最高裁判所の国民審査は不思議な制度です。ウィキペディアには次のような記述があります。
衆議院総選挙の際に、国民審査に関心がない、あるいは判断ができないといった理由で審査を棄権したい場合には、投票用紙を受け取らないか、受け取った場合でも用紙を返却することが可能であり、投票所にはその旨を記した注意書きが掲示されている。国民審査における棄権の自由は1955年の第3回国民審査から認められた(1949年の第1回及び1952年の第2回の国民審査では棄権は認められていないものの、実際に投票所で国民審査の投票用紙を受け取らなかった投票者を棄権として数えられている)。ただ、用紙返却などによる棄権が可能だということを知らない有権者がほとんどで、投票所職員もただ機械的に紙を渡す(棄権の説明などは一切しない)ので、そのまま投票箱に入れるため、何も書かない用紙は信任とみなされてしまう。それが、1人も罷免されたことがない原因となっている。
私は現状ではこの制度は無意味と考えるので、いつも全員に×をつけています。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
衆議院総選挙の際に、国民審査に関心がない、あるいは判断ができないといった理由で審査を棄権したい場合には、投票用紙を受け取らないか、受け取った場合でも用紙を返却することが可能であり、投票所にはその旨を記した注意書きが掲示されている。国民審査における棄権の自由は1955年の第3回国民審査から認められた(1949年の第1回及び1952年の第2回の国民審査では棄権は認められていないものの、実際に投票所で国民審査の投票用紙を受け取らなかった投票者を棄権として数えられている)。ただ、用紙返却などによる棄権が可能だということを知らない有権者がほとんどで、投票所職員もただ機械的に紙を渡す(棄権の説明などは一切しない)ので、そのまま投票箱に入れるため、何も書かない用紙は信任とみなされてしまう。それが、1人も罷免されたことがない原因となっている。
私は現状ではこの制度は無意味と考えるので、いつも全員に×をつけています。
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コメント
コメント一覧 (19)
山口県民は腐っているとしか言いようがありませんね。北村家と岸家とは親戚付き合いの仲なんです。
伊藤博文、大室寅之祐、岸信介など朝鮮系の部落民でしょう。明治維新そして終戦時のどさくさに彼等は平然と日本をコントロールし、悪しき天皇制まで利用しました。皇統の不自然さをメディアは報じませんが、そういう上滑りな風潮を彼等、部落民は築き上げました。悪霊なんでしょう。日本人の宗教性の無さが原因と思われます。崖っぷちに立たされている事を自覚しましょうね。
capelaurig
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わが古事記には、宇宙開闢の第一の神様として、天御中主神の御名を出してあるが、其広大無辺の神徳、その全智全能の神性をば、ごうも録して無いから、誰一人として此神の明瞭なる観念を有たなかった。尤も此神の神徳は余りに大きく、到底筆舌を以て言い尽し得ぬものであるから、神典にも、単に御名を称えたに止めたのであろう。わざと書かぬのでなく、書き得なかったのである。
天御中主神の神徳は、空間的に観れば広大無辺である。時間的に観れば永劫不滅である。其神性は不変不易であると共に、其神業は千変万化して窮極がない。其まします所は、極めて近くして、又極めて遠く、とても人心小智の窺知すべき限りでない。天御中主神は、第一着手として、理想世界を造営せらるるが為に、第二位の神となって顕現された。これが霊系の祖神高皇産霊神(たかみむすびのかみ)である。この理想世界は即ち神霊界で、無論凡眼の観る能わざる所、凡智の察する能わざる所である。ただ霊眼、霊智を以て此にのぞめば、天分に応じて程度の大小高下はあるが、其一端を窺知せしめられる。次に天御中主神は、第三位の神となって顕現し、物質世界を造営された。これが体系の祖神神皇産霊神(かみむすびのかみ)である。創世記には、神を称するに単にエホバとのみ言わず、エロヒムの語を用いて居る。エロヒムは即ち神々という事で、根源は一神だが、幾種にも顕現するから、この複数の語が必要なのである。
(1917年 信仰の堕落より)
capelaurig
が
