2018年10月

1989年は、1月7日に昭和天皇が崩御し、元号が平成に代わった年でした。11月9日にベルリンの壁が撤去され、ドイツ統一とソ連崩壊への流れが決定的になりました。しかし中国では、4月の胡耀邦前総書記の死をきっかけに民主化運動が盛り上がり、労働者と学生たちがデモを繰り広げました。これに対してトウ小平を中心とする中国共産党指導部は6月4日、北京の天安門前広場に大軍を投入して大弾圧に踏み切りました。
この事件は、私の中で未だに決着がついていません。当時、私は依然として精神的に不安定ではありましたが、ようやく復学して卒業の見通しがつき、表面的には回復してきていました。あの事件の衝撃は、言葉にすることが出来ません。
誤解されているかもしれませんが、東大駒場の中国語クラスは、中国共産党のシンパではありません。合宿で「インターナショナル」を歌ったのは事実ですが、「♪わたしのすきな ぺきんのてんあんもん われらをみちびく いだいなもうしゅせき」という歌詞の歌(タイトルは忘れました)の「もうしゅせき(毛主席)」をいろいろな人物に替えて面白おかしく歌ったりもしました。それでも中国革命は基本的に正しい方向だと感じていました。
かつての日本の安保闘争が、右翼に言わせればソ連と中共の煽動であったように、あの事件はアメリカの煽動だったのかもしれません。事件の後、アメリカや日本では、中国共産党がソ連のようにすぐにでも崩壊するかのようなキャンペーンが行われましたが、30年経っても中国共産党は存続しています。
中国は古代から戦争と革命が繰り返された国です。古代の革命とは王朝の姓が代わる「易姓革命」ですが、孫文と毛沢東の革命は近代的なように見えても「易姓革命」の変種に過ぎないという見方もあります。
日本は平和が続いた国です。戦国時代は日本史の中では苛烈な時代でしたが、中国風に言えば戦国時代ではなく、春秋時代のようなものです。大名たちは天皇と将軍の権威は認めていたからです。織田信長さえ天皇を滅ぼすことはしませんでした。たとえ考えていたとしても。
私はカーチス・ルメイの無差別爆撃は許せないと思っていますが、中国人から見れば、日本人は何とウブな国民かと思うでしょう。たった一度、初めて外国に占領されただけで、その国に永遠についてゆき、その世界征服を助け、その国の盾になって滅びようとするとは。
安倍晋三が親中外交に舵を切ったのには開いた口が塞がりませんが、悪い方向ではないでしょう。今後も警戒して見てゆきたいと思います。
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中国の古書に出てくる「倭は自ら太伯の後と云う」という記述について考察しましたが、今日は更に突飛なことを考えてみようと思います。突飛になり過ぎて「あっちの世界」に行かないようにしたいですが・・(もう行ってしまっているかもしれない?)
後世の南宋や日本の儒学者や禅僧は、これを中国の春秋時代の西暦紀元前5世紀に滅亡した呉の太伯と考えたわけですが、実は根本的な疑問があります。まず、どの史書にも「呉の太伯」とは書かれておらず、単に「太伯」としか書いてないこと。もう一つは、呉の太伯には子が無かったと司馬遷の『史記』に明記されているのに「太伯の子孫」はおかしいことです。それで以前の投稿では「倭の太伯」を考えましたが、「太伯」は同音の「太白」と書かれる場合もあります。
「太白」は中国では金星を指します。唐の詩人・李白の母は息子を身ごもったとき、金星を夢に見たので息子の名前を「白」、字(あざな)を「太白」と付けたことは有名な話ですね。
「金」(きん)と言えば、韓国には金という姓が多い。中でも一番多いのは釜山に近い金海を本貫とする「金海金」の人たちです。この金海という場所は歴史的に日本と深い繋がりがあります。日本書紀や三国史記では任那(みまな)加羅(から)または伽耶(かや)と呼ばれ、さらに古く魏志倭人伝などでは「狗邪(くや)韓国」と呼ばれました。
『魏志』というのは正確に言えば『三国志』の『魏書』です。『三国志』は小説やゲームではなく、本来は3世紀、中国の魏・呉・蜀の三国時代が終わった直後、晋の時代に書かれた歴史書です。朝鮮半島の三国時代は中国より遅く、4世紀から7世紀まで高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)が争った時代で、この三国が全て滅びた12世紀の高麗(こうらい)の時代に書かれた史書が『三国史記』で、13世紀に書かれたのが『三国遺事』です。『三国遺事』は伝承史的で日本の『古事記』に近く、『三国史記』は『日本書紀』のようなものです。
『日本書紀』は中国の『春秋』のような編年体の史書ですが、『三国史記』は中国の『史記』のような紀伝体の史書です。従って、三国の歴代の王のことを書いた「本紀」、王以外の重要人物を書いた「列伝」があります。その『三国史記』金ユ信列伝(「ユ」は難しい字です)が今日のテーマに関係します。
金ユ信は新羅の武将で、三国統一戦で大いに活躍した人ですが、もとは新羅人ではありませんでした。かつて「狗邪韓国」と呼ばれた任那、現代の金海にあった「金官加羅国」の王家の子孫です。金官加羅国は532年に新羅に滅ぼされました。その最後の王は新羅に降伏して貴族になり、その曾孫が金ユ信です。この金ユ信の墓碑(現在は残っていないようです)に刻まれた内容が列伝に載っています。
それによると、金ユ信は金官加羅国の初代・首露王の子孫です。これはまあ、予想通りですが、その首露王の先祖をたどると「少昊(しょうこう)」に行き着くと言います。少昊は中国の伝説上の帝王・黄帝(こうてい)の子で、金天氏、または白帝とも言い、金星の化身でもあります。
ここでやっと、繋がりました!「倭は自ら太伯の後と云う」の「太伯」は「太白」則ち金星で、少昊金天氏を指すように思われます。『魏志倭人伝』や『後漢書』によると、狗邪韓国は倭の一国であるように読めますから、「我々は太伯の子孫」と話したのは狗邪韓国人だったかもしれません。筑紫国も『古事記』では「白日別(しらひわけ)」という別名を持っているので、筑紫にも太白信仰があったとも考えられます。東日本に広がる「天白(てんぱく)」信仰も見直す必要がありそうです。
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1982年11月29日(月曜)の朝日新聞は「東大駒場に機動隊100人、けんかの通報、4人を逮捕」と題する記事を載せています。社会面の小さな記事ですので、全文を引用します。

