2018年12月

三島由紀夫は1958年(昭和33年)『週刊明星』に『不道徳教育講座』を連載しましたが、この中に『スープは音を立てて吸うべし』というエッセイがあります。ここで三島はスープのエチケットを通して「社会的羊」と「一人狼」の違いを述べています。

社会的羊ではないという第一の証明が、このスープをすする怪音であります。野球を見にゆくのは、社会的羊のやることだから、一人狼は見に行く必要がない。ゴルフも社会的羊のスポーツであります。
N子は本講座の優秀な聴講生であるから、恋人のS青年が、レストランで、破廉恥な音を立ててスープをすするのを、むしろ誇りに思っていました。(中略)彼はたしかに羊ではないのです。
ところが、とうとう或る日、彼が精神病医の診断を受けさせられて、精神病院へ入れられてしまったときいたとき、彼女は大へんガッカリして、狼を柵の中へ追い込んでしまった羊の大群の威力に気がつきました。もう一つ羊たちは、監獄という柵を持っています。

三島の喩えは、コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』に引用するラーマクリシュナの語った寓話を思わせます。この寓話では羊と狼ではなく、山羊と虎の話になっています。

あるとき、雌虎が一群の山羊を襲った。餌食に躍りかかったとき、この虎は子を生んで死んだ。子虎は山羊にまじって成長した。山羊が草を食べるのを見て、虎もそれにならった。山羊はメーと鳴くので、虎もメーと鳴いた。こうして子虎は大虎になったが、ある日のこと、別の虎が襲って来た。その虎は、草を食う虎を見て仰天し・・相手を水ぎわに引っぱってゆき、こう言った。「水にうつった自分の顔を見ろ。俺の顔とまったく同じじゃないか」
・・草を食うことは、「女と金」を愉しむようなものだ。山羊のように鳴き、山羊のように逃げることは、普通人の態度に似ている。野生の虎とともに去ることは、導師と起居をともにして、精神を覚醒させてもらうことに似ている。(中村保男訳)

コリンはこの寓話の少し前で「アウトサイダー」の問題を次のように纏めています。

われわれが便宜上「アウトサイダー」と呼びならわしてきた人びとで、意識の部分と、無意識の実体とが密接に触れあっていて、その意識的な心が「より充実した生命」を求める欲求、すなわち、ブルジョワたちにとって大切な安楽とか安定といったものにあまり意を用いまいとする欲求に気づいている人びとがいる。・・もし「アウトサイダー」がこれら内奥の力に漠然としか気づいていない場合には、その力をもっと明瞭に意識し、力が何をめざしているかを知ることが望ましい。「アウトサイダー」は最初こういうことを言う「わたしの内面を探るには孤独が必要だ」そこで、自分だけの部屋にこもるというわけである。ところが、いざ孤独になってみれば、新しい体験に刺激されていたほうが、自分を知るのに好都合である場合が多いということに気づく。

前にも指摘した「引きこもり」の問題とも関係します。
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『銀河鉄道999』の「サルガッソーの底なし沼」の冒頭に、次のような文章があります。

宇宙に生まれ出た生命体が上等も下等もひっくるめて等しくきらうものがある。牢獄という名の脱出不可能な囲いの中に入れられることだ。

最後の文章は次のようなものです。

意志さえあれば脱出できる地球という惑星に生まれた自分を、鉄郎はしあわせだと思う。牢獄のような世界を鉄郎はあちこちで見て来た。これからゆく所がそうでないことを今は願うだけだ。

私はこの話を読むと、若い頃に愛読したゲーテの『若きウェルテルの悩み』の次の文章と比べてみたくなるのです。(井上正蔵訳)