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往時の偏狭固陋な国学者などは、此日本ばかりが神国のように考えて居た。これはイスラエル民族どもが、自分ばかりが神の選民であると思惟し、エホバの神はイスラエルばかりを守護するように考えたのと同じような僻見と言はねばならぬ。そういう片贔負をする神様ならば、須らく世界の戸籍から除名して仕舞うべきである。古事記には『神皇産霊神(かみむすびのかみ)が少彦名命(すくなひこのみこと)を遣わして、常世の国を経営せしめた』と記載されて居るではないか。常世国は外国である。神の眼からは、日本もない、外国もない。只各国をして、其天賦の職責性能を発揮せしめんとせらるるのみである。此の世界経営の神業は今日とても依然として継続されて居る。天御中主神の神徳を知ろうと思えば、日本神代史の研究は勿論、ギリシャ、ローマの神話も、キリスト教、回教、バラモン教、道教、儒教も、西洋の諸学術も、悉く調べて見て、造化の宝蔵を敲いて見ねばならぬ。一人や十人では出来ない。一宗派、一専門の士では不足だ。霊智霊能あるもの、誠心誠意あるものの全部が、総懸りで取懸らねばならぬ問題である。それ丈努力討究しても、尚お僅に神の大業の百千万億分の一を想見する事しか出来ぬのである。(1917年 信仰の堕落より)
capelaurig
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記者会見は何かICUの学芸会のようでしたが、主導したのは眞子さんですねえ。複雑性PTSDとは思えないハキハキとした姿は、雅子妃の適応障害とか帯状疱疹と違って、政治家並みの仮病ですねえ。
ニューヨークでの生活が楽しみですが、離婚しないかなー-。心配ですねえ。
capelaurig
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神の真理を説く教えであり、普遍性を持って愛の救い、みろくの顕現として具体化される。みろくの上生と下生とを合わせ鏡のように、地上天国化の手本を示す。信徒が現世の業にご奉仕し、平和を愛し発展を誓い、とどめの神のご経綸こそ大本の信仰にある。末法の世を縮めて、大本の教えにより、弥勒の世が来る。第1次弾圧事件中(1925年)、霊界物語第67巻でも国家神道を戒め、 すでに8月15日は予言されており、第61巻には 「剣も太刀も大砲も 軍の艦ももののふも 用なき御代にかえしまし 平和と栄光と喜びを
この世に来たす瑞み霊 ミロクの神の大前に 心きよめて願ぎまつる」
既成宗教は観念的な心の問題ばかりで、慰め趣味でしかない。出口聖師は明治維新の王政復古が間違いで、神政復古すべきだと断言しています。つまり天照大神(民族信仰)による現人神でなく、根源神(創造神)による12の国魂守護にある。 聖師(出口王仁三郎)は日本人が主神信仰に目覚める為、誤った国家主義弾圧を承知の上、1934年、昭和神聖(声)会により警告した。
capelaurig
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とのご指摘を受けました。
天皇信仰を止めてから、今度は象徴ならぬ政治的存在として君臨するんですかねえ。
マッカーサーが天皇資産を没収し、かろうじて税金による自転車操業で足かせになり、国民は満足してるんですかね。
当方は以前よりDNA鑑定を主張しておりますので。
capelaurig
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徳川/島津が使用した日の丸国旗、平安時代の流行歌だった君が代で、だまされた日本兵は戦った。
昭和天皇が「日本人は馬鹿である」という主旨の命乞いで、戦犯にせずに共産主義の楯にでも使う決断をして、後の再度の原爆使用を進言し退役したマッカ-サ-は、責任能力を問えなかったからである。
岩倉具視が孝明天皇を暗殺した明治維新後、制限付きの近代国家、翼賛政治/天皇制度には、人民の権利などはなかった。臣民の義務として納税、教育、徴兵で天皇の為に死ぬ事だった。
独ソ戦争、ヒットラ-/スタ-リンによるユダヤ人/メンシェビキの犠牲者
2千万人に匹敵する 、日中/日米戦争そして戦中/戦後の不衛生で胃がんなどによる犠牲者1千万人は、ひとえに優柔不断の昭和天皇の責任である。
capelaurig
