『古事記』神話にある大年神の系図は謎です。大年神は須佐之男命の子とされていますが、大年神の子である羽山戸神が大気都比売神を妻にしているのが奇妙です。大気都比売神は須佐之男命に殺され、五穀の起源になったと『古事記』は記しており、世代が合いません。
大気都比売神の系図が正しいとすれば、大年神は須佐之男命の子ではなく、伊邪那岐命以前の神と考えられます。
そこで神世七代(七代目が伊邪那岐命)を見直してみると、五代目に「意富斗能地神」がいます。極めて似た神名です。『日本書紀』の一書ではこの神を「大戸摩彦尊」と記しており、『古事記』の大年神の系図では娘としてカマドの女神「大戸比売神」が登場します。
伊邪那岐命と伊邪那美命の神生みでは「大戸日別神」「大戸或子神」「大戸或女神」も現れ、この検討も必要になります。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
大気都比売神の系図が正しいとすれば、大年神は須佐之男命の子ではなく、伊邪那岐命以前の神と考えられます。
そこで神世七代(七代目が伊邪那岐命)を見直してみると、五代目に「意富斗能地神」がいます。極めて似た神名です。『日本書紀』の一書ではこの神を「大戸摩彦尊」と記しており、『古事記』の大年神の系図では娘としてカマドの女神「大戸比売神」が登場します。
伊邪那岐命と伊邪那美命の神生みでは「大戸日別神」「大戸或子神」「大戸或女神」も現れ、この検討も必要になります。
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コメント一覧 (12)
capelaurig
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capelaurig
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capelaurig
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1858年 安政の大獄で恩師吉田松陰が斬殺され、伊藤俊輔(17才)が小塚原に遺体を引き取る。遺体を清める異常な体験から、テロリストへ変貌する、1863年に長州ファイブとして英国へ密航、化学を学び、処刑を命じた幕府(攘夷)そして支持した孝明天皇の暗殺(1866年)を実行したとされる。上京する西郷(南朝の家臣、菊池氏の子孫)を、長州田布施の大室家に紹介し、南朝伝承を確認させ、薩長同盟には公武合体の孝明天皇/睦仁親王を廃し、南朝の天皇を立てる約定があった。1867年7月睦人親王は猿に手を引っかかれ負傷し、膏薬に毒が仕込まれたという。一説によると、慶子の子供ではなく、慶子は毒殺に同意したという。中山忠能日記に奇兵隊の天皇として、大室寅之祐が登場する。明治天皇の勅裁には伊藤が意のままに作成できた。大正天皇には子種がなく、1899年公爵毛利元徳(もとのり)の八男が、伊藤博文の仲介により、公爵西園寺公望の養子となり西園寺八郎と名乗り、死ぬまで侍従として息子(昭和天皇)のそばにいた。伊藤博文は権力者として、明治天皇から昭和天皇までデッチ上げたことになる。
1921年、第1次大本事件は宮中某重大事件で、聖師が鶴殿親子より皇室へ、問題なしと伝え、伊藤後の権力者山縣有朋が失脚した恨みから事件を起こした。
1935年、第2次大本事件は全国組織の昭和神聖会発足により、ご落胤である聖師が表舞台に立ち、昭和天皇の皇位継承権が危うくなると判断した西園寺公望の犯行である。
capelaurig
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12月8日とは、昭和天皇側の身勝手な都合である。2度もの御前会議で大本弾圧(1935年)と太平洋戦争開戦(1941年)はゴロ合わせのように同じ日付である。よほど覚悟を決めたのだろう。
capelaurig
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昭和37年7月26日 出口栄二先生 周恩来首相と会談
昭和37年11月3日 総長制を本部長・祭司制に変更
昭和54年5月 緑寿館(教主公館)完成
昭和55年3月 いづとみづの会設立
昭和55年8月 宮垣分苑設立 (右派が本部から分離)
昭和56年10月 出口栄二を守る会結成
昭和57年(1982年)5月26日 大阪都ホテルにて教継を直美様より聖子に変更
昭和57年6月1日 4代教主出口直美様を守る会結成
昭和61年1月 京太郎が教主補補佐となる
平成2年9月 3代教主昇天、聖子が4代教主を名乗る。
平成3年4月 大本信徒連合会発足
平成13年4月 聖子昇天、出口紅が5代教主を名乗る。
平成18年12月 出口栄二先生昇天
平成24年11月 菊水荘建物明け渡し上告棄却(本部側敗訴)
聖師は大本教義が理解出来る信者は50名しか居ない、第3次は身内から起きると預言されており現実となった。お筆先にも、悪の御用は外部でなく出口の家の者にさせると書かれている。
尚、出口栄二先生は有栖川宮熾仁親王のもう一人の落胤、田中たまの娘、家口いくの子です。聖師が孫の4代教主出口直美の夫に選びました。
capelaurig
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