2019年02月

これは『澁澤龍彦全集』13の「補遺・1974-75年」に収められた一編で「疎外」について語られています。

要するに資本主義社会では、人間は労働をしても、その労働の主体であることができず、人間の作り出したものが、かえって人間に対立するものとなり、ひいては人間自身も物(商品)として取り扱われるようになる、ということであろう。(中略)たしかに、私たちの見るところ、この人間疎外の状況は、まるで悪性の癌のように、どんどん進行しているような気がする。

私がまだ小学生だった頃に書かれた文章ですが、今でも生き生きと読むことができます。澁澤氏はどのような処方をもって臨むのでしょうか。

私は前に、人間疎外という見地から見るならば、若者の労働意欲の喪失は、むしろ人間的な現象だと書いた。しかし現代の若者の無気力が、労働意欲の喪失であるとともに、また遊びの意欲の喪失でもあるとするならば、これを人間的な現象と呼んでよいかは疑問になってこよう。(中略)十年ほど前、私は『快楽主義の哲学』という小著のなかで、労働と遊びを一致させるのが理想だと述べたことがあったけれども、たぶん現代の若者には、このような理想もすでに無縁のものとなっているのではあるまいか。

「遊び」は誤解されやすい言葉で、氏も注意を促しています。

お断りしておくが、この場合、遊びといっても、それは労働の余暇を利用して行なうところのレクリエーション、レジャーを意味しているのではない。レクリエーションとかレジャーとかは、あくまで気休め、気晴し、あるいは明日の労働のための精力の貯えであって、労働本位の世界のものにすぎない。そうではなくて、私が望んでいるのは、どのような領域を選ぶにせよ、つねに大きな努力をして大きな満足を得たいということなのである。労働がそのまま遊びに移行し、遊びがそのまま労働に移行するような、矛盾の統一を求めたいということなのである。努力も満足もないような薄明の世界、しらけた世界に生きるのではなく、快楽と苦痛の際立った、光と影で構成された世界に生きたいのである。

氏の文章を読んでも、処方が書いてあるわけではありません。私たちは日々自分で考え、行動するしかないでしょう。

この客観的な情況を骨身に徹して知りながら、私たちはそれぞれ主観的な現実で、疎外の解除された空間を求めるしかないのだ。モーレツ社員もマイホーム主義者も、それぞれ主観的な、せまい空間を守っているにすぎないのであり、彼らにしたところで、疎外の現実を必ずしも知らないわけではないのだと私は思う。ただ、彼らの認識はあくまで局部的で、底が浅いだけなのである。読者諸君が、モーレツ社員やマイホーム主義者の小さな夢に足をすくわれないためにも、疎外とは何かを知ることがもっともっと必要であろうと私は思う。(中略)
私たちは考えることによって、その物事の呪縛から自由になるのである。

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私は絵画にはあまり興味が無いのですが、オディロン・ルドンという画家の絵は好きです。私は1年余り普通の会社のシステム部門に勤めたことがありますが、ルドンの『笑う蜘蛛』などの象徴的な絵画を壁紙にしていました。上司がそれを見て「気持ち悪い絵が好きなんだね」と言ったのを覚えています。その上司は私と同じ大学で美術史を専攻した人でしたが、あまりお気に召さなかったようです。
澁澤龍彦はルドンの『一つ眼巨人』という絵の解説の冒頭で、次のように書いています。

ルドンは眼玉に憑かれていた画家である。(中略)それはただの怪奇趣味というのではなく、何かもっと深い、心理学的な秘密を暗示しているようでもある。いったい、この眼玉は何を意味するのだろうか。
精神分析学によると、眼玉はいわゆる「原光景」の象徴である。神経症の子供を分析してみると、彼らが非常に早い幼児期に、両親の性交を目撃したという記憶(事実の記憶であれ、あるいは空想の記憶であれ)を保持していることが多い。これが「原光景」であって、彼らはそれ以後、禁じられた光景を見たという罪悪感に悩みはじめ、自分たちが逆に、眼玉によって監視されているのではないか、という不安をいだきはじめるのだ。