28日午後4時50分ごろ、東京都目黒区駒場3丁目、東大教養学部寮内で、サークル同士のけんかがあり、1人がけがをした、との通報で目黒署員が正門前に駆けつけたところ、「解決したので敷地内から出てほしい」とする学生側と押し問答になった。集まってきた約六、七十人の学生がパトカーなど3台と署員8人を取り囲んだため、機動隊員約百人が出動した。
午後9時半すぎ、機動隊員が署員を救出しようと学生を排除にかかった際、男性4人を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。
逮捕された4人は黙秘している。調べによると、押し問答しているうち、署員が写真を撮影したことから、騒ぎが大きくなり、取り囲んだ学生がスクラムを組み始めた。逮捕された4人は、排除しようとした際、機動隊員に暴行したため、と同署はいっているが、残された学生側は「暴行はしておらず、不当逮捕だ」と話している。

「寮内」とあるのは東大の学生寮「駒場寮」のことです。私はこの頃、もうひとつの学生寮「三鷹寮」に住んでいて、日曜の夕方から夜に起きたこの事件のことは知りませんでしたが、月曜に出てきて事件を知らせるビラを見て驚きました。いつも学生自治会のビラには委員長と副委員長の名前があるのに、副委員長の名前しか無いのです。逮捕者4人の中に委員長が含まれていたのです。中国語クラスの会合でも、騒然とした雰囲気でした。ちょうど自民党総裁選で田中角栄の支持を受けた中曽根康弘が勝利し、中曽根内閣が発足したばかりです。「絶対、中曽根が勝ったのと関係あるよね」という声があがり、私もそう思いました。
副委員長がやって来て「断固、許しがたい暴挙に抗議しましょう」ということになり、街頭でデモ行進を行いました。安田講堂が戦場になり、駒場で三島由紀夫が東大全共闘と討論した時代は既に昔のことでしたが、この頃まではまだ名残があったように思います。
この事件の前の週に駒場祭があり、クラスで演劇も行いました。私は運動神経ゼロでセリフの覚えも悪いので、最初から最後まで舞台の端に立っているだけの役でした。(二言三言あったかも?)日本神話のオオクニヌシの国譲りの話でしたが、「流れに押し流されてゆけばいいのだ」という感じのテーマには納得出来ず、「みんな老成してるな」と思ったのを覚えています。
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https://youtu.be/Tatr4uSXcmw
季節外れで申し訳ありませんが、有名な曲ですね。物憂い夏の雰囲気がよく出ております。
私も会社に勤めていた頃は、ガラにもなくKARAOKE をする機会がありましたが、そういうときはサザンオールスターズの曲や、桑田佳祐氏が書いた曲をよく歌っておりました。あまりマイナーな曲は入っていなかったし、入っていても歌うわけにいきません。桑田氏の曲は知名度が高いし、とても歌いやすいのです。中でもこの曲を歌うと好評?でした。笑われただけという話もありますが。
言うまでもなく、私の実生活とは何の関係もない内容です。そもそも小学生の時を最後に海で泳いだことは無く、体育の水泳の授業も眼病のために受けていませんから、おそらく泳ぎ方さえ忘れています。大地震で津波に襲われたら、それこそ「あきらめて」溺死するしかありませんね。大学時代の初期を最後に女性と付き合うこともしていません。
