『日本書紀』によると、神武天皇は東征に出発するとき「ニニギノミコトが降ってから179万2470余歳になる」と述べたそうです。この数字はちょっと信じられません。岩波文庫の補注には次のような解説があります。
この数の根拠について、飯島忠夫は、余歳を参天台五台山記・簾中抄などに載せた数によって六歳と定め、唐の武徳9年に造られた戊寅元暦の上元戊寅の年を天孫降臨の年とする計算であろうという。
難しい解説ですが、ウィキペディアで戊寅元暦の上元の年を調べるとこれより一桁少ない年数が書かれています。ともかく、史実を調べるには参考にならない数字であることは確かです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
この数の根拠について、飯島忠夫は、余歳を参天台五台山記・簾中抄などに載せた数によって六歳と定め、唐の武徳9年に造られた戊寅元暦の上元戊寅の年を天孫降臨の年とする計算であろうという。
難しい解説ですが、ウィキペディアで戊寅元暦の上元の年を調べるとこれより一桁少ない年数が書かれています。ともかく、史実を調べるには参考にならない数字であることは確かです。
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コメント
コメント一覧 (12)
物理学者の中には、東洋の神秘主義の神秘的体験から得た世界観の中に探している答えがあるのではないかと、考える人が増えている。『タオ自然学』を書いたフリッチョフ・カブラなどはその例だが、別に物理学に限らず、生物学のライアル・ワトソンなどもニューサイエンスの旗手だ。
神とか霊界は非科学的な迷信だと信じる人は、科学を一枚岩のがっちりしたものだと、思い込んではいないだろうか。実際はパラダイムのつぎ合せ、寄木細工に過ぎないのに。たとえば現在、理論物理学の分野、特に素粒子のレベルで、幾つものパラダイムが併存している。長い間、物質の構成要素の最も小さいものとされてきた原子が、実は電子、陽子、光子といった素粒子によって構成されていることが分った。
capelaurig
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奇妙なことだが、物質はより根源的なエネルギーの代名詞だというのだ。物質もエネルギーも根は一株につながっているが、その正体を見届けた者はまだ一人もいない。そんなミクロの世界のことさえまだ闇の中だから、神や霊界の有無について、科学で答えがでるのはまだまだ先であろう。
現実の表層に浮かび上がる物質世界を説明するいかなる言葉も、今ではすっかり色褪せた。近代科学はじまっていらい確固不動の礎とみなされてきた物質は、結局、うたかたの夢のように明滅していくはかない幻想であり、実像そのものではあり得ない。このような認識は、同時に物質の背後にあって支えきっている別次元の深層界を想定せざるを得ないはめに陥った。そして、深層の岩盤をえぐり出そうとする苦渋に満ちた試みも、ようやく緒についたばかりである。
capelaurig
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「半可通的学者の鈍才浅智をもって、無限絶対無始無終の神界の事柄にたいして喃々するは、竿をもって蒼空の星をがらち落とさんとするようなものである。洪大無限の神の力に比べては、鼠の眉毛に巣くう虫、その虫のまた眉毛に巣くう虫、そのまた虫の眉毛に巣くう虫の放った糞に生いた虫が、またその放った糞に生いた虫の、またその虫の放った糞に生いた虫の糞の中の虫よりも、小さいものである。ソンナ比較にもならぬ虫の分際として、洪大無辺の神界の大経論が判ってたまるものでない」(『霊界物語』五巻「総説」)
とかく科学者は科学者の目で、宗教家は宗教家の目で、哲学者は哲学者の目でしか神や霊界を見ていない。そういう色眼鏡をはずし肉体的思考から離れぬ限り、物事の真実はわかるまい。王仁三郎が中途半端な学者に対してこのような毒舌を吐くのも、科学もまた将来、神や霊界に到る大事な道だという期待があるからだ。
「昔の人間は直感すなわち、第六感が鋭かった。だが今日の科学は、最低の直感を基礎として立てられたものだから、だんだんその第六感をにぶらしめてきた。それは人類にとってたいへんな損失であり、どうしても今後の学問は科学的に人間の知慧を向上せしめるとともに、神より与えられた人間の直感力をいよいよ発達させて、両々相まって人類の福祉に貢献するよう、努力させねばならぬ」(『人類愛善新聞』昭和一O年八月二三日「直観力を養え」)。
capelaurig
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・・・科学を基礎としなくては/神の存在経論を/承認しないと鼻高が/下らぬ屁理屈並べたて/己が愚をも知らずして/世界における覚者ぞと/構えいるこそおかしけれ/学びの家に通いつめ/机の上にて習いたる/畑水練生兵法/実地に間に合うはずがない/口や筆には何事も/いとあざやかに示すとも/肝腎かなめの行いが/できねばあたかも水の泡/夢か現か幻の/境遇に迷う亡者なり/肉の眼は聞けども/心の眼暗くして/一も二もなく知恵学を/唯一の武器と飾りつつ/進むみ霊ぞ憐れなり・・・
知るという 人はなにもの 天地の 妙(あや)しき神業(みわざ) かみならずして
霊と肉 一致和合のみおしえは 三五の道を おいて他になし
人間とは何かという問題
ダーウィンが『種の起源』を発表した当時その時代の人々にとって「人間とは何か」という問いかけは、文字通り現代以上に大問題であったろう。
現代の科学技術は、核爆弾、自然の汚染、環境の破壊といった問題を生み出し、人類ばかりか地球上の全生命までも滅亡させかねない状態になっている。遺伝子操作の技術の進歩は、そのうち、人間そのものの遺伝子に手を加えてゆくであろう。こうして科学が神の領分にまで踏みこもうという事態になると、あらためて「人間とは何か」を根源から考え直す必要がある。
capelaurig
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コンピュータの研究とは、「考える」ということを考えることである。私たちが「考える・理解する」大部分は、三段論法など単純な論理の組み合わせである。この根底にあるものは、要するに「そう決めたらこうなる」ということだ。これまで科学の「人間とは何か」との問いかけは、霊的な面を否定する方向に人間を導いてきた。だがいずれ、科学技術の頂点において神と出会う状況になれば、もっと根元的などんでん返しもあり得よう。
白米を 食いて黄色き糞をたれ 赤い血を出す 理知らぬ学者よ
洋人の よだれのかすを切売りし 飯を食ってる 現代の学者よ
capelaurig
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一九二二年、王仁三郎はすでに、「二十一世紀の初期には通信機関が発達して、毛筆や鉛筆や万年筆の必要はなくなり、指先で空中に七十五声の文字を書けば相手に通じるようになる」(『霊界物語』一五巻二一章「帰顕」)と予言している。文字が言語を発する時代になるというのだが、当時は荒唐無稽に思われていたことでも、今では不可能な夢ではなくなった。だんだん思っていることがそのまま現実化していこう。
現在、私は執筆はすべてワープロを利用している。ワープロで打って執筆というのもおかしいが、鉛筆を持つことも、消しゴムを使うことも、まったくなくなった。たしかに早くて便利にはなった。
capelaurig
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