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ギリシャの信仰なども、随分堕落して居た。ギリシャの神々は、森の中、山の上、谷や野原で、よく血を流して闘ったり、鎬を削って争ったりした様だが、敵を殺したり、欺いたりするという事は、神の尊厳を汚すもの、戦いに敗北して、敵に降参するに至っては言語道断である。神話と軍談を取違えて「ギリシャの神話は詩趣が饒多である」など誠に寝言である。
日本も余り大きな顔は出来ない。地方に行って見ると、よく稲荷の祠があり、狐が祭ってある。稲荷は「ミケツカミ」であり、三狐神だから此処に祭るでは、信仰の堕落の極点で、折角の宗教は道徳性を失い、却って不道徳の道具となる。赤飯をたいて、油揚をあげて、余計な鳥居をいくつも建てて、御利益の強要をする。相場師、投機商、山気のある商人は、よく羽田の穴守稲荷へ出掛ける。芸者、芸人の信心はすさまじいものだ。狐の魔術的保護により、客をたらかし、相手を騙すためだと云う。(1917年 信仰の堕落より)
capelaurig
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天御中主神はエホバであるが、その神徳は隠れて見えない。樹木ならば、地中に隠れた根の如きものである。この根はやがて地上に顕現し、第二位、第三位の神となる。第二位の神は即ち幹であり枝であるから、高皇産霊神の事を「高木の神」と云う。第三位の神は花であり実であるから、神皇産霊神の事を「ムスブ」と云う。第二位の神は理想を結んで之を天照大神に委ね、第三位の神は物質を結んで、之を豊受大神に託したのである。(1917年 信仰の堕落より)
capelaurig
が
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この日米関係を象徴したかのような表現が、第五十二巻(第一七章飴屋 大正一二・二・九)に出てくる。
「そんな日の丸のやうな赤い顔をして睨んだ所が、この亜米(あめ)利(り)加(か)屋さまはビクとも致しませぬわいな、ヤンキイモンキイ云わずに、黙言(だま)つて引込んで居なさい」
アメリカに威圧される日本。米軍犯罪者に寛容な日米地位協定がある不平等な同盟関係。大正期、すでに今日(こんにち)の日米関係が見越してある。
〇
この亜米利加屋は中有界で子供相手に飴を売っている。金、金、金と何度も言う。
「飴が欲しけりや幾何(いくら)でもやろう 併(しか)しお金と引きかへじゃ 地獄の沙汰も金次第 お金が無ければ甘(うま)い汁 どうしてもかうしても吸はりやせぬ…何(なに)程(ほど)あめ(``)の下ぢやとて 金が無ければ他人ぢやぞ 金が敵(かたき)の世の中だ…ミロク三会(さんえ)の明けの鐘 金の無い奴ア近寄るな」
これがアメリカの本質だろうか、今の日本も変わりはない。しかも「みろく三会」つまり、みろくの世も金次第とはあまりである。
capelaurig
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明治天皇は、伊藤博文が血のつながりのない大室寅之祐という男を山口から連れてきて明治天皇に据えたという説があります。おかしいと思うのは、退位されるにしろ、新天皇即位にしろ、その儀式は、やはり「神事」そのものです。「人間天皇」を宣言されたはずですが、こういう儀式をしないといけないのはどういう理由なのでしょうか。それでいて平成天皇自身が「憲法に規定された象徴」とはどういう存在であるかを日々考え続けてきたと「告白」されているのですが、このような「神事」については、天皇自身は本当はどのようにお考えなのか、本来はそこまで踏み込んで語っていただきたいと思っています。
平成天皇の大嘗祭の折にはその「神事」の実態=実際どういう儀式を執り行っているのかについて誰も観た人はいないので、本当にそうであるのかどうかという前提で「朝日新聞」が連載しました。私はそれを読みましたが、俗にいえば、「人間が神様になるための儀式」だそうです。つまり、巫女と床入りする儀式だそうです。勿論、実際にそういうことをするのではなさそうですが、天皇の装束は床入りのための装束であり、沓を履かずに素足であると書かれていました。京都御所を参観し、教授からいろいろな説明を聞いています。天皇の寝室には櫛形の窓が着いており、隣室では僧侶が「天皇に悪霊がつかないように」と夜通し念仏を唱えているというような説明でした。いやはや、こういう夜伽をしなければならなかった僧侶やされる天皇もたいへんだなあと思ったものでした。
capelaurig
が
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