2018年10月

「司天台」は野尻抱影のエッセイ集の「11月27日」のタイトルです。唐の白楽天の同名の詩を訓読して引用したもので、「昔の天文台のことを引いて、現在の天文官を諷刺した詩」と注釈されています。

司天台 仰いで視、俯して察す天と人との際(つらなり)。
羲と和と死してより来(このかた)、職事は廃れ 官に賢を求めずして空しく芸(わざ)あるを取る。
昔聞く西漢の元成の間(ころおい) 下は凌ぎ上は替(すた)れて、その責め天に見(あら)わる。・・(後略)

「西漢」は前漢王朝のことで、「元成の間」とは西暦紀元前1世紀の後半に在位した元帝と成帝の時代を指します。「責め」は変換出来ませんでしたが、本来は「滴」のサンズイをゴンベンにした字です。詩はまだ続きますが、「羲と和」は「堯の時代の天文官」と注釈されています。
堯は中国の伝説的な「五帝」の一人で、すぐ後の舜とともに理想的な政治をした聖人なのだそうです。司馬遷の『史記』によると、羲氏と和氏は堯の時代から天文を司りましたが、夏王朝の中康の時代に酒色に溺れて職務を怠り、胤という武将に征伐されてしまいました。
『書経』の「夏書」にはこの事件の詳しい記述があり、羲と和が日食の予報を忘れたために世の中が大騒ぎになったということです。しかし今から四千年近く前に日食の予報が出来たのか疑わしく、現代の天文学者の計算でも該当する日食が見当たりません。政治的な陰謀だったのかもしれません。
面白いことに「羲和」は『山海経(せんがいきょう)』などに伝えられる神話では太陽を生んだ母の名になっており、この羲和は東の海の彼方に住んでいます。まるで日本のイザナミかアマテラスのようです。この「羲和」と天文官の「羲と和」がどう関係するかも面白い問題です。彼らが日食の予報を忘れて引き起こした騒ぎも、アマテラスの「天の岩戸」神話に似ているようにも思えます。
羲和でもう一つ思い出されるのは「義和団」です。義和団は日清戦争の後、中国で外国人を排斥する運動の中心となった団体で、逆にロシアや日本の軍事介入を招き、日露戦争の原因になりました。いろいろ調べてみましたが「羲」と「義」は別の字ですし、この団体が羲和と関係するかどうかも分かりません。何かご存じでしたらご教示下さい。
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2018年10月16日追加
菊地章太『義和団事件風雲録・ぺリオの見た北京』という本によると、義和団の名称は「義和拳」という拳法に由来し、「義気を和合する」という意味だそうです。羲と和、羲和と直接の関係はないようですね。

以前の投稿で、古文献における倭人の歴史が三千年前の「呉の太伯」まで遡れるだろうという話をしましたが、更に遡ってみましょう。ここまで来ると多少怪しいですが、見方によっては面白いです。
日本には専門家からは白眼視される「古史古伝」があり、その中に「富士古文書」と呼ばれるものがあります。富士山麓の宮下家に保存されていたので「宮下文書」とも呼ばれます。林房雄はこの古文書に興味を抱き、『天皇の起原』で詳しく紹介しています。
富士古文書には明らかに後世の付加と思われる部分がありますが、これは古くから書き写されてきた古文書には避け難いことで、それだけで全体を虚偽と断定することは出来ません。そうかと言って全てを信じられないのも明らかです。大筋は次のようです。
クニノトコタチに始まる天神七代、アマテラスに始まる地神五代の部分は記紀に似ていますが、富士古文書では天神七代の前に「天之世七代」と「天之御中世十五代」があり、これは日本列島でなく大陸の時代とされています。その後、クニノトコタチが日本に渡航し、富士高原に都を置きました。天神七代と地神五代は富士高原の時代です。記紀では地神三代目のニニギが高天ヶ原から九州に降臨し、その曾孫の神武天皇が大和に東征しますが、富士古文書では地神五代と神武天皇の間に、九州に都を置く「ウガヤフキアエズ朝」が51代続いたとされています。君主の称号は「神皇」です。
この「ウガヤフキアエズ朝」の33代目の時、大陸では殷の紂王が周の武王に滅ぼされました。そして紂王の第三子である「対馬王」が臣武丁に守られて対馬に漂着し、殷国の暦を神皇に奉りました。対馬はそれまで「附島(つきしま)」と呼ばれていましたが「対馬」と改められました。
紂王は殷の第30代の王なので、代数から推定するとウガヤフキアエズ朝は殷の前の夏(か)王朝の末頃に始まったと思われます。夏は17代続いた王朝なので、12代前のクニノトコタチは夏王朝の初期に日本列島に来たことになります。大雑把もいいところですが(笑)
ただ、この時期はちょっと面白いです。魏志倭人伝に次のように書かれているからです。

