三島由紀夫は遺作『豊饒の海』で仏教の唯識を扱いました。大乗から密教に向かう仏教史で、唯識の前には龍樹(ナーガールジュナ)の『中論』があります。私は『中論』にあまり興味を持つこともなく、これまで見逃してきました。ところが最近、大学時代に買ってあまり読んでいなかった中沢新一の『雪片曲線論』を読み返して、『中論』が詳しく論ぜられているのを見つけました。次のような箇所です。
哲学的ディスクールを使うやり方では、そのラジカルさにおいて、中観仏教の右に出るものはないだろう。
(中略)
竜樹が『中論』で駆使した論理は、この世界が実体を持っていると主張するようないっさいの哲学的ディスクールが、最終的に「S + V」のシンタックス構造と同型の構造に還元でき、それらの論理がけっきょくのところは、たえず運動し変化してやまない世界に「静止」の相を持ち込もうとするニヒリズムから逃れられない、ということを暴くやり方を取った。この世界がカテゴリーの体系でできているという静態的な考えは言うにおよばず、それを実体とその運動の弁証法的なプロセスとしてもっと動態的に捉える思想でさえも、無限変様の場たるありのままの「空」の世界を覗き込むことを恐れているのだ。
日本語はS+O+V、英語はS+V+Oを基本的な語順としますが、一人称の「私」という不変の実体を考える点は同じです。それだけでは世界の実相と合わないので、動詞という「動き」が導入されますが、解決にはなりません。「私」は誕生と死の時だけではなく、一瞬ごとに生まれては死んでいると見なすほうが正しいと思われます。
そう考えると、ウィキペディアのように世界を百科事典に閉じ込めようとするのは愚かな思想と言えそうです。事典の一つ一つの項目を「S」、項目の説明を「V」とするようなものです。三島は幼い頃から辞書に親しんでいましたが、最後は虚しさに気付いたのだろうと思います。
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