最近、私は59歳になりました。私が生まれてから地球は59回公転したことになります。
私は壬寅の年の生まれで、来年は還暦を迎えます。孫がいても不思議ではない年齢ですが、何故かずっと独身です。家族がいて子育てに忙殺されていたら、年老いた両親に関わることは出来なかったかもしれません。
自分の老後を考えると(もうかなり老いていますが)不安ですが、あまり考えないようにしています。昔は一応、日本で名の通った大学にいたことを考えると不思議がる人もいますが、一方で母親から「セイハク」呼ばわりされるほど愚かだったことを思えば、よく生きてきたとも言えそうです。
今後も必死に生きてゆくと思うので応援よろしくお願いします。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
私は壬寅の年の生まれで、来年は還暦を迎えます。孫がいても不思議ではない年齢ですが、何故かずっと独身です。家族がいて子育てに忙殺されていたら、年老いた両親に関わることは出来なかったかもしれません。
自分の老後を考えると(もうかなり老いていますが)不安ですが、あまり考えないようにしています。昔は一応、日本で名の通った大学にいたことを考えると不思議がる人もいますが、一方で母親から「セイハク」呼ばわりされるほど愚かだったことを思えば、よく生きてきたとも言えそうです。
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コメント一覧 (16)
知ることが 改憲阻止の 第一歩(柚っ子)
旅をする 若者 世の真実を知る(ふ64)
他人事 知ったからには 自分事(ふ64)
寄らしめて 知らしむなし 民主主義 (原子力ガリレオ)
知るという 何を知るやら 人間は(落葉)
「知る」の特選
知ってるか 聞くだけ聞くが 岸田流(柚っ子)
まやかしを 推して知るべし 汚染水(海の民)
「準備」の秀句
備えるより やめよう戦争 原発を (ふ64)
戦争の 準備整う 総選挙 (孫じい)
最高裁 バカの証明 準備する (原子力ガリレオ)
事故ならば 仕事が来るぞ 準備しろ (原子力ガリレオ)
人間は 準備万端 何事も (落葉)
capelaurig
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王仁三郎聖師が有栖川宮熾仁の落胤であったという真実性をさらに確認するために、聖師の「中村孝道は有栖川宮家の侍医だった」という言葉に注目しています。聖師の曾祖父が有栖川宮熾仁親王の侍医であれば、聖師の母、上田世祢と熾仁親王の密会というのは、自然だからです。まして熾仁親王の母可那は亀岡市佐伯の出身でしたから、曽我部町宮垣内はほぼ同郷隣町であり、熾仁親王はよく母の里に馬で出入りしていたと思う。
●中村孝道の弟子、鎌田昌言《かまたまさこと》は有栖川宮家の侍医だった!
さて鎌田昌言という人がいる。中村和裕《かずひろ》「幻の言霊学者 中村孝道と言霊七十五声派」『古神道の神秘』別冊歴史読本特別増刊の記載を一部援用します。ひらがな部分の原文はカタカナです。
中村和裕氏は、孝道から王仁三郎までの近世言霊学の系譜を正しく再建するには、嘉永元年に成立した、前記、鎌田昌言の『言霊由来』が必要であると述べています。鎌田昌言は『言霊由来』の中で、舎主中村主計《かずえ》(孝道)先生は、もと建仁寺町通四条所下る所の両替屋なりしか、遊蕩《ゆうとう》にて二十四歳の時、身上没却。せんかたなしに按摩《あんま》をもって糊口《ここう》せられぬ。それにより宇氏(宇津木昆台・古医法の大成者)の傷寒論の講釈を聴かれたり。いつくのことにか、内所を迎えられしに、この内所も按摩をする人にて、夫婦ともに按摩をもって業とし、室町通り三条上る所東側に、中村主計としておられたり。王仁三郎の曽祖父が中村孝道,生年の差は83歳。このことを考えると後述の中村孝道の生年が一七八七年という推測は妥当かなと思います。有栖川家、中村家,上田家というのは密接な糸でつながっていたのでょうね。
capelaurig
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中村孝道は、文政三年(一八二〇)には、まとまった最初の著作『言霊秘伝』を著しました。一八一八年頃、京都から旅に出ています。孝道は言霊の秘奥を知るためとして国生み神話の残滓《ざんし》を探索しつつ、淡路島や中国路を旅したようです。出雲へ下り、千家国造家の俊信《としざね》(鈴門)や北島主膳と会見したのもこの折りのこと。
