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平成上皇がまだ皇太子の頃、「1400年ぶりに外国人教師についた」という表現を見かけたことがあります。平成上皇が教わった外国人教師とはバイニング夫人であり、1400年前には聖徳太子(厩戸皇子)が高句麗の僧・恵慈に教えを受けています。
外国人教師と皇太子には更に古い例があり、応神天皇が百済から渡来した阿直岐と王仁を菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の教師としたと言われます。聖徳太子も菟道稚郎子も皇位につかなかった人物です。
聖徳太子が「日出る処の天子」の国書で隋の煬帝を怒らせたことは有名ですが、菟道稚郎子は高句麗王の上表文が無礼であるとして、表を破ったと日本書紀に書かれています。当時の倭国は高句麗と激しく争ったことが朝鮮や中国の史料から明らかですが、日本書紀ではすべて(後の時代に強大化した)新羅との争いに置き換えられ、上表文の事件が残るのみです。
日本と朝鮮・韓国との不幸な確執は今も続いています。
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林房雄『天皇の起原』第九章「三島由紀夫の天皇観」では、学生の質問に答える三島の発言が引用されています。

手塚治虫の漫画なんか見ると、あたかも人民闘争があって、奴隷制があって、神武天皇という奴隷の酋長がいて、奴隷を抑圧して国家をつくったように書いてあるが、あなたは手塚治虫の漫画を読みすぎたんだ。これはこのごろの子供に読ませるための共産主義者の宣伝で、単純な頭にわかりやすく漫画でかいてある。

この発言は『火の鳥・黎明編』で(神武天皇でなく)ニニギの尊が邪馬台国を征服する騎馬民族の首長として描かれていたことを指すのでしょう。1978年には市川崑の映画にもなりましたが、この映画ではニニギが「ジンギ」と変えられていて当惑した記憶があります。神武天皇と合体させたみたいな名前ですが、ニニギより発音しやすいのと、征服者のイメージに合わせるための改変だったように思われます。
「併録:神武天皇実在論」では古代アンデスへの探検旅行の思い出が語られ、林房雄の所感が述べられます。

私が帰国した後にも、ボリビアには何度か革命が起こっている。ポンセ君はそのたびにシャベルを捨て武器をとったことであろう。アルゼンチンやメキシコから来たというカストロ髭の若い学者たちも、実はカストロやゲバラの秘密の同志であったかもしれない、とそんな空想もしてみたくなる。ポンセ夫妻は今も無事であろうか。
これも帰国後の感想であるが、たしかに日本の正統派考古学者たちは「客観的」で、左派の歴史家たちが考古学の成果を、日本の伝統と歴史の破壊のために勝手に利用するのを傍観しているように見える。考古学も歴史学もそれぞれの民族と祖国への愛情に支えられることなしには成立し得ない学問である。このような考え方は、戦後の日本では通用しにくいかもしれぬが、考古学すなわち国学であり、若い学者や芸術家のほとんどすべてが祖国復興の行動者・闘士であるというメキシコやペルーやボリビアの例があることを忘れてはなるまい。

いろいろ考えさせられる本です。
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林房雄の『天皇の起原』(夏目書房)を読んでいます。これは面白い本です。
「三島由紀夫の天皇観」という章では、林は次のように書いています。

実は私にも三島天皇観は、彼の生前には難解であった。私がおぼろげながらその真意にふれることができるようになったのは、彼の市ヶ谷台決死行の後であった。それ以前には、天皇論については、私はしばしば「生きている三島」と意見をたたかわせて、しかも一致する点は少かった。
・・彼の天皇論だけを取上げようとしても、材料は意外に少い。・・断片はくだけ散った宝石のように鋭く輝いているが、彼はそれを学説にまとめる意志も時間も持たなかった。私がこの一章の題を「三島由紀夫の天皇論」とせず「天皇観」としたのは、その理由による。

一般には怪しいと言われる『富士古文書』と『上記(うえつふみ)』についても詳細に解説されています。林は友清歓真の『天行林』の一節を引いた後、次のように述べています。

私がこれに注目したのは、『上記』、『富士古文書』偽書説は、神社神道系の学者によって唱えられたものではないか、とふと思ったからである。
・・『富士古文書』のために斎藤内大臣をいただく「富士文庫」は創立されたが、その内容が『記紀』といちじるしく矛盾していることが判明すると、「一文献学者」の偽書説によってたちまち解散されてしまった。

