2019年01月

「稲垣足穂のエッセイ的小説、小説的エッセイは、昭和文学の最も微妙な花の一つである」と三島由紀夫は言いました。足穂が作品で示している思想は論理的に考えるとおかしいように思えるのですが、それでも不思議に魅せられる点があります。「地球」の最後の部分を見てみましょう。

いったん生まれたものは消えはしない。停滞もなければ、まして後退など考えられない筈だ。めいめいは、それ自ら斜面を転がって行く雪達磨の不断の拡大に置かれている。それは自身の融解すらなお次なる新展開に直結しているような、そんな雪達磨である。われわれには測り知られぬ法則の下に、故人らは依然として発展を持続している。彼らは彼らの道を進んでいる。即ち今も生きている、それは曾て在ったところに較べて、いっそう軽やかな、野山に滲透する広い自由な形式において。彼らが生きているのは、この自分の衷にであるが、同時に、それらの人々でなくては与えられなかった波動を、或る日、或る時に彼らが与え得た他のあらゆる人々の衷において、でもあるだろう。ところでそれら総ては一体何に依存しているのか? 彼らに似た、しかしいっそう大いなる意識に属しているものに相違ない。その大いなる意識は、より大いなる意識の中に。それはついに地球の意識に融け入ってしまう。或る日水の畔で、両極に白い斑点がついた濃緑色の奇妙な滴虫類を見付け、顕微鏡で覗いてみたら、山岳や森や家々や、羊群や犬が検出されて、その中に蠢く一微粒子が計らずもこの自分であったという、そんな地球の意識に包含される。

「いったん生まれたものは消えはしない」とは奇妙です。生まれたものは必ず消え、生まれないものは消えないと思うのが普通ではないでしょうか。ショウペンハウエルが「我々の真実の本質は死によって破壊せられえないものであるという教説によせて」で次のように書いています。

君は、個体としては、君の死とともに終るのさ。けれども個体というのは、君の真実の究極の本質なのではなくて、むしろその本質の単なる現象にすぎない。個体は物自体そのものではなくて、それの現象にすぎないのだ。この現象たるや、時間という形式のなかで展開されるのだから、したがってそれには始めもあれば終りもあるというわけなのだよ。それに反して君の本質はそれ自体においては何らの時間をも知らない。始まりをも終りをも知らない。(斎藤信治訳)

しかし考えてみると、自分が生まれた時のことを覚えている人はいないでしょう。三島由紀夫は『仮面の告白』でそれらしきことを書いていますが、少なくとも私は覚えていません。私が遡れる最初の記憶と言えば、家の庭でパンジー(三色すみれ)が咲いているのを見たことですが、これは美化してしまっているのかもしれません。そうなると人生に「始め」があったかどうかは決め手が無いことになります。普通の人(奇妙な表現ですが)は自分の子供を持って人生の始めを振り返り、親の死をもって人生の最後を予感するのかと思いますが、私はどちらも経験がありません。高校生のとき祖母の葬式に出ましたが、「死」については何も分かりませんでした。
コリン・ウィルソンは「時間」は勝手な抽象であって実体は無い、と言います。確かに実在するのは「永遠の現在」だけで、過去や未来は実在していないのです。それでも人はあれこれ思い煩うのです。
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前回の投稿で「詳しい説明を省きますが」として書いたことを説明しておきます。哲学的な面白さがあります。
正四面体には「裏の面」がありません。一つの面(正三角形)に注目すると、他の三つの面はすべて辺で接しているからです。したがって「対角線」も引けません。四つの頂点のうち二つを選ぶと、それは必ず辺になります。三つを選べば必ず「面」になります。
一方、正六面体(立方体、サイコロ)には「裏の面」があります。サイコロの裏表の面を足すと合計が7になることは有名ですね。サイコロの八つの頂点のうち二つを選ぶと、辺になる場合の他に「各面(正方形)の対角線」になる場合、「立方体全体の対角線」になる場合の三通りがあります。「辺」になるとは限らないわけです。
正四面体の頂点は四つ、辺は六本、面は四つで4+6+4=14、これに図形全体を表す1と空集合(空っぽ)を表す1を加えると16(2の4乗)になります。なぜ2の4乗なのか?これは正四面体の四つの頂点のうち、一つも選ばなければ空、一つを選べば四つの頂点、二つの頂点を選べば六本の辺(数学の「順列・組合せ」を思い出して下さい。四つから二つを選ぶ組合せは4かける3わる2=6通り)、三つの頂点を選べば四つの面、四つ全部を選べば図形全体になるからです。「選ぶ=1」か「選ばない=0」という2進法の思想です。
一方、サイコロの頂点は八つ、辺は12本、面は六つで8+12+6=26、これに図形全体(または空集合)を表す1を加えると27(3の3乗)になります。なぜ3の3乗なのか?これは三次元空間の座標を用いて原点(0、0、0)を中心として、一辺の長さが2の立方体を考えれば容易に理解することが出来ます。分かりにくければ図を書いて考えて下さい。八つの頂点は(1、1、1)、(1、1、-1)、(1、-1、1)、(1、-1、-1)、(-1、1、1)、(-1、1、-1)、(-1、-1、1)、(-1、-1、-1)、12本の辺の中点は(1、0、1)、(1、0、-1)、(0、1、1)、(0、1、-1)、(-1、0、1)、(-1、0、-1)、(0、-1、1)、(0、-1、-1)、(1、1、0)、(1、-1、0)、(-1、1、0)、(-1、-1、0)、六つの面の中心は(0、0、1)、(0、0、-1)、(1、0、0)、(-1、0、0)、(0、1、0)、(0-、1、0)、全体の中心は(0、0、0)です。0と1だけでなく、裏を表す「-1」が加わった平衡3進法そのものです。
世界を見るには表と裏を見ないと片手落ちになることを表しているのでしょうか?
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2019年1月13日追加
正八面体の場合は立方体の六つの面の中心を六つの頂点に置き換え、立方体に内接する正八面体を考えます。辺の本数は等しく、立方体の八つの頂点が正八面体の八つの面に対応します。正八面体の六つの頂点のうち(1、0、0)、(0、1、0)、(0、0、1)を結ぶと一辺の長さがルート2の正三角形が出来ます。同様に四次元空間の四つの点(1、0、0、0)、(0、1、0、0)、(0、0、1、0)、(0、0、0、1)を頂点とする正四面体を考えることが出来、正四面体の要素数の合計が2の4乗になることが視覚化されます。

