手塚治虫の『ブラック・ジャック』は良い作品だと思いますが、私は医者という人たちが好きなわけではありません。病気のときはお世話にならなければいけないので、あまり悪くいうことはできませんが・・
『ブラック・ジャック』では「医者でもひねくれた心は直せない」というセリフが出てきます。精神科医という人たちもいますが、手塚は精神科にはあまり興味がなかったようです。その点は三島由紀夫に似ています。
仏教で言われるように生・老・病・死は人間の基本的な「四苦」ですが、医学に代表される現代文明は「老」と「病」を排除しようとする傾向があります。「ピンピン、コロリ」が良いというわけです。三島も「老い」を怖れていました。
しかし「老」と「病」なくして「死」を理解することは不可能なことかもしれません。それならば「生」も理解できないでしょう。ここに現代の問題がありそうです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
『ブラック・ジャック』では「医者でもひねくれた心は直せない」というセリフが出てきます。精神科医という人たちもいますが、手塚は精神科にはあまり興味がなかったようです。その点は三島由紀夫に似ています。
仏教で言われるように生・老・病・死は人間の基本的な「四苦」ですが、医学に代表される現代文明は「老」と「病」を排除しようとする傾向があります。「ピンピン、コロリ」が良いというわけです。三島も「老い」を怖れていました。
しかし「老」と「病」なくして「死」を理解することは不可能なことかもしれません。それならば「生」も理解できないでしょう。ここに現代の問題がありそうです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (14)
capelaurig
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彼の解釈はやはり独特で、戦前から戦後の時代の変化、戦前の総括がいまいち出来ていないかなと思ってます。軍国主義礼賛していた自分を否定することの難しさがありますね。。片や出口王仁三郎は戦前から日本の敗戦を預言しており、スムーズに戦後の吉岡発言など無理がありません。一方の昭和天皇はシャーシャーとして、国民に接しており悪の権化のようですね。。
capelaurig
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capelaurig
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capelaurig
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熾仁親王の話に戻る。熾仁親王の母可那は王仁三郎の生誕地穴太宮垣内のほぼ隣村といっていいような佐伯であり、稗田野町佐伯には稗田阿礼の出生地稗田の神社がある。この一帯が王仁三郎の幼少時の故郷である。
熾仁親王は母の故郷に通わぬわけはない。伏見の船宿だけでなく、足を延ばして佐伯、五分も歩けば上田家の土地天川に至る。穴太宮垣内まで秘密裏に尋ねたとしても何の不思議もない。何しろ有栖川宮家の侍医中村孝道は、王仁三郎の曽祖父でもあり、その縁で熾仁と世祢は会わせられたのだから。
しかしここで考えてほしい。三四歳の独身である熾仁親王がここまで独身を守り縁談を退けたのは、皇女和宮と結ばれることを夢見、和宮に操《みさお》を立てようとしたからだ。
逆に母加那の里の女、世祢と中村孝道を介して知り合い、恋に落ちたのは、和宮と結ばれるという二人の思いを断念したからなのだ。いや、和宮がすでに箱根山中で殺されたことを有栖川宮家・和宮家に出入りしていた筆の行商且つ密使、八木清之助を通して知ってしまったからだ。密使といえば王仁三郎の曽祖父中村孝道も幕府や朝廷、貴族の間を結ぶ密使だったろう。旭型亀太郎もしかり。
さて熾仁親王は三四歳の独身である。父も家臣も暗黙のうちに、熾仁の恋を見守っている。
「東上せよ」との太政官からの命令が来た。今度は背くことはできない。自分の命はどうなってもいいが、自分の力で守ることのできるものがあれば守らねばならぬ。
熾仁はあわただしい別れを告げた。「わが恋は深山の奥の草なれやしげさまされど知る人ぞなき」
capelaurig
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capelaurig
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白綸子《しろりんず》の小袖、目釘脇に菊の紋を刻した白木の短刀、巾着《きんちゃく》がよねの手に残された。(短冊・守り刀の写真)
明治二年(一八六九)年十一月一日、熾仁が東京へ去ってから、よねはつわりに気づいた。「有栖川のみ子は男なら殺される」……そんな友らのささやきにおびえて、丹波の里へ逃げるように帰ってきた。母・宇能はすぐさま世祢に婿を迎え(明治三年一月)、七ヶ月児といつわってまるまるとした男児を産ませる。そして、熾仁親王の痕跡をくらまし、孫を安全地帯におくために、明治三年の出生を一年繰り下げて届けた。わが国初の壬申戸籍は明治五年二月一日施行だから、だれも宇能の計らいに気づくものはいなかった。
この一年があったればこそ、有栖川のただ一粒の種が残った。北朝男子の種は、人知れずがこの丹波の野に育つのだ。
明治二十二年二月十一日、宮内省達第二号で皇族列次が定まる。
「皇位継承第一位有栖川宮熾仁親王」……〈大正天皇はなぜか皇位継承順位から除かれていた〉。。実は世祢に熾仁親王の子を宿らせるというのは上田宇能が仕掛けた作戦だった.世祢が熾仁親王の子を見事授かったことを宇能は二代続いた「吉松」の名前を捨てて、家族の楽びそのままにわが子に喜三郎と名付けて表した。。王仁三郎の戸籍上の父吉松の旧姓は佐野梅吉。そこから上田吉松と改名したのは、「梅で開いて松で治める」という神の暗黙のメーセージだった。その子を吉松ではなく喜三郎と命名した宇能の熾仁の子を授かったという喜びが見て取れる。
capelaurig
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『明治天皇紀』によれば、孝明天皇の崩御は慶応二年(一八六六)十二月二五日であるが、年明けてまもない慶応三年正月十日には、「先帝に侍したる典侍《ないし》、掌侍《ないしのじょう》等にその勤士の年数に応じて各々金千両以上を支給し、相応の家に嫁《か》せしめた」とある。ずいぶん手回しのいい話である。
睦仁を知っている女官に口止め料千両とよい嫁ぎ先を確保し、追いだしたのである。そして朝廷はさっさと千年の都を捨て、秘密を知る者もない新天地東京へと移動した。この時代、天皇と接触するものはごく少数の側近だけだったから、その口さえ封じればとりあえずは可能だった。
公卿たちにしても、ようやく倒幕なったいま、余分な詮索をして再び「公家諸法度」で縛られる身になるよりは、積極的に新政府に協力して地位を確保したほうが得である。
熾仁にしても、いまさら引き返すには、事ここに至った事情を知りすぎ、深入りしすぎていた。本当に欺瞞を暴露するのであれば、自らが玉として立たねばならず、そうなればせっかく平和になった日本を再び内戦に突入させることになる。それこそ南北朝時代に逆戻りであり、もともと権力欲のない熾仁にはこれ以上の流血を引き受けるだけの度胸はなかった。
だが、和宮を納得させ、因果をふくめることは困難であったろう。彼女には失うべきものはなにもない。朝廷と幕府の取引材料として許婚との仲を裂かれ、無理矢理に徳川家に嫁がされた。幸いに夫の家茂はやさしく、いつのまにか愛情も芽生えた《王仁三郎は否定》が、わずか数年でその夫を毒殺され、さらに兄孝明天皇も不審な死を遂げた。和宮は本物の睦仁を知っている。幼少時の記憶だから、すぐには見抜けないかもしれないが、近くで言葉を交わし、京都宮廷時代の思い出話にでもなればどうだろう。
capelaurig
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