日の神・天照大神が皇室の祖神とされ、神話で華々しい活躍をするのに対して、月の神・月夜見尊(月読命)はほとんど事績が伝わっていません。唯一その事績が伝わるのが『日本書紀』一書で食物の神・保食神(うけもちのかみ)を殺す神話です。月夜見尊は口から様々な食物を出してもてなした保食神を「口から吐いたものを俺に出すのか」と怒って剣で殺してしまいます。保食神の体の各部分からは稲を含む様々な穀物や蚕・牛馬が生まれ、これが五穀などの起源になったということです。
これによく似た話が『古事記』にあり、須佐之男命が大宜都比売を殺す話になっています。月夜見尊と須佐之男命は同一神だったのかもしれません。月夜見尊の乱暴に怒った天照大神は、それまでは弟と並んで天を治めていましたが、弟と離れて暮らすようになります。これは月の満ち欠けを説明した神話と思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
これによく似た話が『古事記』にあり、須佐之男命が大宜都比売を殺す話になっています。月夜見尊と須佐之男命は同一神だったのかもしれません。月夜見尊の乱暴に怒った天照大神は、それまでは弟と並んで天を治めていましたが、弟と離れて暮らすようになります。これは月の満ち欠けを説明した神話と思われます。
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コメント一覧 (16)
教碑が建立された十日後に満州事変が勃発し、世界が大きく動いて行く。
コロナ禍は「地球生態系における人類という種の、突出した繁栄に起因」との意見は、大本神諭の「世界中が物質(ぶつしつ)からの学で、茲(ここ)までに開けた世の年(ねん)の明(あ)きとなりたから、今が神徳と物質(ぶつ)の終りの替(かは)り目の、大峠となりて来た」(大正5年旧2月3日)に通じる。
立花隆氏の著書「臨死体験下」にある米国女性の体験。「すさまじい光のエネルギーがわたしを包み…光は愛に満ちて…この光が神なのだわ」「一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、それまでに見たことがないような美しい光に包みこまれ…生命そのものの光の主に、私はすべてを知りつくされ…完全に愛されている」(「臨死体験生命の響き」)
第五十二巻第九章「黄泉帰」で、文助さんの臨死体験、「愉快な気分に充たされ…美(うる)はしき所があるやうな思ひで」進み、「第三天国の広大な原野」を彷徨(さまよ)うている。
文助さんも、神に親しみ神に仕へたる赤心(まごごろ)のみ残存し只神に関する知識のみ益々明瞭になつてゐる。
◇神は直(ただち)に生前の悪と善とを調べ、悪の分子を取り去つて、可成(なるべ)く天国へ救はむとなし給ふ。
◇死後は…自愛の悪念は払拭され、其内分に属する善のみ自由に活躍することを得(う)るが故に、死後の安逸なる生涯を楽しむ事が出来る。
◇如何なる者と雖(いへど)も、あらゆる方法手段を尽して、之を天国に導き、天国の住民として霊界の為に働かしめ且(かつ)楽しき生涯を送らしめむと念じ賜ふ。(第五十二巻第九章「黄泉帰」)
「皆さん、あれを見なさい。金と銀の美しい簾(すだれ)が下っていて、その向こうで、美しい天人たちが舞を舞っていて、実に譬(たと)えようもない。あの美しい音色も聞こえるでしょう」
capelaurig
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ウラル彦は悪霊に憑依されているが、第五十巻から出てくる妖幻坊は、八岐大蛇の片腕で肉体を有する兇霊そのもので、獅子虎両性の妖怪である(第六章「玉茸」)。また、現実に、兇徒界の妖霊が、出口聖師御昇天の後、「聖地へ浸入」(錦の土産 大正癸亥旧十月十三日〕するとある。
第五十二巻の第五章「森の怪」には、この妖幻坊の眷属たちが出て来る。大蜈蚣を使って悪行を働こうとしたが、日の出神によって妨げられている。
第七章「玉返志」で、お菊が鯛の骨を喉に立てた娘のために、天津祝詞を奏上して祈願をしている。それが、「熱湯(ねっとう)の汗を流して一生懸命の祈願」である。その効(こう)は顕れないが、お菊は「モウ此上お祈りをしようものなら、息が切れる所でしたワ」と言っている。御祈願はかくも真剣に行うものとは驚きである。
お菊に代わったお千代が、娘の背中を「天の数歌を歌うてポンポンと二つ叩いた拍子に」水晶玉が飛び出す。実はこの娘は狸で、喉にあったのは鯛の骨ではなく、イクから奪った水晶玉であった。
