『日本書紀』が神功皇后紀で『魏志』倭人伝を引用し、年代決定の史料としたらしいことはよく知られていますが、『後漢書』倭伝は引用されていません。しかし私の見るところ、『日本書紀』編者は崇神天皇から神功皇后までの年代を『後漢書』倭伝を用いて決めたと思われます。
現代の日本でも、中国の史書と言えば『史記』と『三国志』が大人気であり、その間の『漢書』と『後漢書』は全く人気がありませんが、唐の時代には『史記』『漢書』『後漢書』が「三史」と言われるほど重要でした。『史記』『漢書』は倭や日本の記事がほとんど無いので、まとまった記事としては『後漢書』倭伝が最初です。ただ『後漢書』は『三国志』より後の5世紀に編纂されたため、その倭伝は『魏志』倭人伝のコピぺに過ぎないと軽視されがちです。しかし『魏志』倭人伝に無い独自の記事があり、微妙な相違も多く、単なるコピぺではありません。
『日本書紀』のヤマトタケルの年代が西暦107年の倭国王帥升と合うこと、タジマモリの年代が57年の倭奴国大夫と合うのは偶然ではないと思われます。崇神天皇の即位が西暦紀元前97年とされているのも、『後漢書』倭伝が武帝の朝鮮征服(紀元前108年)から始まっているのに合わせているようです。
もちろんこの年代は『日本書紀』の建前であり、これが史実でないことは編者も知っていたでしょう。淡海三船は初期の天皇の漢風諡号で彼らが考えていた実年代を暗示したと思われます。
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