2019年11月

668年に高句麗が滅びた後、698年にその後継を自称する国が誕生しました。渤海(ぼっかい)国です。この国は旧敵の新羅や唐に対抗するため日本との修好を図ります。727年に日本に向けて派遣された大使・高仁義以下24人の一行は道に迷って蝦夷(えみし)の地に漂着し、大使を含む16人が殺されてしまいます。生き残った高斉徳以下8人が奈良の都に入り、聖武天皇に拝謁します。
高斉徳が持参した国書で、渤海の武王は自分の国について「高句麗の領土を回復し、扶余の遺俗を守る」と説明しています。渤海が滅びるまで200年以上に亘って日本との友好的な関係は続きました。
20世紀に日本の関東軍が満州国を建てた時、渤海の歴史が思い出された時期がありました。戦後は再び忘却されますが、また復活することもあるかもしれません。
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高句麗の太祖大王(宮)は生まれながらに目を開き、物を見ることができたと『三国史記』高句麗本紀に記されています。井上秀雄氏は次のように注釈しています。

『三国志』高句麗伝の位宮(東川王)の記事からとったもので、そこには「国人がこのことを嫌った」とある。『後漢書』高句麗伝にはこの記事につづいて「国人は宮に期待した」とある。前者は中国人の感想が混入したものとみられ、この表現は高句麗人の理想的な王者像の一つである。

要するに「ものがよく見えた」ということの伝説化でしょうか。三島由紀夫が『仮面の告白』で、生まれた日の情景を覚えていると書いていたことが思い出されます。三島は朝鮮嫌いで、高句麗の歴史などは関心がなかったと思われますが、もし知っていたら興味を持っただろうと思います。
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明治時代の歴史学者、那珂通世は『日本書紀』の神武天皇の即位した年は辛酉(かのと・とり)の年に革命が起きるという思想によって定められたと考えました。干支は60年で一巡しますが、特に大きな革命は21巡(1260年)毎に起きるので、聖徳太子時代の601年から1260年前の紀元前660年に定めたというのです。
この説は学界の定説ですが、疑問はあります。聖徳太子は革命を起こしたわけではなく、王朝は変わっていません。神武天皇紀では即位した辛酉ではなく、東征に出発した甲寅(きのえ・とら)の年、紀元前667年を「太歳」としており、こちらを重視しているようです。
『日本書紀』では外国の文献を参照して絶対年代を定めた部分があります。『魏志』の卑弥呼を神功皇后としたのもその一つですが、『後漢書』の帥升をヤマトタケル、倭奴国の大夫をタジマモリとしたことが推定されます。
さらに『日本書紀』編者は高句麗の建国年を知っていました。『三国史記』によると高句麗の朱蒙は紀元前37年、甲申(きのえ・さる)の年に初代の王になったとされますが、『日本書紀』ではアメノヒボコ渡来の頃に当たり、崇神天皇の没年をこの頃に定めたようです。
崇神天皇の即位年も紀元前97年、甲申の年とされ、神武天皇の立太子も紀元前697年、甲申の年です。東征に出発した紀元前667年の甲寅は甲申と30年の差があり、60年の一巡で正反対の干支になります。
辛酉革命説を使わなくても説明は可能だと思われます。
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『日本書紀』の年代は大きく延長されていますが、卑弥呼を神功皇后と同一視したことが重要なポイントになっています。
『日本書紀』では神功皇后は西暦170年に生まれ、269年に数え年100歳で亡くなっています。『後漢書』『梁書』では卑弥呼は180年代に即位したように書かれ、『魏志』では後継者の壱与が13歳で即位したとあるので、そこから年代を決めたようです。
「三韓征伐」は西暦200年に当たり、31歳で応神天皇を産んだとするのも当時としては高齢出産ですが、妥当な範囲と考えられます。246年以後は百済との国交、新羅再征などが書かれています。原資料の『百済記』は干支のみが書かれていたため、『三国史記』より120年古い年代ですが、『日本書紀』では卑弥呼=神功皇后を基準に絶対年代を決めたと考えられます。
神功皇后の没年を269年としたため、壱与も神功皇后の時代に含まれてしまいましたが、100歳まで生きたという伝説に縛られ、やむを得ずこうしたのでしょう。編者の苦労が偲ばれます。
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