私の幼時を思い出してみると、両親の性交を見たという記憶はありません。父親の風俗雑誌を見てしまったとか、母親の何かいやらしい姿を見たという曖昧な記憶はありますが、その程度ならどの子供にもありそうに思います。
私は実物を見たことはありませんが、アメリカの1ドル紙幣にはピラミッドと眼玉が描かれているそうです。やはり見たことはありませんが、電通という広告代理店の床には無数の眼玉が描かれていると聞きます。これらも原光景と関連があるのでしょうか。日本の神話では、黄泉の国を訪れたイザナギが、死んだ妻イザナミの醜い姿を見てしまう場面があります。『暁の寺』と『天人五衰』で本多繁邦が繰り返す「覗き」や、透が覗く望遠鏡の風景も思い出されます。
ルドンの絵に戻ると、この『一つ眼巨人』は面白いです。澁澤龍彦から再び引用します。

この一つ眼巨人の顔貌も、たしかに無気味といえば無気味であるにはちがいないが、たとえばゴヤの子供を食うサトゥルヌスのような、戦慄的な怖ろしさとは何か異質であるような気がする。彼は美しいニンフを見て、陶然としているのであろう。そのまん丸い、眼と耳と口だけで鼻のない顔は、いくらか滑稽でもあるような気がする。