『言霊由来』によると、出雲からの帰途、孝道は竜野に「言霊塚」を建立しています。瓦一枚に「三声の言霊」を書いたものを七十五枚埋めたとあります。この地には、圓尾屋の後援を得て、言霊学の社中が他に先駆けて形成されました。
帰京後、私塾・産霊舎《むすびのや》を旗揚げしたのは、文政六年(一八二三)ころの両替町二条下る東側です。按摩を生業《なりわい》としていた時代に「傷寒論」を受講していた関係で面識のあった宇津木昆台の経済的後援を得て、「産霊舎」の扁額《へんがく》を認めたのは、望月幸智《こうち》でした。
産霊舎には、中村忠次(掃部《かもん》)をはじめ、望月の長男・直方《なおかた》、次男登、医師鎌田昌長・昌言父子など門人二百人ほどを数え、教勢は北陸・姫路・大坂・江戸等へ拡大し、入門誓詞《せいし》や規則、門人張『産霊舎姓名録《むすびのやしょうみょうろく》』の整備なども行われ、文政年間には一世を風靡《ふうび》するに至ります。
これを裏付けるように、上洛しての修学案内書ともいうべき『平安人物誌』文政五年七月版と文政十三年十月版には、「言霊を伝ふ」として孝道の名前が記されています。
しかし昆台との言霊学伝授を巡る、あつれきや妻との離別などもあって、孝道は新天地を江戸に求めて天保二年(一八三一)九月に下行、四谷鮫ヶ橋に産霊舎を設けています。文政年間には小石川に産霊舎があった。
capelaurig
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鎌田昌言の『言霊由来』の冒頭に「舎主中村主計先生は」とあるように、鎌田氏は出口聖師の祖母宇能の父、中村孝道の弟子でした。江戸時代は、公家は公家諸法度などの規則にしばられ、幕府は隠密をはりめぐらしていました。また朝廷は貧しく喘《あえ》いでいました。力士の旭形亀太郎が公家や武士の家に自由に出入りしていたように、両替商から按摩師に落ちぶれた中村孝道といえども、宮家に仕える余地はあったのです。しかも当時は一世を風靡する学者で、どこにも出入りできた。世間の情勢に明るい知恵者の孝道は、有栖川宮家でも重宝されたはずです。侍医だけでなく、隠密のような役割もあったのかもしません。
鎌田昌言は、その文脈から見て、中村孝道にあまり好意的でなかったような印象を受けました。ただ私が注目したのは彼の経歴です。鎌田昌言は中村和裕氏の説明では、有栖川宮の侍医を勤めた人物で『平安人物誌』によると「書を能くした」とあります。
鎌田昌言(~安政六年)医家。名は廉吉、号は苟完、京都の人、三条東洞院角に住し有栖川宮の待医を、つとめ、業余書を能くした。安政六年七月十九日没、年六十二。出雲路橋西詰明光寺墓地に葬る。法号不退院浄光(文政十三書(漢)天保九 医家再出書(漢)嘉永五医家)
言霊学の系譜に属した、医者、鎌田昌言が有栖川宮家の侍医であるということは、当時は、師匠から弟子へ職業などが伝えられた時代だったから、中村孝道が、一時的かもしれませんが有栖川宮家の侍医をしていた可能性が非常に高くなったと思います。
capelaurig
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仮に侍医ではなかったとしても、有栖川宮家の侍医、鎌田昌言は師匠を宮家に紹介したでしょうから、中村孝道と有栖川宮家に接点があったことは確実で、その縁で、「それで母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになった」のでしょう。
中村孝道はどこの生まれでしょうか。情報は混乱しているようですが、王仁三郎はその著『大本言霊学火の巻』に明記している。
大日本(だいにほん)言霊学(ことたまがく)を初(はじ)めて唱導(しょうどう)したる中村(なかむら)孝道(こうどう)氏(し)は、丹波(たんば)八木村(やぎむら)の産(うま)れなり。
2006年に八木町は王仁三郎の青春の故郷、園部町などと合併して南丹市となるが 、南丹市は亀岡市と隣接している。亀岡の隣の市なので穴太宮垣内から決して遠くはない。
王仁三郎や可那の生誕地、中村孝道の生誕地、亀岡と隣接している京都市の有栖川宮家も決して行き来が不可能な距離ではない。
●七ヶ月児と思われた聖師
