このタイトルは井上光貞の著書から採りました。日本は神話の時代まで歴史を遡る珍しい国で、その境目は定かではありません。
一応、神武天皇が境目ということになっていますが、その生存年代ははっきりしません。『日本書紀』が記す年代は明らかに延長されています。もう一つの重要な文献『古事記』は神武の年代を記していませんが、崇神天皇以後の一部の天皇の没年を干支で記しており、その多くは『日本書紀』と一致しません。
5世紀の倭の五王を見ると、『古事記』の年代の方が信頼出来そうに思われます。崇神以前の天皇については『日本書紀』の漢風諡号の検討から後漢の歴代皇帝との関連が考えられ、凡その年代を知ることができると私は考えます。
しかし、神話は本来、年代不明のものであり、こうしたことは曖昧にしておくのが望ましいのかもしれません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
一応、神武天皇が境目ということになっていますが、その生存年代ははっきりしません。『日本書紀』が記す年代は明らかに延長されています。もう一つの重要な文献『古事記』は神武の年代を記していませんが、崇神天皇以後の一部の天皇の没年を干支で記しており、その多くは『日本書紀』と一致しません。
5世紀の倭の五王を見ると、『古事記』の年代の方が信頼出来そうに思われます。崇神以前の天皇については『日本書紀』の漢風諡号の検討から後漢の歴代皇帝との関連が考えられ、凡その年代を知ることができると私は考えます。
しかし、神話は本来、年代不明のものであり、こうしたことは曖昧にしておくのが望ましいのかもしれません。
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コメント一覧 (13)
幽玄な宇宙に心を吸い奪られる八文喜三にも、また現界の仕組みの不条理に悲憤する若い血がある。収穫前のあわただしい頃であった。田んぼ道で出会った地主に会釈した喜三郎は、急に不機嫌な破れ声を浴びせられた。
「小僧、吉松の小伜やな」
「そうや」と、喜三郎は顔を上げる。
「おまえんとこ、毎日なに食うとる」
「ころもん(沢庵)に麦飯や」
「贅沢やのう。身分不相応や。乾し菜まぜた薄い粥でもすすれ。吉松やお世祢に言うとけ。吉松が宮相撲なぞさらしよるさけ、わしんとこの大事な田地が留守になるのや。ええか、小作料きちんと払えんようなら、小作田は取りあげる。宮相撲はわしが許さん。よう言うとけよ」
喜三郎が無念の唇をかんで暴言に耐えたのは、あの癇癪もちの父が、日頃、吉松と呼び捨てにされ、見下しにされながら、じっと我慢しているのを知っていたからだ。所有する三十二坪の田だけでは、一家は食いつなげぬ。春に生まれた妹雪と合わせて七人家族。その生命はすべて小作田の耕作につながっている。本を読むな、絵をかくな、相撲をとるな、百姓せいと喜三郎の喜びをことごとく取り上げんとする父を、だから彼は憎めない。(大地の母 青春の詩)
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乙 『貴方は何教かの宣伝使様のやうですが、一体全体此世の中は何うなるでせうか。吾々は不安で堪らないのです。
つい一時前迄泰然として湖中に聳えていた、あの岩山が脆くも湖底に沈没するといふような不祥な世の中ですからなア。』
梅 『今日は妖邪の気、国の上下に充ちあふれ、仁義だの、道徳だのと云う美風は地を払ひ、悪と虚偽との悪風吹き荒び、世は益々暗黒の淵に沈淪し、聖者は野に隠れ、愚者は高きに上って国政を私し、善は虐げられ悪は栄えるといふ無道の社会ですから、天地も之に感応して、色々の不思議が勃発するのでせう。今日の人間は何れも堕落の淵に沈み、卑劣心のみ頭を擡げ、有為の人材は生まれ来らず、末法常闇の世となり果ている。吾々は主の神の救世的御神業に奉仕し、天下の暗雲を払ひ、平安無事なる楽郷に救はむが為に所在艱難辛苦をなめ、天下を遍歴して、神教を伝達しているのです。茲十年以内には、世界的、又々大戦争が勃発するでせう。今日ウラル教とバラモン教との戦争が始まらむとして居りますが、斯んなことはホンの児戯に等しきもので、世界の将来は、実に戦慄すべき大過が横たはっております。吾々は愛善の徳と信真の光に満ち玉ふ大神様の御神諭を拝し、普く天下の万民を救はむが為に、草のしとね、星の夜具、木の根を枕として、天下公共の為に塵身を捧げているのです。』
甲 『今の人間は神仏の洪大無辺なる御威徳を無視し、暴力と圧政とを以って唯一の武器とする大黒主の前に拝跪渇仰し、世の中に尊き者はハルナの都の大黒主より外にないものだと誤解しているのだから。』
(第67巻 浮島の怪猫)
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「見てみい。うちの田がよう見えるぞ。あの森の西の田は、そっくりわしんとこの田や」と、直次郎が誇らかに言う。
「ほんまや、ようけあるのう」と相槌うつのは、その弟三郎。
「俺んとこかてようけあるで。あの山の裾から松の木のねき(そば)まで、ぜーんぶ俺んとこの田やさけ……」と、弥三郎が力を入れる。
「喜三やんとこの田みえるけ」と、三郎が言った。 半反に足らぬ上田家の田が、山の上から見えるべくもない。小作人の子は、聞こえぬ振りで横を向く。あの山は誰の物、この薮は誰それの物と熱中している友から離れて、喜三郎は深く息を吸いこんだ。