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5世紀の後半に在位した第21代雄略天皇は「ワカタケル大王」とも呼ばれます。古事記や日本書紀によると荒々しい性格で、兄の安康天皇が暗殺された後、ライバルたちを次々と殺して即位しました。最後に殺した最大のライバルは従兄弟の市辺押磐皇子(いちべのおしわのみこ)で、このとき雄略天皇に協力したのが近江国(滋賀県)の沙沙貴山君(ささきやまぎみ)の祖先、韓袋(からぶくろ)という人物です。「袋」は本当は別の字ですが、この人物は名前から見て朝鮮半島と関わりがありそうです。沙沙貴山君は奈良時代には近江国蒲生郡を中心に栄えましたが、中世に近江を支配した佐々木氏との関係は明確には分かっていません。
雄略天皇に殺された市辺押磐皇子の2人の息子は兄を億計王(おけのみこ)弟を弘計王(をけのみこ)と言い、播磨国(兵庫県)の山奥で身分を隠して牛飼いの暮らしをしていましたが、雄略天皇が亡くなって清寧天皇の代になった後、播磨の視察にやって来た役人の前で歌舞をして身分を明かし、都に戻ることになります。弟が先に即位し、第23代顕宗天皇となりました。「顕宗」(けんぞう)という諡号は血筋を明らかにする意味で、この有名なエピソードから贈られたと思われます。三島由紀夫好みの典型的な「貴種流離譚」と言ってよいでしょう。
顕宗天皇はさっそく復讐を開始します。「市辺押磐皇子の埋められた場所を覚えている」という近江国のある老婆に案内させ、遺骨を発見しました。そして改めて立派な墓を作らせました。この事件で雄略天皇に協力した韓袋は死刑に決まりましたが、哀れなほど命乞いをするので助命し、陵戸(みささぎのへ。墓の番人)に任じました。一方、場所を覚えていた老婆には功を称えて「置目老嫗」(おきめのおみな)という名を贈りました。
日本書紀では置目老嫗は倭袋(やまとふくろ)という人物の妹で、顕宗天皇は韓袋から剥奪した沙沙貴山君の姓を倭袋に与えたことになっていますが、古事記では韓袋だけで、倭袋という人物は現れません。謎は多いですが、私の好きなエピソードの一つです。
顕宗天皇は短い在位の後に亡くなり、兄が第24代仁賢天皇となりますが、在位はやはり短いものでした。仁賢天皇の皇子で後を継いだ第25代武烈天皇は日本古代史で最悪の暴君として描かれています。この武烈天皇の死を以て第16代仁徳天皇の血筋は絶え、第15代応神天皇の5世の孫と称する第26代継体天皇が越前国(福井県)三国から迎えられました。この継体天皇の血筋は現在まで続いていることになっています。平成天皇は第125代なので継体天皇から数えてちょうど100代、1500年余りで1代平均15年となります。
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私の人格形成に大きく影響しているのは母と妹と(父方の)祖母です。父親の影響は希薄だったように思われます。父は現役時代は「こわい教師」で通っていましたし、私も激しい体罰(暴力)を受けたこともありますが、それでも存在感は希薄です。引退後は私や母の前でもよく泣くようになりました。中学校の校長まで務めて、昨年に勲章をもらったようです。賞状には安倍晋三の名前が大きく入っています。
母については、ほとんど精神的母子相姦状態だったと言ってよいでしょう。肉体的には皆無ですが。仕事をしに行くにも母の言いなりで、職場の人間関係のことまで母にすべて報告していました。休みには母を連れて(というより母に連れられて)ドライブに出掛けました。さすがに母は自動車の助手席に座ることはなく、いつも後部座席でしたが。1999年以後は大学時代以来9年ぶりにアパートで一人暮らしを始めましたが、数年前までは毎週実家に帰り、下着の洗濯も母にしてもらっていました。それ以後は自分でするようになり、実家帰りも月1、2回に減らしました。このブログを始めたのもその頃です。母は左翼崩れの詩人でもあり、難解な詩を書いていました。魯迅のファンで、私はよく「阿Q!」と罵られました。
妹は私より3歳年下で、お世辞にも仲が良かったとは言えません。妹は両親に反発して、もっと「普通の」生き方がしたいようでした。私が東京に行った後、地元の短大を出て勤めていましたが、私を含めた家族との関係は徐々に悪くなり、やがて絶縁状態になりました。二十数年間、音信不通になっています。
父方の祖母は私が高校生の時に亡くなりました。同居はしていませんでしたが、同じ集落に住んでいて、子供の頃はずいぶん可愛がられた覚えがあります。母と違って上品ぶる様子は全くなく、田舎の老婆という感じの人でした。祖父はもっと早く、私が小学校に行く前に亡くなりました。父や母の話によると、祖父も私を可愛がったそうですが、私の記憶には残っていません。しかし、私はその祖父にとてもよく似ているのだそうです。祖父は勉強はよく出来ましたが、家が貧しかったので進学は出来ず、ずっと農業をしていました。祖母は行商をして家計を支え、父を含めた4人の息子を大学に行かせたそうです。
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前回の投稿で私が初めて就職したときのことを書きましたが、会計事務所の先輩に言われて一番驚いたのはこの言葉です。
私は現在に至るまで煙草を吸ったことがなく、酒も飲めないことはありませんが、好きでもありません。パチンコにもギャンブルにも無関心です。そういうことを伝えたところ、「おまえ、何が楽しみで生きとるんや?」と言われたのです。
もちろん、私にも楽しみはあります。しかし、数学や天文や古代史が好きだなどと言える雰囲気ではありませんでした。後で別の会計事務所に勤めたとき、「星なんかに興味を持つ奴の気がしれないね」と言った先輩がいました。その人物は私が宇宙好きであることを知らなかったので、黙っていればいいものを、「私は好きですよ」と言ってしまい、後で悔やむことになりました。
私は「趣味」という言葉が嫌いです。趣味と言うと束の間の空しい楽しみ、お慰みという感じがします。三島由紀夫が『天人五衰』で、本多が養子にした透を教え諭す場面で書いています。

お前は先輩を興がらせるような或る無害な偏執を持つべきだ。機械いじりとか、野球とか、トランペットとか、なるたけ平均的抽象的で、精神とは何ら縁のない、いわんや政治とは縁のない、それもあんまり金のかからない道楽をね。それを発見すると、先輩たちは、お前の余剰エネルギーのはけ口が確認できて、安心するのだ。(中略)
政治には盲目で、先輩には忠実だということぐらい、今の日本で求められている美徳はないのだからね。

「趣味」は「仕事」の対立概念であり、これまでの人生を通じて何のプロフェッショナルにもなれなかった私が「趣味」に違和感を持つのも当然かもしれません。
透は本物の転生者であったかどうか、慶子はニセモノと断定するものの、はっきりしないまま自殺未遂・失明を経て「天人五衰」の相を呈するに至ります。私は自殺は考えておらず、当分は悪あがきを続けるつもりです。
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