『暁の寺』第一部で本多繁邦は、タイで仕事を終えた後に「五井物産」(笑)のお礼でインドに旅行しますが、中でもベナレスとアジャンタでは「人生にとって何かきわめて重要きわめて本質的なもの」を見ました。
ベナレスはヒンズー教の聖地であり、人々の生活の中に宗教が生きているところです。一方、アジャンタはインドでは衰えてしまった仏教の遺跡です。
本多はベナレスの太陽を仰いで飯沼勲を思い出し、アジャンタの滝では松枝清顕を思い出します。第二部で成長したジン・ジャンに再会したときには、アジャンタの壁画の女神を思い出しています。
アジャンタの石窟で、本多は『春の雪』でジャオ・ピーが指環について話したのと同じようなことを考えたようです。
「何もないことのほうが、却って幻を自在に描かせた」
「何もなくなったということほど、ありありと新鮮な存在の兆を肌に味わわせるものはなかった」
アジャンタの滝口では「一匹の黒い仔山羊」が草を食べていました。『春の雪』で松枝家の庭の滝口にあった黒い犬の死骸が思い出されます。
音の描写は『天人五衰』最後の庭にも似ています。アジャンタで本多は、静寂と滝の音にかわるがわる聴き惚れますが、月修寺の庭では「数珠を繰るような蝉の声」が領していて、ほかには何一つ音とてありません。
私は見ていませんが、21世紀になって『春の雪』は映画化されており、滝の前で二羽の蝶が舞うシーンがあると聞きました。そのシーンは『暁の寺』のアジャンタの滝で
「本多の目と滝をつなぐ一線に、幾羽の黄いろい蝶がまつわって上下していた」
という場面にヒントを得たのではないかと思われます。
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