別の章では国家神道と古神道についても考察しています。

国家神道になってしまうと、江戸時代の仏教と同じく、宗教の真精神は失われがちになる。そのために、天理教や大本教などの神道的大衆宗教の中にかえって古神道の精神が保存され、その故にこれらの新興宗教は政治的弾圧をうけるという奇現象さえも生まれた。

『富士古文書』などは明らかに後世の加筆はありますが、古代からの貴重な言い伝えが含まれている可能性は否定できないようです。
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「六国史」で日本書紀に続く『続日本紀』は第42代文武天皇の即位から第50代桓武天皇の途中までを扱いますが、第43代元明天皇の和銅6年(713年)には「各国・郡・郷の名を好ましい字で表記せよ」という命令が出されています。「好字(二字)令」と言われるもので、現在の和歌山県にほぼ該当する「木国(きのくに)」が「紀伊国」と改められるなど、全国で表記の変更が相次いで行われました。
文武天皇の慶雲元年(704年)には粟田真人ら大宝の遣唐使が帰国した記事があり、この遣唐使が「倭国」から「日本国」への変更を伝えたことが分かります。小池清治氏が「日本語は悪魔の言語か?」という著書で指摘しましたが、この国名変更と好字令は関連しているように思われます。
日本の国名変更については、中国の10世紀の『旧唐書』では「日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本は旧小国、倭国の地を併せたりと」と三つの説を併記しています。
11世紀の『新唐書』では「夏音を習い、倭の名を悪み、更めて日本と号す。使者自ら言う、国日の出ずる所に近し、以に名となすと。あるいはいう、日本は乃ち小国、倭のあわす所となる、故にその号を冒せりと」と、こちらも併記の形になっています。
14世紀の『宋史』では「日本国は本の倭奴国なり。自らその国日出ずる所に近きを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、その旧名を悪みこれを改むるなりと」となり、日本は倭奴国から連続しているととらえています。
朝鮮半島の史書では、12世紀の『三国史記』新羅本紀の文武王10年(670年)に「倭国が国号を日本と改めた」という記事がありますが、井上秀雄氏は「新唐書を誤読したもので、703年の出来事を670年と勘違いしたものだろう」と推測されています。
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歴代天皇の諡号・追号については、森鴎外が詳しく研究しており、鴎外全集の第20巻に『帝諡考』として纏められています。(元号について研究した『元号考』もあります)この研究を読むと、いろいろな発見がありました。
後漢の少帝懿と懿徳天皇には前から注目していましたが、少帝懿について書かれた後漢書・安帝紀に「懿徳」の語が現れるのは初めて知りました。安帝の時代には「永寧」という元号もあり、安帝と安寧天皇の繋がりも深めることが出来ました。
最大の発見は、6世紀の中国の北斉に「神武皇帝」(高歓)がいて、その第六子が「孝昭皇帝」(高演)であることが分かったことです。前漢の武帝(孝武皇帝)と昭帝も父子でしたが、北斉は「神武皇帝」ですから更に似ています。神武天皇と孝昭天皇の間は綏靖・安寧・懿徳の三代で、前漢の武帝と昭帝は連続しますが、北斉の神武皇帝と孝昭皇帝の間は文襄・文宣・廃帝殷の三代、この類似性も驚きです。
問題なのは北斉の場合、神武皇帝と文襄皇帝は「追尊」であることです。高歓は東魏の孝静皇帝を擁立して実権を握っていましたが、生前に帝位につくことはありませんでした。ここから類推すると、神武天皇と綏靖天皇も追尊で、安寧天皇が初代かもしれません。安寧天皇の名は「シキツヒコタマテミ」で、后の父がシキ(磯城、又は師木)県主ハエ(葉江、又は波延)ですので、ハエから皇位を継いだ可能性も考えられます。
後漢の安帝(孝安皇帝)の諡号が安寧、孝安の2代の天皇に取られたのも奇妙ですが、安寧天皇の第三皇子が父の名前の一部を継いだシキツヒコであり、オオヤマトクニアレヒメ(孝霊天皇の妃)に繋がる古事記のシキツヒコ系譜との関連が窺われます。
江戸時代の第112代霊元天皇の諡号は、第7代の孝霊天皇と第8代の孝元天皇から取られたようですが、何故この二人なのかは謎です。いわゆる欠史八代で目立った業績もない天皇です。古事記の孝霊天皇の段には「桃太郎」の原型と言われるキビツヒコの吉備平定の記事があり、これと関係があるかもしれません。その3代前、第109代の明正天皇は、奈良時代以来なんと約900年ぶりの女帝であり、第43代の元明天皇と第44代の元正天皇という2人の女帝の諡号を繋いだのは「なるほど」と思わせますが・・
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