――こんな狭い土地の山や田をこまごまと区切って勝手に縄張りを主張し、はみ出た弱い者たちのことは考えぬ。小作たちが地主にしいたげられ、貧しい者が富める者にへいこらせねば生きて行けん。こんな世の中を改めねばならん。けどその方法は?……。 喜三郎はその思いにとらわれて、時を忘れる。
「喜三やん、なに呆けとるのや。はよ行こけい」
友らの呼び声に、喜三郎は夢をさまされた。子供の身には、あまりに途方もない夢を。(大地の母 青春の詩 了)
capelaurig
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甲 『何か御教示について、極簡単明瞭に、神と人との関係を解らして頂く事は出来ますまいか。』
梅 『吾宣伝使の君から教はった一つの格言がございますから、之を貴方にお聞かせ致しませう。
神力と人力
一、 宇宙の本源は活動力にして即ち神なり。
一、万物は活動力の発現にして神の断片なり。
一、人は活動力の主体、天地経綸の司宰者なり。活動力は洪大無辺にして宗教、政治、哲学、倫理、教育、科学、法律等の源泉なり。
一、人は神の子神の生宮なり。而して又神と成り得るものなり。
一、人は神にしあれば神に習ひて能く活動し、自己を信じ、他人を信じ、依頼心を起す可らず。
一、世界人類の平和と幸福の為に苦難を意とせず、真理の為に活躍し実行するものは神なり。
一、神は万物普遍の活霊にして、人は神業経綸の主体なり。霊体一致して茲に無限無極の権威を発揮し、万世の基本を樹立す。』
甲 『イヤ有難う。御教示を聞いて地獄から極楽浄土へ転住したような法悦に咽びました。既成宗教は已に命脈を失ひ、只其残骸を止むるのみ。吾々人民は信仰に飢え渇き、精神の道に放浪し、一日として、此世を安心に送る事が出来なかったのです。旧道徳は既に世にすたれて、新道徳も起らず、又偉大なる新宗教も勃起せないと云って、日夜悔んで居りました。計らずも波切丸の船中に於て、起死回生の御神教を聞かして頂くとは。此結構な御神徳を独占せず、力のあらむ限り、万民に神徳を宣伝さして頂く考へでございます。』
梅 『実に結構なる貴方の御心掛、之も大慈大悲の大神様の御引合せでございませう。
(第67巻 浮島の怪猫 了)
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後年の園遊会に加茂さくらは2度程呼ばれています。現在も独身でたいしたものです? 秋篠宮は学生時代、不良で紀子さんを2度まで流産させます。怒った紀子の父親(学習院教授)が宮内庁に怒鳴り込んだ。そして結婚させられました。今回の眞子さんの駆け落ちまがいの結婚は本人の意思です。皇室はうんざりなのでしょう。
ちなみに、愛子は今の上皇が実父になります。浩宮は大正天皇と同じく種無しです。今の医学は進歩し、金さえあれば何でも出来ます。何故男の子が出来なかったかは、担当の医師がわざと女の子にしたようです。雅子はそれ以降、何度も宮内庁から男の子を生むよう催促を受け、適応障害になりました。雅子は正常だったのです。
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当時の絶対天皇制の時代、大正天皇が脳を患い、天皇の名で権力を振るう為政者を痛烈に批判、天皇制の崩壊を預言している。大正12年関東大震災、安田善次郎等の右翼テロ、社会不安が高まり、<天地の怒りに触れて、世の中は一旦破壊さるるのは当然>と現代の環境破壊や地球温暖化にも通じる大警告である。
浮島の怪猫の主役は夫婦の虎猫である。天皇家を信仰の対象として礼拝する気風は第2次世界大戦終了まで一般国民にはあった。<あのスックと雲を抜き、金剛不壊の容姿、万古不動の岩山も根がないと見えて浮島らしく>などの表現は皇室で、<その中心が東に移ってしまった>とは京都から東京へ遷都である。<あの岩に限って、東へ移るとは天地の道理に反している>
<なにほど高い山でも役に立たぬガラクタ岩で固められ、肝心の樹木がなくては、山たる資格はありますまい>姑息な群臣が周りに居ても、天皇たる本人に人徳が備わっていなくては、天皇たる資格はありますまい。
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仁孝天皇(1800~1846)の猶子であり、皇統を継続させる世襲親王家の制度として孝明天皇(1831~1867)より4歳年下で、大正天皇が生まれる(1879)まで皇位継承権第一位にあった。
1867年孝明天皇、睦仁親王(明治天皇)が相次いで、岩倉具視・伊藤博文に暗殺され、大室寅之祐(1850~1912)が明治天皇にすり替わる。
丹波は京の女官供給源であった。熾仁親王の母・佐伯祐子は京都亀岡佐伯の出身である。亀岡穴太出身の出口王仁三郎(1870~1948)母上田よねは和宮にも会っていたという。よねの叔父が営む伏見の船宿で二人は結ばれる。男の子なら殺されると出生は極秘にされ、よねはご落胤を隠す為、養子を迎える。第2次大本事件2審公判でご落胤問題が遡上に上がる。王仁三郎が熾仁親王の遺児だというのは不敬罪になると、国家権力はすごんだが、あまり深く追求できなかった。元はと言えば、西園寺公望・昭和天皇(公望の養子西園寺八郎が実父)の画策で皇位継承権のあった王仁三郎を追い落とす弾圧だった。
王仁三郎には男の子はいない。事実上皇統は絶えた。天皇制の継続は税金の無駄使いでしかない。
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