むかし、よくここに立って水の流れに見入ったものだが、そのとき水のゆくえを追いながら、ぼくはなんという不思議な予感をおぼえたことだろう。そして、この川の流れゆく先の国々を、どんなに冒険的(ロマンチック)に思い描いたことだろう。すぐにぼくの想像力は限界点に達してしまうのだったが(中略)ところが、きみ、あのすばらしい祖先たちは、あんなに制約を受けながら、あんなに幸福だったじゃないか! その感情、その詩歌のみずみずしさ! オデュッセウスが限りない海や果てしない大地について語るとき、その言葉はあくまでも真実で、人間的で、切実で、緊密で、神秘に満ちているのだ。いまさら、ぼくが小学生のまねをして、地球はまるい、などと言ってみたところで、それがなんの役に立つだろう。

私はコペルニクスやガリレオの業績を否定するものではありません。子供の頃は彼らの物語を感動の涙を流しながら読んだものです。しかし人間は本当に「意志さえあれば地球を脱出できる」のでしょうか。そもそも、なぜ地球を脱出したいと思うのでしょうか。
アインシュタインは一般相対性理論から導かれる「ブラックホール」の存在を予言しました。万有引力とは時空の曲がりです。地球ぐらいの引力では大したことはありませんが、想像を絶して重いか、または密度が高い星、たとえば地球ぐらいの重さで直径が1センチしかない星の周囲では時空が曲がりきって閉じてしまい、光も含めてどんな物質も外に脱出できなくなります。地球の33万倍も重い太陽ぐらいの重さだと、3キロメートル以内に縮めばブラックホールになります。全宇宙の重さを考えると300億光年でブラックホールになります。不思議なことに、これは人類が推定した宇宙のスケールとほぼ同じです。つまり、宇宙は巨大なブラックホールと考えることも出来るわけです。
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私が住んでいる愛知県は製造業が盛んなところで、工場が多いです。しかし私の両親は英語と社会科の教師で、ものづくりをバカにする傾向が強い人達でした。建設業に携わる人達のことも「土方(どかた)」と呼んでバカにしていました。工場で働く人達より、自分達は高等な人種であると本気で思っているように見えました。私も反発しながら影響を受けてしまっていました。
文学者の中では稲垣足穂は工作や機械が好きな人物でしたが、漫画家では松本零士がそれに当たります。『銀河鉄道999』の「鋼鉄天使」ではマスプロンという工場惑星が登場します。ここは銀河鉄道の車両を含め、全宇宙のありとあらゆる製品を作り続けているところです。停車駅の名は「旋盤駅」で、泊まるホテルは「フライス盤ホテル」です。物を生産すること以外に何の関心もなく、確かに問題はあるのですが、それでも星野鉄郎はメーテルにこう言います。

ぼくは何もせずに文句や不平ばかり言ってる人より、一生懸命働いて物を造っている人が好きだよ。オイルのにおいも好きだよ。

神ならざる人間には無から何かを創造することは出来ませんが、材料を集めて組み立てて誰かのために何かを作ることは、本来とても楽しいことではなかったのでしょうか。それが大規模に進歩し過ぎると、カール・マルクスが言ったように「疎外」が生まれるのでしょう。マックス・ピカートが書いたように、現代の都会の大工場は怪物のようなもので、「工場」とは別の名前で呼ばれるべきものです。中には戦争や人殺しの武器を造っているものさえあります。

人間が造った「もの」は果てしなく宇宙に広がってゆく。きらめく星の光の中で持ち主をはげまし助け、ともに喜び悲しみ、そしていつか壊れて消えてゆく。鉄郎は働いてものを造る人たちがとても好きだ。

『銀河鉄道999』では「ネジ」がとても重要な役割を果たします。鉄郎は機械の体をもらいにアンドロメダに行きますが、最後にどうしてもカタログから選ぶことが出来ず、ネジの体にされそうになります。ネジは車輪とともに人類の偉大な発明であることを改めて感じます。
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松本零士の漫画『無の黒船・クライシスⅢ』は1988~89年に夕刊フジに連載されました。謎のテロ組織によって日本列島の沿岸がクラゲに覆われ、原子力や火力を含むすべての発電所が停止に追い込まれるという設定で、2011年の福島原発事故を思わせるところがあります。
今まで当ブログでは手塚治虫以外の漫画は取り上げてきませんでしたが、1970年代に『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』を大ヒットさせた松本零士の漫画も、私の精神形成に少なからぬ影響を与えています。戦後の日本が、悪く言えば奴隷や豚のような平和を貪っている現状に憤りを覚えた彼の思想は、三島由紀夫に共通するところがあるでしょう。
『無の黒船』は科学雑誌『ニュートン』の編集などで知られる地球物理学者、竹内均の監修を受けています。作品の中で竹内氏は「第3次元科学産業情報研究所」なる架空の研究所長として登場し、組織に誘拐された部下の女性科学者を「人間戦利品」と表現し、「フォン・ブラウン博士の例もある」と発言します。

