2018年12月

私がハンドルネームに使っている「アンタレス」はさそり座の赤い一等星で、夏の宵に南天で輝いています。今の季節は見えません。冬で赤い一等星と言えば、オリオン座のベテルギウスがよく知られています。
ベテルギウスは超新星として爆発する寸前だということが天文学では言われています。「寸前」と言っても天文学的な時間のことですから、今夜かもしれないし、数千年後かもしれません。もし爆発すれば満月のような明るさになり、大きな騒ぎになると思われます。
アンタレスやベテルギウスは直径が太陽の数百倍、体積はその三乗で数百万倍もあると言われますが、これほど体積が違っても、質量(重さ)はそれほど太陽と変わらず、数十倍の違いしかありません。ほとんどの質量は小さな中心核に集中しており、それ以外の大部分は「赤い真空」のようなものです。
恒星の一生は、質量だけでほぼ決定されます。太陽程度の質量の星は原子核融合がゆっくりと進むので寿命が数十億年と長く、爆発も起こさずに静かに死んでゆきます。アンタレスやベテルギウスのように重い星は激しく反応して明るく輝き、寿命は短く(と言っても数百万年のスケール)超新星の大爆発を起こして周囲に破片を撒き散らし、中心核は逆に収縮して時空が歪んだブラックホールになるようです。早い話が、質量が大きければ「太く短い」一生であり、質量が小さければ「細く長い」一生になるということです。とても単純です。
質量だけで決まる恒星の一生に比べて、生物や人間の一生は遥かに複雑です。細胞分裂で増える原始的な生物の場合、「寿命」の概念がハッキリしません。人間の場合、長くて数十年から百年の一生はとてもハッキリしているように見えますが、細胞の単位で見た場合、生殖細胞は太古の地球で生物が誕生してから数十億年にわたって生き続けているという見方も出来ます。
生物と無生物の境目も大きな問題です。細菌(バクテリア)は間違いなく生物ですが、結晶するウィルスは生物と無生物の中間的な存在です。現在のような地球の環境では無生物から生物が発生することは有り得ないとされますが、太古の過酷な地球環境ではそれが起こったはずです。
こうした科学的な思考はある程度の精神的な安らぎを与えてくれますが、それだけでは説明のつかない部分もありそうです。それは宗教や芸術で補われるべきものかもしれません。
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村上春樹の『1Q84』はジョージ・オーウェルの『1984年』を下敷きにしています。1984年は私が駒場から本郷に進学した年で、無気力の初期症状が出てきた頃です。当時も『1984年』は話題になっており、渋谷の三省堂書店(だったかな?)には文庫本が山積みになっていた記憶がありますが、特に買って読むことはしませんでした。
この年は昭和59年に当たります。1970年代はまだ元号が優勢で、西暦を使うとハイカラな印象があったと思います。三島由紀夫が『豊饒の海』の最後に書き記した日付は「昭和四十五年十一月二十五日」であって、「1970年」ではありませんでした。私が大学に入った1982年(昭和57年)はちょうど過渡期で、クラスに付ける年号が「57」と「82」の両方が使われていたように記憶しています。
オーウェルの『1984年』が流行った辺りから西暦が優勢になり、昭和が終わった後は元号は顧みられなくなったという印象です。
村上春樹の『1Q84』では主人公たちが別の世界に入り込み、そこでは月が二つあるという設定になっています。大きな月と小さな月。誰にでも二つ見えるわけではないようで、科学的に考えると奇妙ですが、SF小説ではないのでこれでも良いのでしょう。
三島由紀夫は20歳で敗戦を迎え、その呪縛から一生逃れませんでしたが、村上春樹にとっては敗戦は生まれる前のことです。生まれる前のことは、その人にとっては「無かったこと」で良いのかもしれません。それでも何かがおかしいような気がします。
あの敗戦が余りにもひどく、無差別爆撃や原爆など、敵の残虐さが余りにも人間離れしていたため、日本人は「ストックホルム症候群」にかかったのではないかと思います。問題は「警察」がいないことです。ウルトラマンが宇宙から助けに来てくれれば良いのですが、そんなものを当てにするわけにもいきません。理想を言えば、アメリカが昔イギリスに挑んだように独立戦争を辞さない覚悟が必要でしょう。
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村上春樹の『1Q84』には「証人会」という宗教団体が出てきます。「さきがけ」「あけぼの」はオウム真理教を思わせますが、「証人会」は輸血を拒否していて「エホバの証人」をモデルにしているようです。
青豆という女主人公、おそらく村上春樹もこの「輸血拒否」は悪であると考えています。しかし私は、エホバの証人の信者ではありませんが、一概に輸血を「善」、輸血拒否を「悪」と断定することにはためらいを感じます。輸血はあまりにも普及していて不感症になっている人が多いでしょうが、「臓器移植」に置き換えるとためらう人は少なくないのではありませんか。
生きる手段が他に無い場合、他人を食べるのは正しいことでしょうか。戦場などではそうした例もあるようです。私も同じ状況ではどうするか分かりませんが、少なくとも今は「間違っている」と言いたい気持ちがあります。たとえ「どうぞ私を食べて下さい」と言われてもです。臓器移植と人食いは同じことではありませんか。
健康保険証に臓器提供欄が出来たのはいつ頃だったでしょうか。私はもちろん「提供しません」に丸をつけています。しかし、本当に私が脳死状態になったら、医師たちがそれを尊重するかどうかは怪しいものです。彼らは新鮮な臓器を貧乏人からむしり取って、お金持ちに移植したくてたまらないでしょう。私は出来る限り抵抗しますが、そういう覚悟もしています。
臓器移植が人食いなら、輸血は吸血鬼の所業です。エホバの証人の主張には一理あるという気がします。
手塚治虫の『ブラックジャック』を読むと彼は臓器移植を無条件に肯定しているようですが、『火の鳥』復活編では懐疑的な描写もあり、揺れ動いています。三島由紀夫は『不道徳教育講座』の『プラスティックの歯』で人工臓器の問題を書いていますが、移植について書いたものは思い出せません。
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世間から何十年も遅れて村上春樹が気になり始めて、今は『1Q84』を読み始めたところです。この小説はジョージ・オーウェルの『1984年』を下敷きにしており、予備校で数学を教えながら小説を書いている天吾という男と、殺人の仕事をしている青豆という女の話が交互に進みます。青豆の世界ではタクシーでクラシック音楽を聴いたのをきっかけに世界が変わってしまい、1984年から謎の1Q84年に入り込むという設定のようです。
『海辺のカフカ』でも家出をする15歳の少年と、猫と話が出来る老人の話が交互に進みますが、この書き方は三島由紀夫の『鏡子の家』を思い出させます。田中西二郎はこれを「メリ・ゴオ・ラウンド方式」(古めかしい表現です・・)と呼びます。『鏡子の家』では主人公は4人であり、お互いに知り合いなので違いもありますが。

