南北朝の対立は後深草、亀山両天皇の対立から始まりました。どこの家でも兄弟は難しいもので、皇室もその例外ではありません。
日本書紀を読むと、神武天皇は大和を平定するとき、敵の兄弟対立を利用した例が多く出てきます。エウカシとオトウカシ、エシキとオトシキなどで、いずれも弟を味方にして兄を滅ぼしました。景行天皇の九州平定でもそうです。
兄弟に限らず、戦争において敵の内部対立を利用することは定石であり、人間の醜い面が現れています。南北朝の争乱は足利義満が後亀山天皇を騙すことで一応の決着がつきましたが、その後も現代に至るまで長く尾を引くことになります。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
日本書紀を読むと、神武天皇は大和を平定するとき、敵の兄弟対立を利用した例が多く出てきます。エウカシとオトウカシ、エシキとオトシキなどで、いずれも弟を味方にして兄を滅ぼしました。景行天皇の九州平定でもそうです。
兄弟に限らず、戦争において敵の内部対立を利用することは定石であり、人間の醜い面が現れています。南北朝の争乱は足利義満が後亀山天皇を騙すことで一応の決着がつきましたが、その後も現代に至るまで長く尾を引くことになります。
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コメント一覧 (12)
後醍醐天皇(南朝)は鎌倉幕府を倒しますが、天皇親政(建武の中興)がままならず、足利尊氏に追放され、1339年失意の内に崩御し、その怨念と悔根は、後の世に 南北朝の争いを残します。天皇親政の革命は建武の中興と明治維新だけで、明治天皇による南朝正統の勅裁はご自身の崩御前年に出されます。
1861年岩倉具視は和宮を将軍家茂へ降嫁させたが、幕府へ売ったと裏目に出て1862年孝明天皇(北朝)から蟄居を命じられ、保身の為、倒幕派に身を置き、孝明天皇の排除を画策した。岩倉には動機があった。 宮中には岩倉の命を受けて忠実に動く女官(堀川紀子、中御門良子)がいた。当時の人々が薩長と手を結んだ岩倉による暗殺とみたのは当然である。
孝明天皇と将軍家茂による平和の改革を破り、戊辰戦争を起こしたのは、岩倉/桂/西郷/大久保の仕業である。倒幕派の政治的野心が岩倉を中心にまとまり、頑強な攘夷論者の孝明天皇と会津/弱体化する幕府との間で天皇の奪い合いが生じた。戊辰戦争の錦の御旗はそれを象徴している。
明治維新前の人々は国家観/天皇観より藩の殿様が全てであった。天皇家は当時3万石の小大名にすぎず、暗殺やら偽の世継ぎは、充分考えられる状況にありました。
孝明天皇は毒または手槍りで刺された説であり、長州ファイブで英国で化学を学んだ伊藤博文が止めを刺した暗殺者として有力である。伊藤博文は上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させる。薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。
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預言的中 火の雨が降るぞよ 新しき神道を説く出口王仁三郎翁 鳥取発:
去る10年12月8日大本教弾圧の際、検挙されてから本年9月8日解放されるまで10箇年間、沈黙していた大本教祖出口王仁三郎氏は75歳の衰へもみせず、獄中生活で罹った軽い神経痛の保養の為、いま鳥取市街吉岡温泉で静養している。敗戦日本の冷厳な姿がどう映じたか、神道の変革や信教の自由は、獄中生活の思い出をまじえて語る同教祖の弁:
自分は支那事変前から第2次世界大戦の終るまで囚われの身となり、綾部の本部をはじめ全国4千にのぼった教会を全部叩き壊されてしまった。しかし信徒は教義を信じつづけて来たので、すでに大本教は再建せずして再建されている。ただこれまでのような大きな教会はどこにもたてない考えだ。治安維持法違反は無罪となったが、執行猶予となった不敬罪は実につまらぬことで、
御光は昔も今も変らぬが、大内山にかかる黒雲
という浜口内閣時代の暴政をうたったものを持出し、これはお前が天皇になるつもりで信者を煽動した不敬の歌だと言い出し、黒雲とは浜口内閣のことだと言ったが、どうしても通らなかった。自分はただ全宇宙の統一和平を願うばかりだ。日本の今日あることはすでに幾回も預言したが弾圧を受けた。火の雨が降るぞよ、火の雨が降るぞよのお告げも実際となって負けた。これからは神道の考え方が変ってくるだろう、国教としての神道がやかましく言われているが、これは今までの解釈が間違っていたもので、民主主義でも神に変りがあるわけはない。ただほんとうの存在を忘れ、自分の都合のよい神社を偶像化してこれを国民に無理に崇拝させたことが、日本を誤らせた、殊に日本の官国弊社の祭神が神様でなく、唯の人間を祀っていることが間違いの根本だった。しかし大和民族は絶対に亡びるものでない。
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牛頭天王は本地垂迹説で素戔嗚尊とされ、古事記では乱暴を働き追放された流離い神であるが、大本では贖罪神として、救いの神業をされるミロクの大神、撞の大神と称えられ、王仁三郎のご神業と重ね合わされる。
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