2018年11月

ようやく読み終えました。これは今の私にとって面白い小説でした。村上春樹は第三部の最後に参考文献を挙げています。(第一部の最後にも、ノモンハン関連の多くの文献を挙げています)

「満州国の首都計画 東京の現在と未来を問う」越沢明 日本経済評論社 昭和63(1988)年
"BERIA STALIN'S FIRST LIEUTENANT" AMY KNIGHT,PRINCETON UNIVERSITY PRESS,1993

第三部の後半で間宮中尉(春樹はあえて「元中尉」とは書きません)は満州国の崩壊からシベリア抑留の苦難を語ります。日本軍やロシア人、モンゴル人の残虐もリアルに描かれます。アメリカ軍の残虐だけは、赤坂ナツメグなる婦人の話を通じて、しかも絶体絶命のところでアメリカ軍の攻撃中止で救われたという形で出てくるだけです。これは春樹の限界とも見られますが、戦後の日本が満州国の続きであることに彼は気付いています。
クミコの兄、綿谷ノボルは最後に脳溢血で倒れること、新潟が地元であることなど、田中角栄を思わせるところもありますが、角栄と違って東大出の都会的なエリートという設定なので本質的には無関係でしょう。綿谷はむしろ岸信介や安倍晋三に似ています。第三部の442頁で、主人公の岡田トオルは夢の中?のクミコに兄の正体を告げます。

彼は今その力を使って、不特定多数の人々が暗闇の中に無意識に隠しているものを、外に引き出そうとしている。それを政治家としての自分のために利用しようとしている。それは本当に危険なことだ。彼のひきずりだすものは、暴力と血に宿命的にまみれている。そしてそれは歴史の奥にあるいちばん深い暗闇にまでまっすぐ結びついている。

トオルは井戸の向こうの不思議な世界で綿谷?をバットで殴り殺し、現実の世界で綿谷は脳溢血で倒れます。妹として看病する立場になったクミコは綿谷の生命維持装置を止めて殺し、逮捕されます。再びトオルはクミコを待つことになりました。トオルは山奥のカツラ工場で働きながら自分を見守り続けた笠原メイを訪ね、幸運を祈って別れました。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

今日は三島由紀夫の命日ですが、『ねじまき鳥クロニクル』が意外に面白いので続きを書きます。最後の第三部の中程まで読んだところで、まだ最終的な感想というわけにはいきませんが。
この作品では「井戸」(と言っても水が涸れた井戸で「深い穴」のイメージです)が重要なモチーフになっており、第一部『泥棒かささぎ編』では国境警備のモンゴル兵に捕まった間宮中尉がそこに飛び込みます。事実上の強制で、投げ込まれたようなものです。兵たちは小便をかけて立ち去ります。間宮は三日目に本田伍長に助けられますが、それまでの間、井戸の底まで日光が射し込む時(一日に十秒ほど)に死にたいほどの喜悦を感じ、死ぬべき時に死ねなかったという想いを抱いたまま長生きしました。
間宮からその話を聴いた主人公・岡田トオルは第二部『予言する鳥編』で、自分の家に近い涸れた井戸に縄梯子で降り、暗闇の中で多くの回想や夢(のようなもの)を体験しますが、近所の知り合いの女子高生・笠原メイに縄梯子を外されてしまいます。結局は別の女性に助けられますが、井戸から出てきたトオルの顔には不思議なアザ?が出来ていました。
第三部『鳥刺し男編』で、トオルは一層深く井戸に関わるようになります。トオルは去った妻のクミコを待ち続けますが、国会議員になった綿谷ノボル(クミコの兄)はトオルの行動を不審に思い、秘書の牛河を差し向けます。牛河もノボルも、トオルが井戸に何の用事があるのか、全く分からない・・
この「井戸」はドストエフスキーの「地下室」に当たるものでしょう。コリン・ウィルソンの『アウトサイダー』にも繋がり、「ひきこもりの文学」に位置づけてよいと思われます。
三島由紀夫は「俺は待った。もう待てぬ」と言って自決しましたが、岡田トオルは「待つべきときには待たねばならん」という本田老人(かつての本田伍長)の言葉を思い出します。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

これは村上春樹氏の三部構成の長編小説で、まだ読み終わっていません。いま第二部の後半まで来たところです。『ノルウェイの森』よりは読みごたえがあり、私も認識を改めました。
なぜこの小説を読む気になったかというと、ノモンハン事件が扱われているというのに興味が湧いたからです。村上氏がアメリカで生活している頃、図書館にノモンハン事件の研究書が豊富にあったそうで、氏も「ノモンハン」という異国的な響きが子供の頃から好きだったようです。因みに私はずっと「ノハンモン」と間違って覚えていて、だいぶ大きくなってから間違いに気付いたのを覚えています。前にも書いた通り、若き田中角栄が二等兵として戦った戦場でもあります。
第一部でノモンハン事件の少し前、間宮元中尉がモンゴル軍に捕まって井戸に投げ込まれ、本田伍長に危うく助けられる話は、第二部で主人公が東京の井戸に自ら降りて深い内省をする伏線になっています。モンゴル軍の残虐さはリアルに描かれますが、日本軍の残虐は間接的に描かれるのみです。
第二部で主人公から去っていく妻クミコの兄・綿谷ノボルは、三島由紀夫を思わせるところがあります。第一部で主人公は綿谷に初めて会い、こう考えます。

