カテゴリ: エッセイ

イランがウクライナ航空機の撃墜を認めて謝罪しましたが、これは1983年に発生した大韓航空機の撃墜事件によく似ています。大韓航空機はアメリカ軍の意向を受けて旧ソ連の上空をスパイ飛行していた疑いが濃厚ですが、ウクライナ航空機も同じだったのではないでしょうか。
民間機をスパイ飛行機に仕立てて撃墜させ、悪者にするアメリカ軍のやり方は見え透いています。トランプ大統領は当選以来、軍産複合体を押さえて世界大戦の発生を避ける方向で努力してきたと思われますが、それが破綻するかどうか、きわどい段階に来ているように思います。

歴史において、最後の言葉を言える者はいない。しかし歴史の外に立つことによって、ある種の最終性に達することができる。

私は上の言葉をコリン・ウィルソンの『ラスプーチン』で読みましたが、更に古い出典があるかもしれません。コリンは上の言葉に続いて「ラスプーチンが一つの終止符のように思えるのはそのためだろう」と記していますが、終止符は同時に出発点でもあります。三島由紀夫もこの言葉に当てはまりそうです。
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奈良時代に始まった日本と渤海の交流は平安時代の前期まで続きますが、926年に契丹が渤海を滅ぼしたことで終止符が打たれました。契丹は渤海の故地に「東丹国」という属国を作りました。戦前の日本が満州国を作り、アメリカが戦後の日本を作ったようなものです。
渤海が滅ぼされた3年後の929年、東丹国の使者が丹後国(京都府京丹後市)に到着しました。大使は璆(はいきゅう)と言い、渤海の大使として2度来日していた人物でした。朝廷は藤原雅量を丹後に派遣して事情を尋ねました。雅量は裴大使と親交があり、裴大使は気を許したのか、渤海国が契丹に滅ぼされたことを伝えただけでなく、契丹の残虐非道ぶりをも訴えました。朝廷は「二君に仕えたばかりか、新しい主人の悪口まで言うとは不義不忠である」として使者を追い返しました。
藤原雅量は裴大使に同情し、後に彼を回想した漢詩を残しています。
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『日本書紀』が神功皇后紀で『魏志』倭人伝を引用し、年代決定の史料としたらしいことはよく知られていますが、『後漢書』倭伝は引用されていません。しかし私の見るところ、『日本書紀』編者は崇神天皇から神功皇后までの年代を『後漢書』倭伝を用いて決めたと思われます。
現代の日本でも、中国の史書と言えば『史記』と『三国志』が大人気であり、その間の『漢書』と『後漢書』は全く人気がありませんが、唐の時代には『史記』『漢書』『後漢書』が「三史」と言われるほど重要でした。『史記』『漢書』は倭や日本の記事がほとんど無いので、まとまった記事としては『後漢書』倭伝が最初です。ただ『後漢書』は『三国志』より後の5世紀に編纂されたため、その倭伝は『魏志』倭人伝のコピぺに過ぎないと軽視されがちです。しかし『魏志』倭人伝に無い独自の記事があり、微妙な相違も多く、単なるコピぺではありません。
『日本書紀』のヤマトタケルの年代が西暦107年の倭国王帥升と合うこと、タジマモリの年代が57年の倭奴国大夫と合うのは偶然ではないと思われます。崇神天皇の即位が西暦紀元前97年とされているのも、『後漢書』倭伝が武帝の朝鮮征服(紀元前108年)から始まっているのに合わせているようです。
もちろんこの年代は『日本書紀』の建前であり、これが史実でないことは編者も知っていたでしょう。淡海三船は初期の天皇の漢風諡号で彼らが考えていた実年代を暗示したと思われます。
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中曽根康弘が101歳で死去しました。ついに日航ジャンボ機「事故」の真相を語ることはありませんでしたが、いつか事実が明らかになることを望みます。
中曽根は田中角栄と同年同月生まれでしたが、二人を比べると余りに対照的な政治家だったと思わざるを得ません。一兵卒として満州国に送られた角栄と、海軍主計少佐として命令する立場だった中曽根では戦争観が全く違うのは当然でしょう。日本国民を第一に考えたためにアメリカに潰された角栄と、グローバリズムの走狗となって長期政権を築き、日本の衰退と破壊を促進した中曽根はまさに対極と言えそうです。
1985年2月に田中角栄は脳梗塞で倒れましたが、8月に日航ジャンボ機墜落「事故」が起きました。角栄が倒れていなかったら、520人は殺されることは無かったかもしれません。
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668年に高句麗が滅びた後、698年にその後継を自称する国が誕生しました。渤海(ぼっかい)国です。この国は旧敵の新羅や唐に対抗するため日本との修好を図ります。727年に日本に向けて派遣された大使・高仁義以下24人の一行は道に迷って蝦夷(えみし)の地に漂着し、大使を含む16人が殺されてしまいます。生き残った高斉徳以下8人が奈良の都に入り、聖武天皇に拝謁します。
高斉徳が持参した国書で、渤海の武王は自分の国について「高句麗の領土を回復し、扶余の遺俗を守る」と説明しています。渤海が滅びるまで200年以上に亘って日本との友好的な関係は続きました。
20世紀に日本の関東軍が満州国を建てた時、渤海の歴史が思い出された時期がありました。戦後は再び忘却されますが、また復活することもあるかもしれません。
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