夏后少康の子、会稽に封ぜられ、断髪文身、以て蛟竜の害を避く。今倭の水人、好んで沈没して魚蛤を捕え、文身しまた以て大魚水禽を厭う。

会稽は今の浙江省から江蘇省にかけての地名です。少康は夏の第6代の王で、子の一人をそこに封じ、彼はその土地の風習に従って髪を短く切って体に入れ墨をし、越(えつ)の国の始祖になりました。魏志を編纂した陳寿は倭人の風習が越に似ていると言っているのです。
少康の時代ははっきりしませんが、呉の太伯、殷の紂王、周の武王の時代より千年近く古いと考えられています。少康の祖父が第4代王の中康、その兄が第3代王の太康です。夏の初代の禹王は会稽山に葬られました。
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前回投稿した『春の雪』の長い会話の中で、本多は清顕に尋ねました。
「貴様は剣道部の連中が嫌いだろう?あんな連中を軽蔑したい気持でいっぱいだろう?」
清顕は答えました。
「ああ、僕はああいう連中が大きらいだ。軽蔑している」
『奔馬』第三章で回想しているように、本多も剣道部の人間と稽古の懸け声が嫌いでした。とは言っても「清顕と本多とでは、その嫌悪の性質は多少ちがっていた。清顕はその声を繊細な感情への侮辱と感じ、本多はまた理性への侮辱と感じたものだった」という相違がありました。
それから19年後、能を鑑賞する38歳の本多は舞台の上に、対照的な二人の若者の姿を見ます。

鋭く、たけだけしいもう一人の若者の顔が、その消えかかる美の泡沫の中から浮び上ってきた。清顕において、本当に一回的なものは、美だけだったのだ。その余のものは、たしかに蘇りを必要とし、転生を冀求したのだ。清顕において叶えられなかったもの、彼にすべて負数の形でしか賦与されていなかったもの・・

言うまでもなく、二人目の若者は飯沼勲ですが、新潮文庫版『奔馬』の解説で村松剛氏が書いているように、三島由紀夫自身も前半生と後半生で異なる人生を生きたように見えます。

・・のちの氏(三島由紀夫のこと。引用者注)は、かつては我慢できないといっていたその「生臭さ」を愛し、つまりは飯沼勲の方向に近づいてゆく。その点は、作中の本多も同じであって、本多は飯沼少年のあげる野鳥のような叫びに感動し、感動する自分をいぶかしがるのである。むかしの自分がそれと意識しなかった何か深い本質的な部分に、この叫びは訴えかけて来るのだと彼は考える。

私も若い頃は剣道部や運動部など、体育会系の人間は大嫌いでした。何故あんな暴力団みたいな団体に入りたいのか、全く理解出来ませんでした。でも年をとるにつれ、少しは許せるような気がしてきました。剣道は本来は真剣の殺し合いであり、否応なしに死を意識せざるを得ません。死を意識しなければ、本当に深く生きることは出来ないのかもしれません。飯沼勲も竹刀の剣道には満足せず、最後は財界の黒幕・蔵原武介を暗殺し、自刃することになります。
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三島由紀夫の『豊饒の海』第一巻『春の雪』十二章で、大正2年(1913年)の春の雪の日、松枝清顕は仮病で学校を休み、人力車の中で綾倉聡子と接吻をした後、数千人の兵士がうなだれる日露戦争の写真の幻を見ました。その翌日(十三章)登校した清顕は、本多繁邦と長い会話を交わします。本多は清顕の心の秘密に半ば気付きながら、わざと迂遠な話をします。二人の会話(というより、ほぼ本多の独白に近いですが)は「個性」の問題から始まり、「様式」や「時代」を経て、「歴史」と「意志」の問題に発展します。

・・ナポレオンの意志が歴史を動かしたという風に、すぐ西洋人は考えたがる。貴様のおじいさんたちの意志が、明治維新をつくり出したという風に。しかし果してそうだろうか?歴史は一度でも人間の意志どおりに動いたろうか?貴様を見ていて、いつも俺はそんな風に考えてしまうんだ。貴様は偉人でもなければ天才でもないだろう。でもすごい特色がある。貴様には意志というものが、まるっきり欠けているんだ・・

