『天人五衰』の最後は、この作品の大きな謎です。本多繁邦が60年ぶりに訪れた月修寺で、門跡の綾倉聡子は松枝清顕を知らないというのです。聡子は老人性痴呆であったと言ってしまってはつまらないので、真面目に考えてみましょう。
『春の雪』三十六で、清顕が聡子に「君はのちのちすべてを忘れる決心がついているんだね」と問いかけ、聡子が「ええ」と答える場面があります。聡子はこの決心によってすべてを忘れたのかもしれません。
本多は『春の雪』の最後で清顕を聡子に会わせようと月修寺を訪れ、熱弁をふるいますが門跡から拒絶されます。そのあと門跡から仏教法相宗の唯識の教義を説かれ、その場では分からなかったわけですが、これを契機に本多は唯識論にひかれてゆくことになります。
『暁の寺』第一部のタイとインドへの旅を経て、戦時中に本多は精神世界の研究に没頭しますが、ここで三島は唯識論の詳しい解説をしています。ここは小説の中では浮いた印象を与えるのは確かです。私もよく分かりませんし、三島もどこまで分かっているのかなと思ったりもします。一方、小室直樹氏のようにこの部分を高く評価する人もいます。
唯識論からすれば、門跡(聡子)が最後に言っている内容は特に不思議ではないのかもしれません。今や悟りの高みにいる門跡にとって、俗世での愛欲の記憶など価値はないのでしょうが、俗人から見ると冷たいように感じられます。
私が気になるのは、聡子が昔は使わなかった関西弁で話していることです。奈良に移ったのだから当然かもしれませんが、聡子は本多を「ようこそ」と迎え、慎重に本多の様子を見ているように思われます。本多の話し方が軽佻になったところで、笑って関西弁で話し始めています。私が考えるように御附弟が清顕の生まれ変わりとすれば、この場面は全く違って見えてきます。
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転生のしるし「左脇腹の三つの黒子」は『豊饒の海』では大事な役割を持っていますが、三つの黒子は三角形でしょうか。それとも一列に並んでいるのでしょうか。
黒子の描写が最初に現れるのは『春の雪』五で、松枝清顕の黒子は「あたかも唐鋤星のように」と書いてあります。唐鋤星はオリオン座の三つ星のことで、これを見ると三つの黒子は一列に並んでいると考えられます。
三十二で、本多繁邦が初めて清顕の黒子を見る場面では、三つの黒子は「集まっている」と表現されているだけです。
『奔馬』五で、本多が飯沼勲の黒子を見て驚く場面でも「集まっている」という表現です。
『暁の寺』十で、本多が月光姫を思い出す場面では「三つ星の黒子がなかった」となっています。三つ星といえばオリオン座の三つ星でしょう。ここからは、勲の黒子も一列に並んでいたことが分かります。
四十四で本多が月光姫(おそらく双子の姉)と久松慶子の同性愛を覗く場面では「昴(すばる)を思わせる」三つの黒子と書かれています。昴はおうし座のプレアデス星団ですが、すばるは肉眼では六つの星が見えますから、この表現は奇妙です。三島由紀夫はわざと奇妙な比喩を使って、ここに登場する月光姫が本物ではなく、姉と入れ替わったことを暗示したのでしょうか。それとも深い意味はないのでしょうか。
『天人五衰』六では安永透の黒子が「昴の星のように」と表現されています。
二十七では慶子が本多透に向かって「あなたの左の脇に三つ並んだ黒子」と言っています。ここで決定的な表現が出てきました。星の名を使った比喩でなく、はっきり「並んだ」と書いてある。これを「昴の星のように」とも書いた三島は、透がニセモノであると暗示したのでしょうか。そんな気がします。
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5月3日に追加
『暁の寺』三十六を読み落としていました。本多繁邦が志村克己に月光姫の黒子を見たかと問う場面で、本多は「三つ、それこそ人工的な位いみごとに並んだ黒子」と言っています。
これは完全にオリオン座の三つ星です。昴ではありません。

『暁の寺』の最後で亡くなったジン・ジャン(月光姫)が日本人に転生したことは間違いないと思われます。では、誰に転生したのでしょうか。安永透は、やはりニセモノなのでしょうか。
ジン・ジャンは日本に帰ることを望んでいましたが、男に生まれ変わることを望んでいた様子はありません。そもそも飯沼勲がジン・ジャンという女性に転生したのは、勲が女に生まれ変わることを望んだためでした。ここから考えると、ジン・ジャンは日本人の女性に転生したと考えるのが自然なように思われます。
そこで浮かび上がるのは『天人五衰』の最後で、月修寺門跡(綾倉聡子)と共に現れる「若い御附弟」です。『春の雪』では聡子は月修寺の御附弟でした。『奔馬』で本多繁邦は松枝清顕の転生を知った夜、この転生を月修寺門跡となった聡子に知らせようかと迷いましたが、自分が駆け回らなくても聡子が生まれ変わった清顕と会う機会は来るだろう、と考え直しました。
安永透は何者でしょうか。どうもジン・ジャンの双子の姉と同じ役回りのような気がします。透は両親を早く失った孤児で貧しい伯父に育てられたとあり、双子だったとは書かれていませんが、想像の余地はありそうです。
繁邦の養子となった本多透はある雪の日に、黒いベレー帽の老人が野菜屑や女の鬘を落とすのを目撃します。この日はおそらく月修寺で御附弟が剃髪した日で、透はそれを幻に見たのではないでしょうか。
月修寺を訪れた本多は聡子との不思議な対面を終えて、聡子と御附弟についてゆきますが、最後は聡子も背景に退いて御附弟と本多だけになり、「何もない庭」を見つめます。これは『春の雪』冒頭の清顕と本多の会話、セピア色の写真に対応するようです。
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