明治時代の歴史学者、那珂通世は『日本書紀』の神武天皇の即位した年は辛酉(かのと・とり)の年に革命が起きるという思想によって定められたと考えました。干支は60年で一巡しますが、特に大きな革命は21巡(1260年)毎に起きるので、聖徳太子時代の601年から1260年前の紀元前660年に定めたというのです。
この説は学界の定説ですが、疑問はあります。聖徳太子は革命を起こしたわけではなく、王朝は変わっていません。神武天皇紀では即位した辛酉ではなく、東征に出発した甲寅(きのえ・とら)の年、紀元前667年を「太歳」としており、こちらを重視しているようです。
『日本書紀』では外国の文献を参照して絶対年代を定めた部分があります。『魏志』の卑弥呼を神功皇后としたのもその一つですが、『後漢書』の帥升をヤマトタケル、倭奴国の大夫をタジマモリとしたことが推定されます。
さらに『日本書紀』編者は高句麗の建国年を知っていました。『三国史記』によると高句麗の朱蒙は紀元前37年、甲申(きのえ・さる)の年に初代の王になったとされますが、『日本書紀』ではアメノヒボコ渡来の頃に当たり、崇神天皇の没年をこの頃に定めたようです。
崇神天皇の即位年も紀元前97年、甲申の年とされ、神武天皇の立太子も紀元前697年、甲申の年です。東征に出発した紀元前667年の甲寅は甲申と30年の差があり、60年の一巡で正反対の干支になります。
辛酉革命説を使わなくても説明は可能だと思われます。
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