2019年03月

澁澤龍彦は「アンドロギュヌスについて」で、プラトンのアンドロギュヌス神話を取り上げています。

プラトンは、原初の人間は両性具有者であって、その容姿は球形であり、周りをぐるりと背中と横腹が取り巻いていた、と言っている。ところが、驕慢な人間どもは神々に逆らって、天上への登攀を企てたので、ゼウスが怒って、彼らのわがままをやめさせる目的で、すべての人間の身体を二つに切断した。それ以来、人間は本来の姿が二つに断ち切られてしまったので、みなそれぞれ己れの半身を求めて、ふたたび元の一身同体になろうと熱望するようになった。これがいわゆる「愛慕の説」であるが、このプラトンのアンドロギュヌス神話と、聖書の楽園喪失の伝説とが、同じ一本の幹から分れた二本の枝にすぎないことは、容易に想像されるだろう。二本の枝は、それぞれヘレニズムおよびヘブライズムと呼ばれる。

日本の国生み神話とギリシャ神話との関係では・・イザナミの死後にイザナギが黄泉の国を訪れる話がオルフェウスとエウリディケの話に似ているということがよく言われますが、ここでは四国と九州に注目したいと思います。この二つの島はどちらも『古事記』では「身一つにして面四つあり」と記されています。これは以前にもブログで取り上げたことがあり、『後漢書』など中国の史書に現れる「倭面土国」との関係を考察しましたが、別の見方も出来ます。
九州も筑紫の国が筑前・筑後、豊の国が豊前・豊後、肥(火)の国が肥前・肥後、熊曽(熊襲)の国が大隅・薩摩・日向に分かれる前は「四国」でした。二つの島を合わせると「身二つにして面八つ」となり、これはアンドロギュヌスが両面で手足が八本あったことの変形ではないかと疑われます。『日本書紀』の仁徳天皇紀に現れる両面宿儺(りょうめんすくな)も退治された怪物として描かれていますが、地元の飛騨では尊敬される存在で、アンドロギュヌスの名残りとも考えられます。「大八島」という日本の古名も、こちらが本来の意味かもしれません。
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日本の「殉死」の伝統を遡ると、女王卑弥呼になるかもしれません。もっとも魏志倭人伝には「徇葬する者百余人」とあり、解釈には異論もあります。卑弥呼には婢が千人いたといいますが、数が多過ぎるように思えます。十分の一と見て、百人の婢のうち十人が殉死したというのが本当のところかもしれません。
『日本書紀』によると、第11代垂仁天皇が殉死の風習をやめさせ、埴輪を以てこれに代えたと言います。その垂仁天皇が常世の国に派遣したタジマモリは天皇の墓で殉死しました。書紀には他にも殉死の例が多くあります。稲垣足穂は『少年愛の美学』で次のように書いています。

そもそも「殉死」とは(山鹿素行によると)「男色的寵臣のひがごと」である。しかし同時代の絶望の書『葉隠』の口述者山本常朝では「それは恋の心入れに喩えられることであり、無理無体に奉公が好きならば是非もない」と云う。佐賀城外の隠士は、男性ヒステリーの詩人であり、封建的マゾヒズムの美学者だと云うべきである。何故なら彼は「死の本能」に結びつけて、日本唯美主義的極北を解釈しようとしているからだ。これに較べてジッドなどまだ甘い。「過剰」を以て同性愛現象を説明しているものの、山鹿素行と同様に、ついに「文化」の範囲を抜けられないでいる。この嫌味なフランス文人はモラルはあるが、理想に欠けていた。ジッドは少年愛のイデアを、断崖のふちにおいて解する能力がなかった。

乃木希典は明治天皇に殉死しましたが、実は殉死ではなく、西南戦争で軍旗を奪われたことへの自己懲罰だったと言われます。「大東亜戦争」で日本陸軍は玉砕を重ねましたが、軍旗は一旒も敵に奪われなかったのだとか。敗戦後に多くの軍人が自決しましたが、彼らは「大日本帝国」に殉死したのでしょうか。
三島由紀夫の死は多面的にとらえるべきでしょうが、こうした伝統に立っていることは確かだと思われます。
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仁徳天皇は大鷦鷯(オオサザキ)という名前を持ち、サザキはミソサザイの古名です。谷川健一は『続・日本の地名』で仁徳天皇陵に関する『日本書紀』の伝承から、その起源を考察しています。

仁徳天皇が河内の石津原(堺市石津町)に自分の陵をつくったとき、鹿が野原から飛び出して、工事中の人びとの中に入って死んだ。鹿の耳からは百舌鳥(モズ)が飛び出して去っていった。そのあと鹿の耳の中を見ると、いたるところに食いつかれた跡があった。そこで陵の場所を百舌鳥耳原と称したという。こじつけの感じがする話であるが、その背景には次のような伝承が存在したのである。
早川孝太郎は幼少の時、母からミソサザイが猪を退治した話を聞かされた。ある時、猪がミソサザイをあざけり、おれは世界中で一番強いと威張ると、負けぬ気のミソサザイは、おれはこれでも鷹の仲間だから強いと争い、ついに優劣を決することになり、ミソサザイはまっ先に猪の耳の中に飛び込み、チョンチョン鳴きながら、嘴で突き立てたので、猪はたまりかねて頭を振ったが及ばず、岩角へぶっつかって頭を割って死んでしまったという。

スクナビコナ(少彦名)も『日本書紀』ではミソサザイの皮の着物を着ていたと記されている小人の神ですが『古事記』では蛾の皮になっています。澁澤龍彦はスクナビコナが大のお気に入りだと『幻想博物誌』中のエッセイ『毛虫と蝶』で書いています。

