「稲垣足穂のエッセイ的小説、小説的エッセイは、昭和文学の最も微妙な花の一つである」と三島由紀夫は言いました。足穂が作品で示している思想は論理的に考えるとおかしいように思えるのですが、それでも不思議に魅せられる点があります。「地球」の最後の部分を見てみましょう。
いったん生まれたものは消えはしない。停滞もなければ、まして後退など考えられない筈だ。めいめいは、それ自ら斜面を転がって行く雪達磨の不断の拡大に置かれている。それは自身の融解すらなお次なる新展開に直結しているような、そんな雪達磨である。われわれには測り知られぬ法則の下に、故人らは依然として発展を持続している。彼らは彼らの道を進んでいる。即ち今も生きている、それは曾て在ったところに較べて、いっそう軽やかな、野山に滲透する広い自由な形式において。彼らが生きているのは、この自分の衷にであるが、同時に、それらの人々でなくては与えられなかった波動を、或る日、或る時に彼らが与え得た他のあらゆる人々の衷において、でもあるだろう。ところでそれら総ては一体何に依存しているのか? 彼らに似た、しかしいっそう大いなる意識に属しているものに相違ない。その大いなる意識は、より大いなる意識の中に。それはついに地球の意識に融け入ってしまう。或る日水の畔で、両極に白い斑点がついた濃緑色の奇妙な滴虫類を見付け、顕微鏡で覗いてみたら、山岳や森や家々や、羊群や犬が検出されて、その中に蠢く一微粒子が計らずもこの自分であったという、そんな地球の意識に包含される。
「いったん生まれたものは消えはしない」とは奇妙です。生まれたものは必ず消え、生まれないものは消えないと思うのが普通ではないでしょうか。ショウペンハウエルが「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」で次のように書いています。
君は、個体としては、君の死とともに終るのさ。けれども個体というのは、君の真実の究極の本質なのではなくて、むしろその本質の単なる現象にすぎない。個体は物自体そのものではなくて、それの現象にすぎないのだ。この現象たるや、時間という形式のなかで展開されるのだから、したがってそれには始めもあれば終りもあるというわけなのだよ。それに反して君の本質はそれ自体においては何らの時間をも知らない。始まりをも終りをも知らない。(斎藤信治訳)
しかし考えてみると、自分が生まれた時のことを覚えている人はいないでしょう。三島由紀夫は『仮面の告白』でそれらしきことを書いていますが、少なくとも私は覚えていません。私が遡れる最初の記憶と言えば、家の庭でパンジー(三色すみれ)が咲いているのを見たことですが、これは美化してしまっているのかもしれません。そうなると人生に「始め」があったかどうかは決め手が無いことになります。普通の人(奇妙な表現ですが)は自分の子供を持って人生の始めを振り返り、親の死をもって人生の最後を予感するのかと思いますが、私はどちらも経験がありません。高校生のとき祖母の葬式に出ましたが、「死」については何も分かりませんでした。
コリン・ウィルソンは「時間」は勝手な抽象であって実体は無い、と言います。確かに実在するのは「永遠の現在」だけで、過去や未来は実在していないのです。それでも人はあれこれ思い煩うのです。
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