上田世祢の祖父、中村孝道の縁で上田世祢が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったことがわかりました。
聖師の弟、豊受大神を祭る京丹後市峰山の比沼麻奈為《ひぬまない》神社の神主を三十年ほどつとめていた上田幸吉氏の証言によれば、「母から聞いた話やと、お婆さん(うの)の弟が伏見に舟宿しとって、芸者を嫁にしていた。だから自由になる姪を貸して欲しくて、伏見に呼んだのや。母は末っ子やからどこに嫁にいってもよかった。養女にもらうつもりやったのや。ところが宮さんのお手がついて、つわりになってどうにもならんから、しぶしぶ帰ってきて、婿(明治三年一月十六日入籍)もろた。
capelaurig
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老婆の書いた「調査団宛の手紙」の冒頭を再読してみます。書いた老婆の指摘する明治初年の年代は、明治二年の一月一八日から二月三日、行程を考えると、一月二十日頃に暗殺されたはず。母禮子の文です、
明治政府にとり、和宮は生かしておくには危険すぎる女性だった。つねに天皇と皇女和宮は同じ場所にいてはいけない。天皇が江戸にいるときは、和宮は原則、京都にいなければならない。だから天皇は、好きな京都へ行くことはできない。……でも和宮を暗殺できれば、それが一番憂いがない。
二月を一六日 すでに朝議は東京奠都に決していたが、天皇の再度東幸について、有栖川宮熾仁親王に天皇はお留守取締りを命じられます。岩倉具視らによる和宮暗殺の情報は、遅滞なく熾仁親王の知るところとなったでしょう。そして二月二一日、『日記』に初めて「調馬之事」の記述があらわれ、熾仁親王は世祢と会うことになります。おそらく場所は伏見の船宿でしょう。
三月三日 来る四月十日までに(明治天皇に)寒月下向のことを沙汰される。
三月六日 参内し、東京下向を辞退する。
三月七日 天皇東幸を奏送する。
熾仁親王は天皇の命令を拒否したのです。
有栖川宮熾仁親王が東京行きを拒否したのは、明治天皇が大室寅之祐と知って、その偽の天皇にしたがうのが嫌さに拒否したのだと思いました。しかしよく考えると、熾仁親王は、孝明天皇暗殺にはまったく関与していないものの、明治維新総裁を引き受けた時点で、すべてのことは呑み込んでいたはずです。ここで東京行きを拒否するのは、男児としてあまりにも情けないと思います。
capelaurig
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七月二一日 父幟仁親王と連署し、宮名返上の上表を提出。ありえないことと思います。和宮の死が重ならなければ。
しかし東京行きを拒否する理由がもうひとつありました。上田世祢との逢瀬をしていたのだと思います熾仁親王は、家茂なきあと、和宮との婚姻を真剣に望んでいた。和宮なきあと結婚を望んだのは、出口王仁三郎の母、上田世祢とだった。
capelaurig
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石原慎太郎は若い日に『太陽の季節』で芥川賞を受賞した作家であり、後に都知事を務めた政治家である。戦後の代表的な作家であり、政治家であるとは思うが、政治的にも文学的にも記憶に残るようなものはないようにも思う。どこか中途半端な存在なのである。彼が政治的な宿敵であった田中角栄の事を書いた時はよくわかった。『天才』は田中角栄のことを書いたものだが、これは彼が田中角栄に及ばぬ存在として自己告白をしたものであり、自己の政治家としてのいたらさなさを書いたものとも言えた。
それならばこの『あるヤクザの生涯 安藤昇伝』は彼の何を告白したものだったのか。安藤昇は戦後の特異なヤクザというか、アウトローとでもいうべき存在だった。彼は、戦中は不良少年でありながら、特攻隊員になり、敗戦で生き延びるや愚連隊の代表的な存在になった。その彼は横井英樹襲撃事件での服役を経たのちは組(安藤組)を解散し、映画俳優になった。石原はその評伝とでもいうべきことの中に何を書きたかったのだろうか。彼はアウトローとしての安藤の中に、文学において表現したかったもの、あるいは書ききれなかったものをみているのか。最晩年とでもいうべき状態にある石原が熱い思いをほとばしらせながら、この作品を書いたことが気になる。
capelaurig
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