歌の面白い(恐ろしい?)ところは、そんな私でも一応は歌えてしまうということです。桑田氏は昭和の歌謡曲をよく研究していて、多くの楽曲を他の歌手に提供しています。
他には『真夏の果実』という曲もよく歌ったものです。大学生活の思い出を歌った『Ya Ya あの時代を忘れない』や、原由子氏が歌う『鎌倉物語』も美しい曲だと思いますが、ちょっと地味であまりKARAOKE 向きではありませんでした。
太田裕美さんとの関連で言うと、太田さんと桑田氏がある番組で共演したことがあり、太田さんの『青空の翳り』を聴いた桑田氏が「きれいな曲ですね」と話しかけ、太田さんは(桑田さんもこんな曲が好きなのね!)と驚いたそうです。
サザンオールスターズの曲では『チャコの海岸物語』という曲が人気があるようですが、私はあの曲の何処が良いのか全然分かりません。名曲も多いが駄作も多いという印象です。デビュー曲は『勝手にシンドバッド』というタイトルで、当時流行していた沢田研二の『勝手にしやがれ』とピンク・レディーの『渚のシンドバッド』を合わせたタイトルです。あの曲をラジオで初めて聴いた時は「ふざけた奴らだ・・」と思っただけで、その後の彼らの活躍は想像出来ませんでした。
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子供の頃、歴史を学んで不思議に思ったのは、古い時代は理科で習うのに新しい時代は社会科で教えられることでした。生物や地球、さらには宇宙の過去は理科であり、猿人とかアウストラロピテクスとか、人類が出てきたら社会科になるのです。
宇宙タレントの黒田有彩さんも宇宙の始まりに興味があったそうで、大学では重力波について研究されたそうです。

宇宙は138億年前に生まれたと考えられているので、もし138億光年向こうを望遠鏡で見ることができたら、宇宙が生まれたばかりの姿が見えるはず。でも、可視光や電波などの電磁波では、宇宙が生まれて38万年後からしか見ることができないんですよね。(『宇宙女子』110頁)

そこで重力波の観測が重要になるようですが、宇宙に始まりがあったということが、どうも私は感覚的に腑に落ちません。
昔の人々にとっては、歴史は神話につながっていました。たとえば『古事記』の冒頭は次のようです。

天地初めて發(おこ)りし時、高天原に成りし神の名は、天乃御中主神。

『旧約聖書』の『創世記』の冒頭は・・

始めに神が天地を創造された。地は混沌としていた。暗黒が原始の海の表面にあり、神の霊風が大水の表面に吹きまくっていたが、神が「光あれよ」と言われると、光が出来た。

これを読むと、天地には始まりがあるが、神は永遠の昔から存在していたように読めます。
司馬遷の『史記』は五帝本紀から始まっており、五帝の最初は黄帝(名は軒轅)ですが、「軒轅之時、神農氏世衰」とあるように、黄帝の前に「神農氏」の時代があったとしていますから、黄帝がすべての始まりというわけではありません。唐の司馬貞が三皇本紀を追加しましたが、最初の伏羲にも母がいます。この『史記』のほうが私としては腑に落ちます。どこまで遡っても、すべての始まりというものは無いのではないか。それなら、すべての終わりというものも無いように思えます。
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