三島由紀夫は1958年(昭和33年)『週刊明星』に『不道徳教育講座』を連載しましたが、この中に『スープは音を立てて吸うべし』というエッセイがあります。ここで三島はスープのエチケットを通して「社会的羊」と「一人狼」の違いを述べています。
社会的羊ではないという第一の証明が、このスープをすする怪音であります。野球を見にゆくのは、社会的羊のやることだから、一人狼は見に行く必要がない。ゴルフも社会的羊のスポーツであります。
N子は本講座の優秀な聴講生であるから、恋人のS青年が、レストランで、破廉恥な音を立ててスープをすするのを、むしろ誇りに思っていました。(中略)彼はたしかに羊ではないのです。
ところが、とうとう或る日、彼が精神病医の診断を受けさせられて、精神病院へ入れられてしまったときいたとき、彼女は大へんガッカリして、狼を柵の中へ追い込んでしまった羊の大群の威力に気がつきました。もう一つ羊たちは、監獄という柵を持っています。
三島の喩えは、コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』に引用するラーマクリシュナの語った寓話を思わせます。この寓話では羊と狼ではなく、山羊と虎の話になっています。
あるとき、雌虎が一群の山羊を襲った。餌食に躍りかかったとき、この虎は子を生んで死んだ。子虎は山羊にまじって成長した。山羊が草を食べるのを見て、虎もそれにならった。山羊はメーと鳴くので、虎もメーと鳴いた。こうして子虎は大虎になったが、ある日のこと、別の虎が襲って来た。その虎は、草を食う虎を見て仰天し・・相手を水ぎわに引っぱってゆき、こう言った。「水にうつった自分の顔を見ろ。俺の顔とまったく同じじゃないか」
・・草を食うことは、「女と金」を愉しむようなものだ。山羊のように鳴き、山羊のように逃げることは、普通人の態度に似ている。野生の虎とともに去ることは、導師と起居をともにして、精神を覚醒させてもらうことに似ている。(中村保男訳)
コリンはこの寓話の少し前で「アウトサイダー」の問題を次のように纏めています。
われわれが便宜上「アウトサイダー」と呼びならわしてきた人びとで、意識の部分と、無意識の実体とが密接に触れあっていて、その意識的な心が「より充実した生命」を求める欲求、すなわち、ブルジョワたちにとって大切な安楽とか安定といったものにあまり意を用いまいとする欲求に気づいている人びとがいる。・・もし「アウトサイダー」がこれら内奥の力に漠然としか気づいていない場合には、その力をもっと明瞭に意識し、力が何をめざしているかを知ることが望ましい。「アウトサイダー」は最初こういうことを言う「わたしの内面を探るには孤独が必要だ」そこで、自分だけの部屋にこもるというわけである。ところが、いざ孤独になってみれば、新しい体験に刺激されていたほうが、自分を知るのに好都合である場合が多いということに気づく。
前にも指摘した「引きこもり」の問題とも関係します。
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