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https://youtu.be/Tatr4uSXcmw
季節外れで申し訳ありませんが、有名な曲ですね。物憂い夏の雰囲気がよく出ております。
私も会社に勤めていた頃は、ガラにもなくKARAOKE をする機会がありましたが、そういうときはサザンオールスターズの曲や、桑田佳祐氏が書いた曲をよく歌っておりました。あまりマイナーな曲は入っていなかったし、入っていても歌うわけにいきません。桑田氏の曲は知名度が高いし、とても歌いやすいのです。中でもこの曲を歌うと好評?でした。笑われただけという話もありますが。
言うまでもなく、私の実生活とは何の関係もない内容です。そもそも小学生の時を最後に海で泳いだことは無く、体育の水泳の授業も眼病のために受けていませんから、おそらく泳ぎ方さえ忘れています。大地震で津波に襲われたら、それこそ「あきらめて」溺死するしかありませんね。大学時代の初期を最後に女性と付き合うこともしていません。
歌の面白い(恐ろしい?)ところは、そんな私でも一応は歌えてしまうということです。桑田氏は昭和の歌謡曲をよく研究していて、多くの楽曲を他の歌手に提供しています。
他には『真夏の果実』という曲もよく歌ったものです。大学生活の思い出を歌った『Ya Ya あの時代を忘れない』や、原由子氏が歌う『鎌倉物語』も美しい曲だと思いますが、ちょっと地味であまりKARAOKE 向きではありませんでした。
太田裕美さんとの関連で言うと、太田さんと桑田氏がある番組で共演したことがあり、太田さんの『青空の翳り』を聴いた桑田氏が「きれいな曲ですね」と話しかけ、太田さんは(桑田さんもこんな曲が好きなのね!)と驚いたそうです。
サザンオールスターズの曲では『チャコの海岸物語』という曲が人気があるようですが、私はあの曲の何処が良いのか全然分かりません。名曲も多いが駄作も多いという印象です。デビュー曲は『勝手にシンドバッド』というタイトルで、当時流行していた沢田研二の『勝手にしやがれ』とピンク・レディーの『渚のシンドバッド』を合わせたタイトルです。あの曲をラジオで初めて聴いた時は「ふざけた奴らだ・・」と思っただけで、その後の彼らの活躍は想像出来ませんでした。
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この曲のタイトルには私の生年が入っています。発売は1980年でしたが、橋本治の『桃尻娘』が面白いと言っていた片想いの女子大生がこの曲も好きだと話していたのを覚えています。その時点で数年前の懐メロでした。
前年の1961年は、上下をさかさまにしても変化しない年です。(9をさかさまにすると6、6をさかさまにすると9になるので)次回は6009年なので、生きて迎えることはないでしょう(笑)
1962年はキューバ危機が起こり、アメリカとソ連が核戦争の一歩手前まで行きました。三島由紀夫も核戦争の恐怖を宇宙的な観点から描いた異色の小説『美しい星』を書いています(最近、映画化もされましたが、設定を現代的に変えたというので見る気がしません)。日本では「ケネディが偉い!」ということになっていますが、ケネディは「キューバのミサイルを撤去しないと戦争するぞ!」と脅したのですから、撤去したフルシチョフのおがげで人類は助かったのではないでしょうか。
ケネディは1961年に「アメリカは1960年代のうちに人間を月に送る」と演説してアポロ計画を始めました。この計画がハリウッドを巻き込んだ国家的な詐欺だった疑いがあることは、当ブログでも指摘した通りです。
そうは言っても、私はケネディが嫌いというわけではありません。アメリカの大統領にしてはマシな人物であり、それゆえに「アメリカの闇」に嫌われて暗殺されたのでしょう。
田中角栄はジョン・F・ケネディに会うことはありませんでしたが、弟のロバート・ケネディ司法長官が来日した1962年2月6日、自民党の政調会長として会っています。このときの田中政調会長の発言が大問題になりました。
「沖縄返還の前提条件として、日本が早急に憲法改正をし、再軍備を進めるよう、米国から提起したらどうか」
