。坂本九や永六輔、中村八大の名前も出てきません。
レイコさん(石田玲子)は「この人たちはたしかに人生の哀しみとか優しさとかいうものをよく知っているわね」と言い、語り手で主人公のワタナベトオルは次のように解説します。
「この人たちというのはもちろんジョン・レノンとポール・マッカートニー、それにジョージ・ハリソンのことだった」
リンゴ・スターの名前が抜けています。春樹はおそらく、東洋や日本の音楽などビートルズのリンゴ・スターのようなもので、言及する価値もないと思っているのでしょう。
しかし考えてみると、これは春樹個人の問題というより、戦後の(というより明治維新以後の)日本の問題かもしれません。三島由紀夫の時代はまだ江戸時代以前からの伝統が生きており、歌舞伎や能も普通に鑑賞され、琴といえば西洋の竪琴ではなく東洋の箏(そう)や琴(きん)のことでした。『春の雪』で松枝清顕、本多繁邦、ジャオ・ピー、クリッサダの4人が鎌倉の海で夏の星空を見上げる名場面、「それは正(まさ)しく琴だった!」の「琴」も、「竜角から雲角まで十三弦」とあるように「箏」であって、西洋の琴座とは関係ないのです。ところが『ノルウェイの森』で演奏されるのはギターやピアノといった西洋楽器だけです。
自殺した直子が「洋服は全部レイコさんにあげて下さい」というメモだけを残したのは、『春の雪』で松枝清顕が「夢日記は本多にあげて下さい」とだけ書き残したのに似ており、春樹が三島を意識したところはあるかもしれません。ワタナベトオルは精神的には日本人ではなく西洋人であり、『天人五衰』で本多繁邦が育てようとして失敗に終わった理想の養子「本多透」のように見えます。名前も同じ「トオル」です。
春樹の『羊をめぐる冒険』は三島の『夏子の冒険』を意識したとも言われています。『夏子の冒険』は北海道が舞台ですが、第二十五章でアイヌの女性がラジオでジャズを聴いて
「アメリカの馬鹿囃子(ばかばやし)だね」
と発言しており、『ノルウェイの森』と対照的です。
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前回に投稿した井上隆史氏の想像による『天人五衰』は、三島由紀夫の当初の構想をふくらませたものです。この『天人五衰』では、あくまでも本多の「考え方」が聡子によって否定されるというところに留まっていました。
ところが実際に発表された『天人五衰』では、最後にそれ以上の大破局が訪れます。

大破局は、単に本多の考えが妄想としてしりぞけられ、あるいは本多が虚無に陥るということにとどまらない。それ以上に『天人五衰』を恐ろしいものにしているのは、全篇の終幕において、それまでの登場人物の存在や人物間の出来事そのものが否定されていることである。それは、『春の雪』以降展開してきた筋立てが解体することであり、作品の時空間が消滅してしまうことである。(242~243頁)

しかも『天人五衰』の最後には、「昭和四十五年十一月二十五日」と三島の死の日付が書かれています。「十一月二十五日」は昭和二十三年における『仮面の告白』の起筆予定日でした。即ち、井上氏によれば・・

すなわち、『天人五衰』において『春の雪』まで遡ってすべてを虚無で覆い尽くそうとしたのと同様に、三島はその文学活動の最後に、自分の作家的アイデンティティを確立させた『仮面の告白』まで遡り、その後の創作活動のすべてを解体し、虚無へと導いたのである。(250頁)

この見方には賛否両論あるでしょうが、仮に井上氏の見方が正しいとしても、三島の考えはそれほど理解しにくいものではありません。作家にとって過去の作品などは排泄物のように思える場合もあるからです。スケールは違いますが、私も過去の自分のブログを読んでそう思うことがあります。
井上氏はここで終わりにはしていません。さらに「エピローグ」で救済の可能性を探っています。

三島以後今日に至るまで、私たちの精神的、文化的アイデンティティの空洞化が、さらに一層進んでしまったと考える人は少なくないであろう。(252頁)
そこには何もないという。しかし、庭があり、蝉の声が響き、夏の日ざかりの日がある。(254頁)
もし現代の日本が本当に後戻りできぬ程空洞化の極まった状況にあり、それにもかかわらず私たちが生きようとするのであれば、まさにこのような場所から歩み始めなければならない。私にはそう思われる。そして、それが具体的にどのような生を意味するかということは、私たち皆に与えられた問いかけなのではないだろうか。(255頁)

私はこのブログを始めた頃、実は聡子の御附弟が月光姫の(即ち清顕の)本物の転生者であるという読み方を提案しました。これは三島自身も見逃していた可能性かもしれません。
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三島由紀夫の遺作『豊饒の海』の第四巻『天人五衰』は当初の三島の構想とはかなり異なり(タイトルも当初は『月蝕』であった)、結末も当初の明るい救済ではなく暗い虚無で終わる作品となりましたが、井上隆史氏は遺された創作ノートを手がかりに、三島が当初書きたかった明るい作品の粗筋を大胆に想像しています。「粗筋の粗筋」を紹介します。
発表された『天人五衰』とは異なり、ジン・ジャン(月光姫)に続く転生者を探す本多繁邦の前に、それぞれ松枝清顕・飯沼勲・月光姫を思わせる「三つの黒子」がある候補者が三人も現れます。しかし詳しい調査の結果、三人ともニセモノと分かり、本多は新たに清水港で出会った安永透(やはり「三つの黒子」があるが、本多には確信は持てない)を養子に迎えます。狂女・絹江と親しいのは発表作品と同じですが、透は麻薬の密輸に関わっており、透を東京に行かせまいとする絹江を孤児院時代の仲間に強姦させ、さっさと上京してしまいます。
やがて透は本多に暴力をふるい始め、本多は神宮外苑で覗きをして傷害犯人と間違えられ、週刊誌に暴露記事を書かれてしまいました。一方、透も復讐に燃える絹江にひき逃げされ、負傷して入院します。
絹江を知らない本多はこの事件を密輸絡みの陰謀だろうと推理しますが、癌の宣告を受けて余命を悟り、入院前に月修寺を訪れ、門跡の聡子に会います(発表作品では最後の場面です)。本多の話を聞いた聡子は言いました。
「えろう面白いお話やすけど、その輪廻転生のことや何やら密輸のことは、本多さんがそのように思うてあらっしゃって、実はそのようなことはどこにもない、ということではありませんか・・」
本多は聡子の言葉に激しい怒りを覚えて帰京しますが、そんな怒りの激情が自分にあったことに驚きました。一方、透も絹江の明確な殺意に触れて初めて「生」を実感し、病室を抜け出して強姦事件の現場に行き、絹江に殺されようと決意します。透が病院を出ようとした時、ちょうど病院にたどり着いた本多は透の姿を目にしますが、激しい夏の日を浴びて倒れ込みます。
その瞬間、本多の目に透の姿は清顕、勲、月光姫と四重写しに見え、透は本物の転生者に変貌します。彼らとともに生きてきた本多の全生涯と世界の全貌も甦りました。本多は思いました。
(私はこのまま死ぬかもしれない。自分が解脱するとは思えない。再び愚かしい人生を生きるに違いないが、そのことで私は既に救済されている)
背後で本多が倒れたのも知らず、透は夏の日の中を歩み去っていきました。
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2018年9月3日 サブタイトルを冒頭の文からタイトルに移動しました。

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