この長編で、たしかに作者は戦後日本の一時期の退廃を描き切った。が、それだけで終わらせずに、一輪の水仙花を点出する鬼工によって、日本的古典主義的唯美主義の直観を読者に垣間みさせている・・

田中氏はこのように評しましたが、村上春樹の場合はどうでしょうか。1989年に昭和が終わり、ドイツの統一やソ連の崩壊が続いた頃、日本もアジアに友人を作り、戦後を終わらせる機会があったように思うのですが、現実は逆に進みました。政治的には一層のアメリカ属国化、文化的には一層の退廃の進行でした。今の安倍政権は、オーウェルの描いたビッグブラザーそっくりになって来ています。
村上春樹は『ノルウェイの森』に見られたような西洋と戦後一辺倒から脱して、アジアや歴史に目を向けるようになっていきますが、彼の文章からは戦後日本が受けた傷跡が深く感じられます。私自身も間違いなくその傷を受けています。日本の中では福島県と沖縄県にその傷が現れており、今後も注視していきたいと思います。
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少し遅れました。最後まで読むのに時間がかかりました。
この小説では多くの主題が扱われますが、その一つがエディプス・コンプレックスです。15歳の少年である主人公は父の予言(呪い)を受けて家出しますが、結局、それは実現してしまいます。また源氏物語に登場するような生霊(いきりょう)が現れ、空から魚やヒルが降ってくる怪事件が起き、運命と意志、現実と虚構の問題も関連します。猫や石と話をする老人など、宮沢賢治を思わせる無国籍性もあり、よくも悪くも戦後の日本の典型的な作家と言えそうです。
『ねじまき撮りクロニクル』との関連で言えば、あの「井戸」に当たるのが高知県の山小屋であると思われます。主人公は終わり近くで森の奥深く進み、大戦中の演習で行方不明になった二人の兵隊と遭遇し、「世界の縁」と思われる場所に導かれ、そこで象徴的な体験をして現実に戻ります。
上巻の第22章で、猫と話をする老人ナカタが道連れになる若いトラック運転手との会話は考えさせられます。

「ナカタは長いあいだ海を見たことがありませんでした」
「そうか」(中略)
「そのころは日本はアメリカに占領されておりまして、エノシマの海岸はアメリカの兵隊さんでいっぱいでありました」(中略)
「日本がアメリカに占領されるわけがないじゃないか」

現実に日本はアメリカに占領されているという自覚すら無いようです。満州国では政府の役所の長官は現地人で、次長は日本人でした。アメリカは狡猾ですから、そこまで露骨なことはしませんが、重要事項は日米合同委員会で決められ、日本の国会は形式的なものに過ぎません。そこから出発する必要があるのではないでしょうか。
お読みいただき、ありがとうございますm(_ _)m

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