角栄としては沖縄問題の突破口を作りたかったのでしょうが、東京タイムズの早坂茂三記者にスクープされてしまいました。朝賀昭氏によると、早坂記者は「大騒ぎになって気がとがめたのか」目白に出向き、角栄から「よく来たな。今度はオマエさんの勝ちだ」と握手を求められたそうです。このような発言をしていた角栄が十年後、首相として国内の親台湾派を押し切って中国との国交正常化を果たし、早坂茂三は記者をやめて佐藤昭子と並んで角栄を支える秘書になるのですから、歴史は分からないものです。
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https://youtu.be/IaAiGgY75RA
1972年(昭和47年)平田隆夫とセルスターズの『ハチのムサシは死んだのさ』です。この作詞者の内田良平は俳優ですが、日本の右翼の歴史を語るのに欠かせない同姓同名の政治運動家も有名です。
ハチのムサシとは誰なのか。これは1960年代の学生運動を歌っているという説があります。安保闘争の犠牲になった樺美智子さん、羽田事件で命を落とした山崎博昭などが思い浮かびます。羽田事件というのはアメリカがベトナムの民衆を殺し続けていた1967年(昭和42年)10月8日、当時の佐藤栄作首相の南ベトナム訪問を阻止しようとした新左翼の学生たちが機動隊と衝突した事件です。
しかし歌というものは聴く人によってさまざまな受け取り方をされるもので、ここから三島由紀夫と森田必勝を連想してもよいわけです。あるいは林房雄のいう「東亜百年戦争」を戦った日本をハチのムサシにたとえても良いでしょう。フィリピンのシブヤン海に沈んだ戦艦「武蔵」、沖縄に向かう途中で沈んだ戦艦「大和」も思い出されます。
ベトナムという国は中国・朝鮮(韓国)・日本と共に中国の漢字文化圏に属してきた歴史を持ちますが、島国でなく陸続きでありながら中国の支配に抵抗し、民族の独立を守ってきた歴史は朝鮮民族と共に尊敬に値します。19世紀からはフランス、日本、アメリカの侵略も受け、再び中国とも戦いました。
西暦3世紀、中国の三国時代に呉国と戦ったベトナムの有名な女傑がいます。趙嫗(ちょうおう)という名前で、生涯独身だったので趙氏貞とも言い、ウィキペディアにはこちらの名で載っています。彼女は著しい身体的特徴を持ち、『大越史記全書』には「乳長三尺施於背後」と記されています。この時代の中国の一尺は23センチですから、乳房の長さ(胸囲ではない)が70センチほどあり、背中に回るほどだったと。ここまで大きいと気味が悪いですが、神秘性が感じられたかもしれません。
交州九真郡(現在のベトナム・タインホア省)で兄の趙国達と共に蜂起した趙嫗は象に乗って軍の指揮をとり、現地の呉軍を敗走させましたが、呉の皇帝・孫権は交州刺史・陸胤(りくいん)に大軍を与えて派遣します。両軍は死闘を繰り広げましたが、趙嫗が処女だと聞かされた陸胤は一計を案じ、趙嫗から見えるところで鎧を脱いで全裸になりました。趙嫗が恥ずかしがって隙を見せたので、呉軍は一気に攻めかかって決着がつきました。女性ではありますが、彼女も「ハチのムサシ」のようです。
趙嫗が死んだのは西暦248年で、まだ23歳の若さでした。余談ですが、やはり三国時代の魏国に使者を送った倭(日本)の女王・卑彌呼が死んだのも同じ248年頃です。卑弥呼はかなり年寄りだったらしいので、13歳で後を継いだ壹與(壱与)のほうが年齢は近いかもしれません。
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これは有名な曲ですね。競作で越路吹雪さんらの歌もありますが、トワ・エ・モワの曲は1970年11月5日、三島由紀夫が市ヶ谷で切腹する20日前に発売されました。それを思うと感慨深いものがあります。
子供の頃から知っていた曲ですが、何十年も間違って信じ込んでいたことがありました。この曲を作詞した「山口洋子」さんは、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」「夜空」の作詞で有名な山口洋子さんとばかり思っていましたが、同姓同名の別人とのことです。ウィキペディアでは「山口洋子(詩人)」「山口洋子」として区別しています。
