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イスラム教の『コーラン』を初めて読む気になったのは、礒部浅一が北一輝の『日本改造法案大綱』を「我が革命党のコーラン」と呼んで信奉していたことも少しあります。去年の12月21日のブログで触れました。
前から「コーランは読むものではなく朗唱するもの」と聞いていましたが、井筒俊彦訳の日本語で読んでも、それは伝わってきます。もっともコーランはアラビア語のもので、外国語に翻訳してはいけないそうです。翻訳ではなく「解説書」なのだそうです。もっとも、翻訳とはすべて解説に過ぎないのかもしれません。
コーランは、魔力のある聖典という感じがします。「魔」と言ってはいけないのでしょうが。ユダヤ教は勿論ですが、マリアの子イエス(マルヤムの子イーサー)を「神の子」と言ったり、三位一体説を取ったりするキリスト教をも激しく攻撃します。イスラム教で救われている人々が世界に数多くいるのも分かるような気がします。
およそ宗教には自力門と他力門がありますが、自力門の代表をインド教とすれば、イスラム教は他力門の代表で、極限に突き詰めた教えと言えるでしょう。人はアッラーから来て、アッラーに帰りゆく。信じる者は楽園に行けるが、信じない者は地獄の火に焼かれるという恐ろしさが繰り返し強調されます。
イスラム教と言うと中東の沙漠が思い浮かびますが、イスラム教の最大の人口を持つ国はインドネシアであり、日本人にも身近な宗教と言えるかもしれません。
イスラム教国の国旗に星と三日月を描いたものが多いのは、やはり沙漠の宗教だからでしょうか。「赤十字」は勿論イスラム教では駄目で、赤十字に相当する団体は赤新月であり、イスラエルでは赤いダビデの星であることもよく知られています。
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岩波文庫の塚本虎二訳で、新約聖書の『福音書』を初めて読んでいます。私は何故かキリスト教が嫌いで、今まで真面目に読んだことがありませんでした。
福音書は四つあり、マルコ、マタイ、ルカの三つはよく似ていて「共観福音書」と総称されます。ヨハネは全然別の立場から「ヨハネ福音書」を書いています。
多くの発見がありましたが、一番驚いたのはイエス・キリストの母である聖母マリアの記述が少ないことです。聖母マリア信仰は本来のキリスト教には無かった要素で、後世に付加されたことは知識としては知っていましたが、聖書を読んで確認すると、大きな驚きでした。
それどころか、「マルコ福音書」の中でイエスが次のように発言する場面まであります。

そこにイエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていてイエスを呼ばせた。大勢の人がイエスのまわりに坐っていたが、彼に言う、「それ、母上と兄弟姉妹方が、外であなたをたずねておられます。」イエスは「わたしの母、兄弟とはだれのことだ」と答えて、自分のまわりを取りまいて坐っている人々を見まわしながら、言われる、「ここにいるのが、わたしの母、わたしの兄弟だ。神の御心を行う者、それがわたしの兄弟、姉妹、また母である。」

この少し後で、イエスは郷里のナザレで伝道するのですが・・

「これはあの大工ではないか。マリヤの息子で、ヤコブとヨセとユダとシモンとの兄弟ではないか。女兄弟たちは、ここで、わたし達の所に住んでいるではないか。」こうして人々はイエスにつまずいた。そのため彼の言葉に耳を傾ける者がなかった。イエスは彼らに言われた、「預言者が尊敬されないのは、その郷里と親族と家族のところだけである。」郷里の人々の不信仰のゆえにそこでは何一つ奇蹟を行うことが出来ず、ただわずかの病人に手をのせて、なおされただけであった。イエスは人々の不信仰に驚かれた。

「マタイ福音書」と「ルカ福音書」にも同じような記述が見られます。「ルカ福音書」では、イエスは怒った郷里の人々によって、危うく山の崖から突き落とされそうになったと書かれています。
仏教でも「出家」は家を出ると書きますから、それほど驚くようなことでもないわけですが。現代日本の葬式仏教のイメージから見ると、やはり驚くべきかもしれません。
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