2019年04月

5月から働くことになり、ヤフーブログも終了するので、このブログもどうしようか迷いましたが、当分は続けることにします。今までも3日ごとの投稿でしたが、今後は更にペースが鈍るかもしれません。移動も(もし決めることがあれば)決めた後でお知らせします。
最近は疲れがたまっているらしく、車を運転していて危ないことがあります。あまり無理をしたくありませんが、そうも出来ないところです。  
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来月から久しぶりに働くことになりました。正直、自分でも驚いています。これでよいのかという疑問もあるのですが・・
前とは全く違う職種なので、良い面も悪い面もあります。プログラミングをしていた頃は、私が言うのも変ですが、「この人は人間としてどうなのか」と思う人がよくいました。
中でもよく思い出すのは「人殺し」上司です。殺人犯だったわけではありません。毎日「人殺し」に関する冗談を言うのです。1日に2回は決して言いませんが、1回必ず言うのです。
「ねえ、人を殺してみたいと思わない?」
他の冗談は忘れましたが・・コンピューター業界には精神的におかしい人が多いと一般的に言われているかと思います。
別の大変さはありますが、ともかくやってみようと思います。
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日本の政治状況は、相変わらず危ないと思います。国民が政治に無関心でいる間に、おかしな人々が日本を乗っ取ってゆくようです。私は選挙は棄権せず、与党と維新には絶対に入れませんが、選挙で不正が横行しているならどうすればよいのか・・
私自身も生活を立て直すため、相変わらず動いています。必ずしも納得しているわけではありませんが、固まってしまうとまずい気がします。このブログの行方も不透明です。
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ヤフーブログの終わりが近づいていますが、まだどうするかは決めていません。今まで書いてきたブログを移して残すべきか、よく分からないのです。著作権など気にせずに引用のし放題でしたし。過去の記事は消え去るに任せて、新しいところに移るかもしれません。
最近、多少忙しくなってきました。両親と話し合い、市役所を訪れて生活保護の相談をし、ハローワークに行ったり、電話をかけたり、面接を受けたりしています。
生活保護になると自動車は手放さなくてはならす、運転もしてはならないとのことでした。自立への支援と言いながら、自立は難しくなりそうですね。法律も合理的なようでおかしい部分があり、末端の担当者ではどうにもならないのでしょう。
私が今住んでいるアパートは、生活保護の想定より少し家賃が高いようで、生活保護になると安いところに移るように指導するという話もありました。もう身の回りはすっかり片付いてはいるのですが、考えはよく纏まりません。半端な気持ちのまま私の相手をしなければならない人々には気の毒ですが、当分はバタバタしそうです。
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これは中沢新一のエッセイ集『野ウサギの走り』に収められたエッセイの一つです。中沢はバリ島の画家が描くジャングルの絵を見て、そこに遠近法が取り入れられていないことを不思議に思いました。バワというバリ島のガイドが次のように答えました。

遠近法は見えないものを見えるようにし、感覚がつかんでいるものを頭で理解できるものにつくりかえてしまうからです。そんなことをしたら、ジャングルはたちまち破壊されてしまいます。あの優しい力は消え去ってしまいます。そうなったとき、ジャングルの怒りが爆発するのです。報復がはじまるのです。ジャングルは恐ろしい破壊力で、遠近法をたたきこわしにやってきます。
(中略)
ジャングルに手前と奥のほうとの距離ができて、そこがよく見とおせるようになると同じようにして、自分と他人というはっきりした意識ができあがって、その距離の感覚にもとづいて人間関係とか社会ができてくる。そういうものができあがってジャングルが破壊されたことにたいして、ジャングルの力、見えない力がブラック・マジックで報復してくるんです。

中沢はバワの言葉を聞いて、ジョルジュ・バタイユならどう言っただろうかと考えました。

「私は同じことを供犠ということをとおして考えていた」。『宗教の理論』(人文書院刊)を書いていたジョルジュ・バタイユなら、たぶんこう言ったはずだ。その本のなかでバタイユは宗教の奥底にまでおりたっていこうとした。それをおこなうために、彼は人間の自己意識ができあがってくる、もっともプライマルな地点に目をそそぐことからはじめたのである。
(中略)
彼は動物の意識を「水の中に水がある」ような状態として描いている。それはちょうど薄暗いジャングルのなかの意識とよく似ている。
(中略)
人間は人間になるために、まわりの世界とのあいだに亀裂をいれる必要があったのだ。けれど、それとひきかえに深々とした連続の意識とか、共生状態の優しさとかを、失なわなければならなかったわけである。ジャングルは遠近法によって徹底的につくりかえられ、徹底的に去勢されてしまった。
そういう人間がもしも、かつてジャングルにあったような至高の連続性をとりもどしたいと欲望するとき、供犠がおこなわれるようになる、とバタイユは考えるのである。

バタイユの言う「人間」は広義には「動物」と置き換えるべきかもしれません。動物の「動」は運動神経の「動」です。自と他を区別する意識は脳・神経系と関連し、海綿(スポンジ)を除く動物はすべて神経系を持ち、知覚神経で五感を覚え、脳で思考し、運動神経で行動します。知覚と思考は外から見えず、運動だけが他者から見えます。クラゲやイソギンチャクは立派な脳はありませんが、神経はあります。
三島由紀夫の『鏡子の家』で夏雄を襲った富士樹海の消滅も、ジャングルの報復とも見られます。夏雄は回復しますが、三島は自らを供犠に差し出してしまったのでしょうか。
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