天照大神が天孫降臨で下したとされる「天壌無窮の神勅」では、この国を「葦原の千五百秋の瑞穂の国」と呼んでいます。「千五百秋」は単に長い時間を表しているのかもしれませんが、実数と考えることも出来ます。
その場合、神武東征までの年数とされる「179万2470余歳」との関係が問題になります。この年数はあまりに過大ですので、179と247の二つの年数を取り出して考えてみます。
綏靖から開化までの「欠史八代」の平均在位年数がほぼ60年であることを考慮すると、179は3代、247は4代に近い年数です。従って天孫降臨の年代は紀元前667年から数えて179年遡った紀元前845年と考えられます。(あくまで日本書紀の中の話です)247年遡った紀元前913年は幻に終わった天子降臨の年代かもしれません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
その場合、神武東征までの年数とされる「179万2470余歳」との関係が問題になります。この年数はあまりに過大ですので、179と247の二つの年数を取り出して考えてみます。
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顕の幽神と申しますのは、大地球成就の為に顕現され、国土を修理固成し、神人安住の基礎を定めて、地上の幽界を守り玉う神霊で、国祖国常立尊、豊雲野尊、一度現世に其肉体を表現された神様であります。幽の顕神は天上の霊界を主宰し給い、顕の幽神は地上の幽界を主宰し給う神々の事であります。
(四) 顕の顕
顕の顕神は、天照大御神の御神勅に依り、豊葦原瑞穂国の主として天降り給ひし皇孫に 二に 岐の尊、歴代の日本国に主 師親の三徳を具有して、君臨在らせらるゝ現人神に坐します、天皇は天照大御神の御子孫で、顕の顕神であります。不敬不忠の精神をも 有つて居つたならば、皇祖の大神様は大変な懲罰を下し玉うは当然であります。至厳至重なる神法、幽斎の修行を希望するならば、無二の敬神家、尊皇家、愛国者で無ければ許されない。
天上の神霊にては天照大御神様を主神と仰ぎ、八百万の神々が政事を輔佐奉仕し、地上の神界も国祖国常立尊様を主神と仰ぐ八百万の国津神が坐ます、顕界にても皇孫尊天皇に仕え奉る所の文武の百官が、顕の顕神として国家の為に活動する。職原 抄にも四部官の制定が記されて、長官をカミ、次官をスケ、判官をジョウ、主典をサカンの如く、皇国の制度では長官を総てカミであります。明治維新前迄は国守をカミと唱え、是等のカミは顕の顕神様の部下にあつて夫れの守護をされる神様であります。
◆ 主 師親《仏に具わる三種類の徳性。1、智徳=すべてを見通す。2、断徳=煩悩を断じ尽す。3、恩徳=衆生に恵み施す》
◆ 原 抄《中世日本の有職故実書。全二巻。『職原鈔』とも。鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿北畠親房が、常陸国小田城で後村上天皇のために書いたものとされる》
◆ 四部官《律令制諸官庁の管理職に当たる4等級の官。通常は長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の職階制をとる》
capelaurig
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◆ 貴厳《身分が高く、名声のあること。また、そういう人や、そのさま》
◆ 聴許《ききいれて許すこと。》
併し乍ら現代の人間は体主霊従の物質万能主義に眩惑した結果、何人と雖も多少身魂に汚濁を招いて居つて、至清至純のたまとだましい日本魂なるものが欠損して居りますから、至清至浄、至尊至貴の神霊空白感合し奉り。国民天賦の天職を竭さんとして帰神の修業を為すに当り、先づ第一に各自の神魂と身体とを浄めねば成りませぬ。そこで帰神修業の準備として、鎮魂の神法に由り身魂の太祓を執行いたさねば、畏くも天照大御神様の御聴許を得る事が出来ぬのであります。(大正7年 帰神に就いて)
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長沢翁の霊学研究の動機:翁は如何にもして其宿志を貫徹せんとして職務の余暇を以て英学を修め、深く宇宙の原理を研究せんと欲せしより哲学史を読みて、哲学の一班を知り、ギリシャのアイラニツク派のテールスより今日に至る上下二千年の間有神説と無神説との争論ありて、何れとも決定する能はざるは学術隆昌の現世紀には遺憾の極なれば何れかの方法を以て、此決定を与えんことに苦心せし事多年かく斯て翁の研究は六ヶ年を経過せり、明治十八年旧薩摩の士 奈良原繁氏静岡県知事となり、同藩士の碩学本田九郎親徳翁を招聘して青年及び有志を薫養せられたり。両三回親徳翁に面会の後「昼夜に渉りて古事記日本書紀等の難題疑問を攻究激論しつい竟に親徳翁に抵抗する能はず、深く其卓見博識に畏敬して其門下生と成るに至れり。
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本田氏が霊学研究の動機:氏は学術深遠にして、玄妙を極めし力より必ず宇宙は霊的の作用に依るものならんと推測せし。十三歳の少女に狐の憑依し 克く和歌を詠ず。百聞は一見に如かすと往てその少女を見る折しも晩秋の候時雨の降る頃なりき。氏は少女に向い聞く、汝には狐の憑依して和歌を詠ずと、果してさ 然るかと少女は忽ち相貌変り曰く、如何なる題にても出せと、氏は此庭前紅葉の散り居る模様を詠ぜよと云いたるに少女は立ちどころに筆をと 執りて
庭も世に散るさへ惜しきもみじ葉を 打ちも果てよと降る時雨かな と手跡も見事に一片の短冊に書き終わりしかば、少女の相貌は直ちに元の如くなれり。氏は爾後之れら 等霊的作用の研究に従事せしもの実に二十五年間にして、始めて神人感合即ち神懸の術を研究し得たり。苦心焦慮は実に名状すべからず、或は深山に入り、或は名祠に参籠する等千辛万苦竟に神懸の術を知得せり。(霊学研究に就て 大正7年)
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