私は数学が好きです。理科系に行けなかったので数学検定1級を取ろうと数年間粘りましたが、準1級止まりでした。
数学は恐ろしい面もあり、本当に没入すると数学以外の全てを犠牲にしてしまいそうです。それは私には出来ないことです。
コンピュータの中は10進法ではなく2進法を使って計算をします。0と1だけを使う2進法では正の数は表せますが、負の数は表せません(先頭にマイナス記号を付けなければ)。ところが3進法を使うと、記号を付けずに正と負のあらゆる数を表すことが出来ます。0, 1, 2を使う一般的な3進法ではなく、-1, 0, 1を使う「平衡3進法」です。-1は煩わしいので、1の上に横棒を引いて「いちバー」と呼ぶのが普通です。
有名な数学の問題で、「4種類のおもりと天秤を使って、1ポンドから40ポンドまでの重さを量ることができるか?」というのがあります。2進法で考えると1ポンド、2ポンド、4ポンド、8ポンドのおもりで1ポンドから15ポンドまで量れますが、40ポンドまでは届きません。天秤を使うというのがヒントで、これは平衡3進法で解くことが出来ます。1ポンド、3ポンド、9ポンド、27ポンドの4種類のおもりと天秤を使えば、1ポンドから40ポンドまですべての整数のポンドを量ることが出来ます。平衡3進法は美しい。
正の数だけの世界は狭いものです。一次元の数直線ならば半分になるだけですが、二次元の平面ならば1/4になり、三次元の空間なら1/8になります。次元が上がれば上がるほど狭くなってゆきます。
二次元の平面上で、正多角形は無数に存在しますが、三次元の空間で正多面体は5種類だけです。正4面体、正6面体(立方体)、正8面体、正12面体、正20面体です。四次元空間(物理的には存在しませんが、数学では何次元でも考えます)では6種類の正多面体(面ではなく立体から成る図形で、正多胞体とも言います)が存在します。五次元以上になると、次元がいくら増えても3種類だけです。三次元の正4面体、立方体、正8面体は全次元との共通性があり、正12面体、正20面体は三次元特有の図形です。
詳しい説明は省きますが、正4面体は2進法に、立方体と正8面体は平衡3進法に密接に関係します。エジプトのピラミッドは正8面体の上半分です。正4面体ではありません。正4面体は四つの面すべてが正三角形ですが、ピラミッドは五面体で、四つの側面は正三角形、底面は正方形です。ピラミッドは地中深く伸びていて、実は下半分もある正8面体だという説もあります。
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『去年を待ちながら』(Now Wait for Last Year)はディック中期(1966年)の作品で、邦訳は寺地五一・高木直二の共訳で創元推理文庫からディック死後の1989年に出ました。あらすじは冒頭の紹介文に上手く纏められています。