第二次大戦の時は・・工業設備の全てを失い、そこで造り出した飛行機も、自動車も戦艦も空母もロケットも、全部を失ったみじめな日本人・・彼らに日本人の頭の中は見えなかった。能力も気力も見えなかった。気付いた時は超々経済大国。そして今度はアジアのカルタゴとしての運命を強制されようとしている・・

この作品では最後に原子力発電所を「やむを得ず」再開し、当面の危機は去り、根本的な解決は将来に委ねていますが、これには大いに疑問があります。原子力発電をやめる以外にどんな根本的解決があるのか、私には分かりません。三島由紀夫は「日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目のない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」と言いましたが、日本は既に経済大国ですらありません。
ケネディが宣言して実現させた(ことになっている)アポロの月への有人飛行に捏造疑惑が出てくると、松本氏の漫画も違う見方になります。『銀河鉄道の夜』の宮沢賢治も地球物理学に深い関心を抱いていましたが、幻想文学としての価値は今後も変わらないでしょう。
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村上春樹の『1Q84』を一通り読みました。終わりまで読んで思ったのは、やはり健全?な作家だなということです。
三島由紀夫と共通する部分もあり、なるほどと思わせる終わり方ですが、その「なるほど」と思わせてしまうのが三島との決定的な相違です。三島の場合は最後の最後でそれまで積み上げてきた積木を崩してしまいますが、春樹はそんなことはしません。
料理、食べ物や服装の描写が多いことも目につきます。時代的な違いもあるでしょうが、三島は料理などは得意ではなかったように思われます。私もお湯を沸かす程度のことしかしていないので、春樹氏には感心してしまいます。
『1Q84』を読んで似ているなと思ったのは、フレドリック・ブラウンのSF小説『発狂した宇宙』(1949年)です。原題は"What Mad Universe"ということです。
『1Q84』では青豆雅美という変わった苗字の女主人公が首都高速道路の非常階段を降りて別の世界(月が二つある世界)に迷い込み、そこで多くの試練を経て小学校時代の恋人?だったもう一人の主人公の川奈天吾と再会します。この世界は天吾がゴーストライターとして書き直したある少女の小説の世界でしたが、最後に青豆と天吾は首都高速の非常階段を上ってその世界を抜け出します。そこは月は一つですが、元の世界と同じかどうかは曖昧なままです。
『発狂した宇宙』は出版当時は近未来だった1954年が舞台です。主人公のキース・ウィントンは独身で、SF雑誌の編集長ですが、宇宙ロケットの発射を取材中に爆発に巻き込まれ、別の世界に飛ばされます。そこでは地球は宇宙からの恐るべき侵略者、アルクトゥールス星人と激しい戦争を繰り広げていました。ウィントンは彼らのスパイと間違えられて追われる身になります。実はこの世界は、SFマニアでウィントンの雑誌の愛読者だった少年が夢想していた世界でした。そこでウィントンはアルクトゥールス星人の宇宙船に体当たりする特攻隊に志願し、再び爆発に巻き込まれて元の世界に戻ります。その世界は元の世界に似ていましたが、大きく違っていました。ウィントンは雑誌社の編集長ではなく社長で、美しい夫人と共に豪邸に住んでおり、めでたしめでたしの結末となります。
三島はSF好きでしたから恐らくこの作品は知っていたでしょうし、春樹も参考にしたのではないかと思います。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m

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