本多はこう話し、次のように断定します。

俺は貴様とはちがって、意志の人間であることをやめられないんだ・・人間の意志が、本質的に『歴史に関わろうとする意志』だということは云えそうだ。俺はそれが『歴史に関わる意志』だと云っているのではない。意志が歴史に関わるということは、ほとんど不可能だし、ただ『関わろうとする』だけなんだ。・・しかし、永い目で見れば、あらゆる人間の意志は挫折する。
・・西洋の意志哲学は『偶然』をみとめずしては成立たない。偶然とは意志の最後の逃げ場所であり、賭けの勝敗であり、これなくしては西洋人は、意志の再々の挫折と失敗を説明することができない。その偶然、その賭けこそが、西洋の神の本質なんだと俺は思うな。・・

本多はこう断定した上で「しかしもし、偶然というものが一切否定されたとしたらどうだろう・・あらゆる自由意志の逃げ場はなくなってしまう」と論じ、「必然の神」を「見るも怖ろしい、忌わしいもの」に思い描き、「それはきっと俺の意志的性格の弱味なんだ」と自己分析します。それに続く本多の言葉は、同じ「必然の神」を表しながら、怖ろしくも忌わしくもありません。

しかし偶然が一つもないとすれば、意志も無意味になり、歴史に関与するものは、ただ一つ、輝やかしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用になり、人間存在の意味はそこにしかなくなる筈だ。

19年後の昭和7年(1932年)、第二巻『奔馬』で38歳の裁判官になった本多は能『松風』を見ながら、この会話を思い出します。三島由紀夫は一部の種明かしもしています。

抽象的な言葉ばかり使ったけれども、あのとき本多の目の前にあったものは、雪晴れの朝の清顕の輝やくような美貌だった。あの無意志、無性格、とりとめのない感情だけに忠実な青年を前にして、本多がそう言った言葉には、おのずから、清顕その人の肖像が含まれていたことは疑いがない。「輝やかしい、永遠不変の、美しい粒子のような無意志の作用」とは、あきらかに清顕の生き方を斥していた。

そして本多は「歴史のなかへ完全に影を没した清顕の中にこそ、本多にまさる歴史関与の本質をみとめざるを」得なかったのでした。
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沖縄県知事選挙は不安もありましたが、翁長雄志氏の遺志を継ぐ玉城デニー氏が当選しました。安倍政権も不正が出来ないほどの大差があったのでしょう。特に印象的なのは、玉城陣営で創価学会の旗が振られていたことです。安倍政権に取り入る本部の圧力に抗した学会の皆さんには敬意を表したいと思います。
カーチス・ルメイの無差別爆撃により、東京大空襲では10万人以上の日本人が焼き殺されました。三島由紀夫が『仮面の告白』で描き、佐藤昭子さんが『私の田中角栄日記』で描いた通りです。しかし沖縄では、それ以上に悲惨な地上戦が行われました。今もアメリカ軍は居座り、名ばかりの独立を与え、沖縄を含む日本を事実上支配しています。ちょうど戦前の「大日本帝国」(誇大広告もいいところですが)が「満州国」を支配したのに似ています。
歴史を振り返れば、前回の投稿でも取り上げた唐僧・鑑真は屋久島に来る前に「阿児奈波」島に立ち寄っています。この島は現在の沖縄本島と考えられています。
15世紀には尚氏の琉球王国が沖縄を統一しました。第6代の尚泰久王は「万国津梁の鐘」を造らせましたが、その銘文には「琉球国は大明(中国)をもって輔車となし、日域(日本)をもって唇歯となす」と刻まれています。言語的に見れば琉球語は日本語の一方言ですが、琉球国の外交は日本一辺倒ではなく、日中等距離を旨としていたのです。
それを打ち砕いたのが江戸時代初期の薩摩藩、次いで明治政府の侵攻でした。明治の「琉球処分」はアメリカのハワイ併合に匹敵する乱暴なものだったようです。
私は沖縄が日本の一県であることには強い違和感を覚えます。歴史的に琉球はヤマトではなく、明治維新まで日本とは別の国だったからです。せめて自治権を与えるか、理想を言えば独立すべきではないでしょうか。
北朝鮮を悪く言う人が多いですが、少なくとも北朝鮮には中国軍もロシア軍もいません。大東亜戦争後にソ連軍が、朝鮮戦争後に中国の義勇軍が駐留しましたが、いずれも数年で撤退しました。
戦後70年以上も日本と韓国に居座り続け、日本の自立、朝鮮の統一、アジアの友好を妨害するアメリカ軍の異常さに、そろそろ気がついてもよい頃でしょう。理想を言えばハワイも解放してアメリカ本土に帰ってほしいです。いや、本土の諸州も原住民に返して、イギリスの植民地に戻ってほしいですね。まず日本から出ていって下さい。
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