彼の言動の何かが僕を刺激したわけではない。僕が嫌だったのは綿谷ノボルという人間の顔そのものだった。僕がそのときに直観的に感じたのは、この男の顔は何か別のものに覆われているということだった。そこには何か間違ったものがある。これは本当の彼の顔ではない。

読み終わったら、また書くかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

『わが友ヒットラー』は三島由紀夫の1968年の戯曲で、1965年の『サド侯爵夫人』と対をなす作品として書かれたものです。ここには自決に向かってゆく晩年の三島がよく現れています。
新潮文庫の巻末に載っていますが、三島は1969年1月に書いた覚書で次のように書いています。

『わが友ヒットラー』は、アラン・ブロックの『アドルフ・ヒットラー』を読むうちに、1934年のレーム事件に甚だ興味をおぼえ、この本を材料にして組み立てた芝居である。(中略)
国家総動員体制の確立には、極左のみならず極右も斬らねばならぬというのは、政治的鉄則であるように思われる。そして一時的に中道政治を装って、国民を安心させて、一気にベルト・コンベアーに載せてしまうのである。何事にも無計画的、行きあたりばったりな日本は、左翼弾圧からはじめて、昭和11年の二・二六事件の処刑にいたるまで、極左極右を斬るのにほぼ十年を要した。それをヒットラーは一夜でやってのけたのである。

この覚書から、レーム事件と二・二六事件の相似に興味を持ったことが分かります。レーム事件では左翼の大物シュトラッサーも同時に処刑されました。三島によると「シュトラッサーは実際は酒豪で豪快な大男だったが、レームとの対照上、又、日本の現代の観客で彼を知る人の少ないことを計算に入れて、思い切って性格を改変した」とのことです。
第一幕でヒットラーはレームに話しかけます。

ヒットラー エルンスト、忌憚のないことを言わせてもらえば、お前の突撃隊は巨大なノスタルジヤの軍隊だとは云えないかね。
レーム それはどういう意味だ。
ヒットラー 三百万の兵隊は立派に政治的な集団だと云えるかね。かれらの生き甲斐はなつかしい「兵隊ごっこ」にあるとは云えないかね。

三島は覚書でも「レームに私はもっとも感情移入をして、日本的心情主義で彼の性格を塗り込めた」と書いていますが、突撃隊は言わば巨大な「楯の会」として描かれています。三島由紀夫はレームに自分を、ヒットラーに昭和天皇を重ねているように思われます。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

歴史を調べていると、孫引きの二次史料は危ないなと思うことがよくあります。今日は俳優の宝田明氏と1959年ミス・ユニバースの児島明子さんを取り上げます。
このお二人は1966年4月29日に結婚されましたが、ウィキペディアの「宝田明」の項目では「1964年」に結婚と書かれていたので訂正しました。ウィキペディアはまさに「孫引き」なので仕方ない面もありますが、子供の数まで間違っていたのは驚きでした。
週刊朝日の1974年の記事では2男1女がいるとされ、子供の名前と順序も詳しく書かれています。ところがウィキペディアでは「2女」となっており、ネット上で広がってしまっていました。
調べてみると、キネマ旬報社が2012年に出版した『現代日本映画人名事典・男優篇』の「宝田明」の項目に同じことが書かれていることが分かりました。なぜ事典編集者は間違えたのか?
私は内部事情は分かりませんが、推測することは出来ます。ご夫妻の2男1女のうち、有名なのは長女で歌手の児島未散(こじま・みちる)さんです。長く芸能活動を休止しておられましたが、再開されたようです。
ご夫妻は1984年に離婚されましたが、数年後に宝田明氏の「隠し子疑惑」が浮上しました。宝田氏の娘と称する女性が雑誌のグラビアに出たのです。おそらく事典編集者はこの有名な二人をご夫妻の子供と勘違いしたのではないでしょうか。
1953年にミス・ユニバース世界大会で第3位になった伊東絹子さんは、児島さん以上の社会現象となり、私が大昔に読んだ子供向けの日本史の本にも載っていました。この大会は7月17日の夜(アメリカのカリフォルニア州の現地時間、日本では18日)に行われましたが、孫引きの年表で「7月16日」と書かれたものがあり、ネットでも広がっていました。
一つ一つの事象は小さなものですが、やはり事実は大切にしたいものです。
ちなみに三島由紀夫はミスよりミスターに関心があったようで、『鏡子の家』には1954年の「ミスター・ユニヴァース」レオ・ロバートの名前が出ています。舟木収のボディビルの先輩・武井が彼に傾倒しており、肌身離さず持ち歩いているレオの全身像の写真をみんなに見せながら熱弁をふるいます。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

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