前回の投稿で書いたように、記紀の史料性には限界があります。しかし、幸いにも日本の隣には古い文明国の中国があり、中国の史料と組み合わせることで日本の古代史をかなり明らかにすることができます。
5世紀の倭の五王は最後の武王(ワカタケル大王、オオハツセノワカタケ=雄略天皇)を除いて名前が一致しないと言われますが、そんなことはありません。最初の讃王はホムタワケ=応神天皇の「ホム」の漢訳であることを前田直典氏が明らかにしており、私は珍王をミズハワケ=反正天皇の「ミズ」(見ず、珍しい)の漢訳、済王をワクゴノスクネ=允恭天皇の「スクネ」(王を助ける家臣。済には救済の意味がある)の漢訳と考えています。
興王とアナホ=安康天皇の関係は謎ですが、穴穂は地名に過ぎず、失われた本名と関係があるのかもしれません。
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