「よこはま・たそがれ」の山口洋子さんは女優志望を諦め、銀座で「姫」という店を経営していました。お客には作家も多く、三島由紀夫も客の一人でした。ホステスの中には1968年のミス・ユニバース・ジャパンだった飯野矢住代(いいの・やすよ)さんもいました。彼女はジャニーズ事務所のタレントだった時期もありましたが、1971年12月28日、風呂の空焚きと思われる火事を起こし、21歳の若さで焼死しました。後に『機動戦士ガンダム』の声優として有名になる池田秀一と同棲中だったようですが、彼は多くを語りたくないようです。飯野さんは「オリベゆり」というペンネームで、ザ・スパイダースの『なればいい』という面白い曲を作詞しています。作曲はかまやつ・ひろしです。
同姓同名と言えば、私の名前「ふぁーとぅーあんたれす」のもとになった曲『Too far away』(水越けいこ、谷村新司、堀内孝雄、やしきたかじん、安倍なつみなど。歌手によってタイトルや歌詞に多少の改変あり)を作詞・作曲した伊藤薫は、元チューリップのドラマーと間違われることがありますが、別人です。ウィキペディアでは「伊藤薫(作曲家)」「伊藤薫(ドラマー)」として区別しています。『Too far away』以外では『ラヴ・イズ・オーヴァー』が著名な作品です。
佐藤昭子さんも同姓同名の有名人がいます。本来は「佐藤昭(さとう・あき)」ですが、文藝春秋で児玉隆也の『淋しき越山会の女王』が出た後、マスコミで「佐藤昭、佐藤昭」と呼び捨てにされてお怒りになり、「レジスタンス」で改名されたとのことです。どうも不思議な理由で、今度は「佐藤昭子、佐藤昭子」と言われるだけだと思うのですが、ご本人の真意は別にあるのかもしれません。
佐藤昭さんと同じく田中角栄の秘書だった朝賀昭(あさが・あきら)氏は、読み方は違いますが佐藤さんの旧名と同名の男性で、田中角栄や佐藤さんを語った著書もあります。
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2018年8月27日 『ラヴ・イズ・オーヴァー』について追加。

https://youtu.be/bmw_VRo55kY
私が中学生の頃によく聴いた太田裕美さんの曲です。この『遠い夏休み』は『手作りの画集』(1976年)というアルバムに入っていました。なかなかの名曲で、この季節になると聴きたくなります。
太田裕美と言えば『木綿のハンカチーフ』を思い出す人が多いと思いますが、彼女はこの曲が嫌いだったそうです。

私だったら『木綿のハンカチーフ』の彼女みたいに待たないわ。彼を追ってさっさと都会に行っちゃう。

こんなことを何かの週刊誌で語っていたのを読んだ記憶があります。
『木綿のハンカチーフ』は不思議な曲で、いつ聴いても初めて聴くような新鮮さが感じられます。「こんな歌詞、現実には有り得ないよな」と昔の私は思っていて『しあわせ未満』のほうが好きだったのですが、『木綿』の神話的な美しさも認めるようになりました。太田裕美さんのヒット曲はほとんど松本隆と筒美京平の作詞・作曲です。
『木綿』と対照的に太田さん自身が大好きだったのは『九月の雨』で、『こけてぃっしゅ』(1977年)というアルバムから彼女自身の強い希望でシングルカットされたのですが、喉をこわしてしまって苦労されたようです。彼女の声質にはあまり合っていない歌のように思われます。ただ歌詞も曲も素晴らしく、太田さんが気に入ったのもよく分かります。最後の「♪愛がきのうを消してゆくなら私あしたに歩いてくだけ」とか、最高です。
太田裕美さんは特徴的な声と独特な世界を持つ歌手だと思います。少し舌足らずで、曲によっては歌詞が聞き取りにくい場合もあります。私の母の表現を借りると「青春のはかなさ」・・なるほど。バラエティ番組で共演した堺正章から「やる気があるのかないのか分からないような歌手」と茶化されておりました。(笑)
水越けいこさんも個性的な声の持ち主ですが、アイドル歌手は声に特徴がないと売れない気がします。かとうれいこさんも結構上手いのですが、あまり声が印象に残らないのですね。
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