2055年。地球は国連事務総長モリナーリをトップに戴き、星間戦争のさなかにある。TF&D社はこの星間戦争を支える大資本のひとつだった。そこの社長ヴァージルの主治医だった人工臓器移植医エリックは、ある日モリナーリの専属担当を要請される。モリナーリは、死してなお蘇り、熱弁をふるい人々を鼓舞する最高権力者だった。一方、いつしか民間には、軍事用に開発された禁断のドラッグ、JJ180が出回っていた。そしてTF&D社のアンティーク収集担当、エリックの妻キャサリンは、夫とのいざこざから、JJ180を服用してしまう。・・

寺地氏は「訳者あとがき」の冒頭で、村上春樹の『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公の述懐を引用しています。

フォークナーとフィリップ・K・ディックの小説は神経がある種のくたびれかたをしているときに読むと、とても上手く理解できる。僕はそういう時期がくるとかならずどちらかの小説を読むことにしている。

あとがきの終わり近くで、寺地氏はもう一度村上春樹に触れます。

エントロピーが増大する<疲弊した世界>に押しつぶされて、何度も生の意味を見失いそうになった<疲弊した人間>が生きようと決意する。これは村上春樹のテーマでもある。まったく異なる方法ではあるが。一方は心地よいディスクールで核となる「物語」を隠蔽しながら、他方は武骨ともいえるほどのストレートなディスクールでとりあえず「物語」を前面に押し出しながら、<世界と人間の疲弊>、<死と再生>、<絶望と救済>を描くふたりの作家がいま日本の若い人たちの関心を集めていることは興味深い。

春樹とディックのテーマは、実は三島由紀夫にも繋がっています。小室直樹氏は『三島由紀夫と「天皇」』第三章「死の世界で「生きる」三島由紀夫」で次のように解説しています。

三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない。現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は生の世界にも立ち入っていた。(中略)
五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だが、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイなものでなく、さらに確実な形・存在として、この世に生きるであろう。

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去年の末に村上春樹の『1Q84』を読んでからフレドリック・ブラウンの『発狂した宇宙(What Mad Universe )』が気になっていたので、久しぶりに読み返してみました。ハヤカワSF文庫で稲葉明雄訳(1977年、原作は1949年)です。これはフィリップ・K・ディックの『虚空の眼(Eye in the Sky)』(『宇宙の眼』とも。原作は1957年)と並ぶ多元宇宙SFの古典で、筒井康隆が比較して解説しています。

『宇宙の眼』と『発狂した宇宙』は、テーマこそ同じであるがその面白さの質はやや異なっているようだ。・・『発狂した宇宙』がただ一人のSF気ちがいの少年の内的宇宙であるのに、『宇宙の眼』の方はこれを敷衍して数人の内的宇宙を描いている・・『宇宙の眼』の方は、正常に社会生活を営んでいる数人の人物の、実はたいへん気ちがいじみたその精神生活の暴露を順にやっていくわけで、どちらかと言えばシリアスである。ところが『発狂した宇宙』の方は、もともと気ちがいじみたところのあるSFマニアの少年の内的宇宙なのだから・・こっちの方は人間の潜在意識のおどろおどろしさをあばくという目的のものではなく、・・SFファン全体を茶化し、さらにSFの荒唐無稽さをも茶化していることになる。

筒井はこの後、ブラウンはこの作品で多元宇宙SFを確立させたが、この種のものを書こうとすればどうしても『発狂した宇宙』に似てくるというのが頭痛の種だとも言っています。村上春樹はSF作家ではありませんが、『1Q84』に似ていると私も感じてしまいました。
春樹の作品では主人公が「やれやれ」というセリフをよく言いますが、『銀河鉄道999』の漫画では星野鉄郎がよく「やれやれ」と言います。アニメではあまり言わないようですが。
『発狂した宇宙』の末尾近くで人工頭脳によって語られる「想像される宇宙はすべて存在する」という思想(ジョーク?)は、三島由紀夫が『豊饒の海』で追求した「恒に転ずること暴流の如し」という唯識に近いように思われます。主人公は最初と最後で2回、ロケットの爆発に巻き込まれ、その瞬間に自分が思考していた宇宙に飛ばされます。三島由紀夫も自決の時の思考に導かれ、どこかの宇宙で生きているのかもしれない。稲垣足穂は朝日新聞(1969年4月8日)で「たぶん今から五十年後、二百年後、五百年後にも、自分はどこかでいまと似たことをやっているものに相違ない」と書いています。
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