2019年02月

きょう、名古屋大学医学部付属病院の外来棟に行ってきました。
しかし、私の症状をどのように伝えればよいのか、分かりませんでした。
精神的に調子が悪いわけではないのです。
数年にわたって報酬を得る仕事をしていないことは確かですが、それでも精神に変調をきたさないということが「病気」なのでしょうか?
数学や天文学の検定試験を受け、ブログの発信やウィキペディアの編集を行うことで、精神的にはほぼ満たされてきたのです。
ただ、そのような生活を永久に続けることはできないので、何かの形で金銭を得なければならないというだけのことです。
結局、受診は諦めて、近くの鶴舞図書館で少しばかり読書をして帰宅しました。
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体調のほうは多分、問題なくなりました。久しぶりに市民病院に行ったので、この機会に精神科を受診したいと思いましたが、なんとカウンセリングも含めて、精神医療は一切行なっていないと言われて驚いてしまいました。実は予想していた通りで、本当に驚いたわけではありませんが。
佐藤あつ子(敦子)さんの『昭・田中角栄と生きた女』で、自殺未遂を繰り返す敦子さんを父の角栄が見かねて「敦子を精神科で見てもらってくれ」と朝賀昭に命じる場面があります。敦子さんは朝賀氏を「お兄ちゃん」と呼んで慕っていました。(もちろん実の兄ではありませんが)朝賀氏は行き先を告げずに敦子を車に乗せて病院に連れてゆきますが、そこが精神科であると知った敦子さんは、こう言いました。

「お兄ちゃん、これはないよ」

朝賀氏はこう答えました。

「だよな」

二人は病院の門に入らずに引き返しました。朝賀氏から報告を受けた角栄も昭子さんも、何も言わなかったそうです。
精神医療には微妙な問題があり、特に田舎では偏見が強いことは確かです。私も病院に電話している時、「その方は何歳ですか?」と訊かれました。まさか本人が望んで精神科を受診したいなど、有り得ないという感じなのです。その病院で対応しているのは「子供のこころの健康」だけということでした。
しかし私に言わせれば、大人でも多くの人(あるいは、すべての人)は精神的に不健全です。特に私の住んでいる地方は昔から「管理教育」で有名だったところで、地方全体の雰囲気が軍隊を思わせる異様なものです。これは私の母が口を開けばこの地方の悪口を言っていた影響があるかもしれませんが、母の気持ちも分かります。
このまま普通を装おって求職をしてよいのか、全く分からないところです。
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体調は完全には戻りませんが、だいぶ良くなりました。ブログを再開したいと思います。
私の古代史好きには、母の影響があることは確かです。母は学生時代は左翼運動に関わって「🎵白頭山の」で始まる金日成将軍の歌をよく歌っていました。もっとも「🎵紀元は二千六百年」の紀元節の歌も歌うので、よくわからないところがあります。
母が憧れたヒーローがジョン・ウェインと平将門です。平将門は10世紀の前半に反乱を起こした関東の豪族で、「新皇」を名乗り、天皇を中心とする日本国とは別の国を作ろうとしました。250年後に源頼朝が鎌倉に幕府を開きますが、頼朝はあくまでも天皇の臣下として「征夷大将軍」にとどまり、日本国を分裂させなかったのが決定的に違います。
そんな母も古代史で知らなかったことがあり、私が教えると相当驚いていました。第1代の「神武」天皇から第41代の「持統」天皇まで、日本書紀に書かれている漢字二字の諡号は後から書き加えられたもので、720年に完成した当時は書かれていなかったのです。神武は神日本磐余彦(かんやまといわれひこ)、持統は高天原広野姫(たかまのはらひろのひめ)という和風諡号だけでした。漢字二字の漢風諡号を考えたのは淡海三船(おうみのみふね)という奈良時代の高級官僚です。以前にも取り上げましたが、三船は壬申の乱で敗れた大友皇子の曾孫で、漢詩を得意とし『懐風藻』の選者とも言われます。
このことは広辞苑にも載っており、一部の古代史マニアの説ではなく、広く真実と認められていますが、何故か積極的に教えられることはありません。その理由が母の反応から少しわかった気がしました。母は広辞苑で確認するとすぐに、わざわざ父に知らせに行ったのです。父は歴代天皇の名前を学校で暗記させられた世代ですが、母ほど驚いた様子はありませんでした。母は少し後で「あの話を知ってから、私の中で何かが崩れた」と言いました。
因みに私は、特にショックは受けませんでした。子供の頃に読んだ鈴木武樹の「日本古代史99の謎」という本で、天皇の漢風諡号は後世に追加されたものだという知識を得ていたからです。むしろ淡海三船という人物に興味が湧きました。
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昨日から体調が変です。病院に行きました。深刻ではないようですが、ちょっとお休みします・・

私は星占いで言うと射手座の生まれですが、現代の天文学では射手座は銀河系の中心方向に当たり、太陽の数百万倍の質量を持つブラックホールがあると言われています。射手座は西洋の星座ですが、古代の中国では射手座の一部の六つの星を小さなひしゃくに見立て、北の大熊座の「北斗七星」に対して「南斗六星」と呼びました。ただのひしゃくではなく、宗教的な意味付けも考えられました。野尻抱影の『星の神話・伝説』の射手座の項目では次のように解説されています。

中国では、南斗は寿命をつかさどり、北斗は死をつかさどると信じられていました。
魏の国に管ロ(変換できませんが、くるまへんに各という漢字です)という、天文や人相を見る名人があって、ある日、麦畑ではたらいていた子供の顔をみて、「ふびんだが、二十歳までは生きられまい」と、つぶやいて通りすぎました。びっくりした農夫の父が、あとを追って子供の命がのびる法を教えてくださいと嘆願しますと、管ロは「上等の酒一たると、シカのほし肉をもって、麦畑の南のはしにあるクワの大木のところに行ってみなさい。二人の仙人が碁をうっているから、なにもいわずにおじぎをして、それをすすめるのじゃよ」といいました。
農夫が行ってみると、はたして二人の仙人が碁をうっていたので、一生懸命に酒と肉をすすめました。一局すんではじめて農夫がいるのに気がつくと、北側にいた仙人は、目を怒らせてしかりつけました。しかし南側の仙人は、それをなだめてから寿命帳をしらべて、農夫の子の名を見つけると、「十九歳」とあったのを「九十」にひっくりかえしてくれました。
農夫が、よろこんで帰り、管ロに報告すると、「北側にいた仙人が北斗で、死をつかさどり、南側にいたのが南斗で、生をつかさどるのだ」といいました。そして、なにひとつお礼も受けずにたちさりました。

澁澤龍彦も『時間のパラドックスについて』の中でこの説話に触れています。将棋や碁やチェスというものは、明らかに時間のシンボルではないかと言うのです。
それはともかく、私としてはこの説話で、子供の寿命を延ばしたいのは父の農夫であって、子供の意思が分からないことは気になります。九十まで死ねなくなった子供は、今度は逆に北斗の仙人に寿命を短くしてくれと嘆願するかもしれません。読者の皆様はどう思われるでしょうか。
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