ガガイモという草の実の殻で作った船に乗り、蛾の皮を剥いで作った着物を着て、ひょっこり出雲の海岸に漂着すると、その地の支配者たるオオクニヌシの片腕となって、出雲の国造りに協力し、やがて役目を果したと見ると、一本の粟の茎によじのぼり、茎に弾かれて常世の国に飛んで行ったという小人の神、スクナビコナは、幼時から私にとって、多くの神々の登場する日本神話のなかでも、最も気に入っている神であった。
どうして気に入っているのかと言えば、虫の皮を着ている小人の神というイメージが、何とも童話的で、私の好みにぴったりであるし、あらゆる世界の神話のなかでも、ユニークな地位を占めるのではないかと思われたからである。

私が面白いと思うのは、滋賀県の沙沙貴神社ではスクナビコナが大彦命(孝元天皇皇子で四道将軍の一人)と並んで祭られていることです(因みに仁徳天皇も祭られています)。そもそもスクナビコナという名前はオオクニヌシやオオナムジより、オオヒコと対になる名前です。そこで『古事記』を調べてみると、大彦命の弟で「少名日子建猪心命(スクナヒコタケイゴコロノミコト)」という人物がいます。名前以外に何も記されていませんが、上記の猪とミソサザイの伝説を思わせる名前です。因みに「心」という漢字で記された人名・神名は『古事記』全巻を通じて他にありません。
この人物は『日本書紀』では「少彦男心命(スクナヒコオゴコロノミコト)」という名前ですが、景行天皇紀では「屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオゴコロノミコト)」という人物も登場します。三百歳に近い長寿で景行から仁徳まで5代の天皇に仕えた武内宿禰(タケノウチノスクネ)の父とされる人物です。日本にも深い謎がありそうです。
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谷川健一の『続・日本の地名 動物地名をたずねて』を読み返しました。戦後の高度経済成長がいかに異常なものであったか、改めて感じざるを得ません。

高度経済成長期後の日本では動物と日常的に接する機会が、戦前と比べてみても異常なほど少なくなっている。鶏が四本足と思いこんでいる大学生がかなりいることも、調査の結果明らかになっている。それは鶏を実際に見たことがないからである。しかし時代を遡るほど、人間と動物はお互いにのっぴきならない交渉の相手であった。しかも両者の間には、上下の序列は確立されておらず、動物は人間以上に予知能力を備えていると思われ、神または神に近い存在として遇されてきた。

特に興味深いのはナマズです。ナマズは日本では「鯰」と書きますが、これは日本で作られた国字らしく、中国では「鮎」と書きます。日本では「アユ」と読む字で、こうした研究も面白いものです。それはともかく、日本ではナマズを祖先として崇拝した人たちがいました。中国では大きなナマズを「鯷」と書きますが、古い史書には「東鯷人(とうていじん)」と呼ばれる人たちが出ています。

『後漢書倭伝』には「会稽の海外に東鯷人あり、分かれて二十余国となる」という文章がある。「鯷」は鯰の意味であることから、東の倭人の国に、鯰を祖先とする連中がいて、二十余の国を作っているという意味に解することができる。鯰はその人びとの祖先を示すトーテムとして崇められていたのであろう。
中国の史書に初めて登場する日本の山の名は「阿蘇山」で、それは「隋書倭国伝」に見える。中国人は早くから阿蘇山に注目していた。わが列島の中に「東鯷人」の国を求めるとすれば、阿蘇山の周辺をおいてほかにないと私は考える。

阿蘇山の周辺にナマズ信仰は今でも根づいています。秋篠宮がナマズ研究者であることも思い出されます。万物の霊長と思い上がる人間は、いつか天罰を受けるのではないでしょうか。
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稲垣足穂の『ヰタ・マキニカリス』の末尾に『随筆ヰタ・マキニカリス』があり、これも面白い文章です。三島由紀夫が魅せられた『葉隠』に足穂も引かれていたことが分かります。それは次のような文脈で取り上げられています。

私の場合は、(極く初期の数篇を除いて)依頼原稿などは殆どなかった。武田麟太郎は、「二人の編輯者の好みを知っていたら絶対に大丈夫だ」と云っていたが、私の文学ではそういうわけに行かない。「ついてくるなら拒みません」の一手より他はない。ところが、ついてくるような編輯者がいなかった迄の話である。だから、こちらが自発的(つまり持ち込み)に出て、それが当然返されてきて、あとで多大な改訂を施したというような作の中に、やや見るべきものが挙げられるのである。それは自分のために書いてあるからだ。これは又一族の癖でもある。私の父は一向に家業に身を入れない人だったが、この兄すなわち私の伯父は、ゼニにはならぬ詩文彫刻に一生を棒に振って、片隅で窮死した。その末弟、私の叔父は船づくり(船大工)であったが、やはり金にはならぬ人からの依頼品の製作とか、自分好みの小細工にあけくれて、これも貧乏のまま若死にしている。

どこか私にも似ているようです。私の一族についてはよく分かりませんが、似た人物がいたのかもしれません。ここで足穂は『葉隠』に言及するのです。

鍋島論語の口述者(山本常朝)が、あるいは私の代弁をしてくれるかも知れない。「短い人生を、いやなことばかりして苦しみながら暮すのは愚かなことである。このことは下手に聞かれると害になるから、若い者には絶対に喋られぬ奥の手である。わたしは寝ることが好きなので、分相応にせいぜい引き籠って暮したいものだと思っている」私の伯父や叔父も、彼らの周囲はどう解しているかは知らないが、結局これであったと思う。

三島由紀夫は『葉隠入門』で、この部分にわずかに触れています。自決の後、三島の母は「あの子が好きなことをしたのは今日が初めて」と言ったそうですが、もしそうなら痛ましいことです。
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