第四十四巻にも、祝詞奏上で汗をかくという治国別の言葉がある。「天津祝詞を一回奏上しても、身体中が厳寒の日でもビシヨぬれになるのだ。併し乍ら、若い時の千遍よりも今の一遍の方が効能があるのだから、不思議だよ」(第八章「熱と光」)。そして治国別が言霊の神力を顕す。天津祝詞を奏上し、「面影も見分けかねたる暗(やみ)の森を晴らさせ玉へ天地の神」と歌うと暗(やみ)が明けて行く。出口聖師も蒙古で「天に向かって『ウー』と大喝」されると暴風雨が止んでいる。(入蒙記第二五章「風雨叱咤」)
capelaurig
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天地の太初(はじめ)に道(ことば)あり 道(ことば)は神と共にあり
道(ことば)は即ち神なるぞ 万物これにて造らるる
…道(ことば)といふは聖言ぞ 聖言即ち神真ぞ
この神真は主の神に 存し玉へば主神より
現はれ来(きた)る光なり 光は主神の神真ぞ
高天原にて一切の 力を有(たも)つは神真ぞ、第52巻第二章「哀別の歌」には、天界の天人のことが述べてある。初稚姫は、大神が太陽と現れ給う天国の天的天人で、能(よ)く神を祭り、宣伝使や信者の模範となり給うとある。また、言依別命は、大神が月と現れ給う霊国の霊的天人で、宇宙の真理を説き諭し、現幽神三界の真相を明かにし、すべての原動力とならせ給うとある。
初稚姫は、珍彦などに別れを告げ、ハルナの都をさして出発する。この時の宣伝歌には、玉国別により建てられた祠(ほこら)の森の神殿が「霊国を地上に移したもの」だと示してある。
第四章「俄狂言」には、祠の森の役員イク、サールが初稚姫の旅の同行を願い出る場面がある。しかし許されないので、先廻りして狂言の三番叟(さんばそう)を「トートータラリ、トータラリ」と舞い、顎まで吊ってお供をしたいと懇願する。そこで初稚姫は大熊に、スマートは唐獅子となって二人を恐がらせて、ふり切るようにして進んで行く。
capelaurig
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第五十二巻、第三章「楽屋内」でサールが「持身の責任」について宣伝歌を歌う。「何程下賎の身なりとも ヤッパリ神の生身魂 かからせ給ふ生宮だ 人は持身の責任を 忘れて此世にたてよまい 何程身魂が偉くとも 現実界に働くは 如何(どう)しても体が必要だ 霊肉ともに完全に 保全しまつり大神の 大神業に仕うるは 人の人たる務(つと)めなり」
大神業に仕えるために大神から与えられた霊肉を、完全に保全するのは「持身の責任」、つまり我々自らの責任ということであろう。
大本の御教えは「霊主体従」である。霊を主として働き、現世にミロクの世建設の為に生まれてきたのである。その身魂は神から預かったものである以上、霊肉ともに保全し、正しく生きて行かなければならない。
【三番叟と天祥地瑞】
三番叟は「後世の芸能に影響を与えた。歌舞伎や人形浄瑠璃などに取り入れられ、また日本各地の民族芸能や人形芝居のなかにも様々な形態で、祝言の舞として残されている」(ウィキペディア)とある。
この三番叟の謡について、第七十三巻(天祥地瑞子の巻)第四章「◎の神声」で説明されている。◎の神時代の天(あま)の世を示した「ケケデタリ、キギデタリ、タラナタリ…」の神秘が転化した語にして、天(あま)の世開設の形容を顕示したものだとある。
capelaurig
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イドムの国のアヅミ王が川で禊ぎをしていると、自分の国に侵略した隣国サール国の王エールスが、半死半生で流れて来る。国を奪われ、恨みに満ちた妻や家来たちはこれを打ち殺そうとするが、アヅミ王は同じ神の子として許すのである。自分の信仰の至らざるが故と反省するのである。
待て暫(しば)しエールス王も主の神の貴(うず)の御子なりたゞに許せよ 〔第五章「心の禊」〕
吾御魂神に離れし罪なればエールス王を怨むに及ばじ
流れて来たこのエールス王は、実は神鉾の神の化身である。アヅミ王の信仰は高い境地にあり、神の御試しに見事かなうことができたのである。
本物のエールス王は勝利におごり高ぶり、侵略から一月後に妻や配下の裏切りにより滅びる。欲深い妻たちは悲惨な最期を迎え、さらに王子も亡くなり一族は滅びる。
アヅミ王の信仰心が一気にここまで高まったのではない。国を奪われたのは、主の大神への信仰を怠ったことが原因だと気づくのがスタートである。そして、主の大神を斎く神殿を造営することとなる。
主の神の守りなければ国津神の力に国の治まるべしやは(第二章「月光山)
今日よりは月光山の頂に主の大神の宮居造らむ
遷座式での祝詞は真剣である。
上下(しょうか)共に驕りの心を戒め、火、水、土の恵を悟らしめ、大御神の大御心に叶ひ奉るべく〔第四章遷座式〕
神殿が鳴動した後、主の大神や高鉾の神、神鉾の神が降臨される。そしてアヅミ王に対して、言霊と心の汚れに対する戒めがあった。
この国は生(いく)言霊の死せる国神の助けのあらぬ国ぞや
刈菰(かりごも)と乱れはてたる此の国も汝れが心の汚れし故ぞや
肝向ふ心の鬼を退ふべき誠の力は真言(まこと)なるぞや
capelaurig
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美しきアヅミの王の魂を主の大神は諾(うべな)ひ給へり 〔第五章「心の禊」〕第81巻の後半は、アヅミ王の娘チンリウ姫が被る過酷な試練の話である。乳母の裏切りにより、あわや死なんとするところを大神に救われている。
チンリウ姫は、乳母アララギとともに隣国サールの国に捕虜となる。サール国の太子エームスはチンリウ姫に恋慕し、結婚を望む。アララギは、チンリウ姫が太子の妻となることを妬ましく思い、チンリウ姫をだまして、我が子可愛さでセンリウを太子の妃とする。
そして、そのすり替えの発覚を防ぐため、満潮になれば沈む島にチンリウ姫を流してしまう。島で姫は耳をそがれ、膝まで水に没するほどのまさに絶対絶命の憂き目に会う。そこに、大神の化身の大亀が現れて姫は救われる。
そこで、はじめてチンリウ姫は、贋チンリウ姫となったセンリウのお陰で、自分の操(みさお)を守ることができたことに気づく。センリウを憐れみ、また、アララギも憎まないこととした。チンリウ姫にとってアララギ親子は恩人であった。
外国(とつくに)の仇の王(こきし)の妻となるセンリウ姫は憐れなりけり 〔第一六章「亀神の救ひ」〕
吾霊魂(みたま)身体(からたま)共に汚さるる真際を救ひし彼なりにけり
かく思へばアララギとても憎まれじ吾操(みさを)をば守りたる彼
capelaurig
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「人間より虎の方が力が強いから逃げようと後を見せると、直ぐ跳びかかって来て噛み殺される。はむかって行ったらくわえて振られたらモウそれきりです。ジッとしていても、そのうち虎が腹が減って来ると喰殺されてしまう。どちらにしても助からないのです」
「ところが一つだけ生きる途があります。それは何かというと、喰われては駄目だ、こちらから喰わしてやらねばなりません。喰われたら後に何も残らんが、自分の方から喰わしてやれば後に愛と誇りとが残る。その愛と誇りを残すのが、宗教家としての生きる道だ」
愛と誇りを残すという言葉に裁判長が感化されたのか、治安維持法は無罪になった。一方、出口聖師は、大胆にも当局を獣の虎にたとえておられる。大本神諭の「今は獣の世、われよしの強いもの勝ちの悪魔ばかりの世」という獣である。獣に与(くみ)することはないなと裁判長を牽制されたのだろうか。多くの宗教団体が戦争に協力する中、大本は弾圧下で戦争に協力しなかった。その恩人は弾圧した当局となる。
チンリウ姫は、太子の妃になることを強く抵抗していたが、妃にならなければ自分ら親子も殺されるというセンリウの言葉に同情し、太子の妃になることを了解した。〔81巻、第一三章「思ひの掛川」〕
◇太子は実は猛獣の化け物で、床入りすれば殺されるというアララギの言葉をチンリウ姫は信じ、センリウの服を着て、床入りしなかった。
〔第一四章「鷺と烏」〕
capelaurig
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殺されると言うアララギ親子への同情。また化け物に殺されるとか、花瓶の音色で太子の歓心を得ることできるとかを聞き入れる素直さ。
チンリウ姫は深窓育ちのおぼこ娘(第一四章「鷺と烏」)であるが、こういった姫の同情心や素直さは、普通の人々が持つものと変わりはない。
第八十一巻を読み進めるなかで、膝まで水につかり絶対絶命となった中で大亀に救われるまで、チンリウ姫に特段の信仰心を見出すことはできない。大亀の背に乗り故郷イドムの国に進むうち、アララギらへの感謝や大神への信仰心が芽生えて来る。
その心情の微妙な変化を、チンリウ姫の詠む歌で知ることができる。天祥地瑞ならではの表現方法である。
この亀は神の使(つかひ)かわが生命(いのち)何怜(うまら)に委曲(つばら)に救いたるはや 〔第一六章「亀神の救ひ」〕
大いなる海亀の背にのせられて故郷(くに)に帰ると思へば嬉しも
様々の悩みに遭ひて海亀の助けの舟にのせられにける
亀よ亀サールの国に近よらずイドムの磯辺に吾を送れよ
独(まる)木(き)舟(ぶね)にまして大(おほ)けきこの亀は海の旅路も安けかるべし
海原に立ちのぼりたる靄(もや)も晴れて御空の月は輝き初めたり
天地の神も憐れみ給ひしか助けの舟を遣はし給へり
何事も神の心にまかせつゝ浪路を渡りて国に帰らむ
capelaurig
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