宝田明の遺作となった「世の中にたえて桜のなかりせば」で、彼が共演した岩本蓮加を「大女優の片鱗がある」と言っていたそうです。果たしてこれは誉め言葉なのでしょうか。
「悉有仏性」と言われ、我々は誰でも仏になれる存在だと言われていますが、実際に誰もが仏になれるわけではありません。
そもそも誰もが仏にならなければならないというわけではない。芥川龍之介の『杜子春』を思い出しますが、杜子春は結局仙人になることを諦めます。仙人と仏が同じというわけでもないのですが。
大日本帝国の例でも分かるように「大」をつけるのは自分だという説もあります。大と小は相対的なものであり、小がなければ大も無いことになります。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
「悉有仏性」と言われ、我々は誰でも仏になれる存在だと言われていますが、実際に誰もが仏になれるわけではありません。
そもそも誰もが仏にならなければならないというわけではない。芥川龍之介の『杜子春』を思い出しますが、杜子春は結局仙人になることを諦めます。仙人と仏が同じというわけでもないのですが。
大日本帝国の例でも分かるように「大」をつけるのは自分だという説もあります。大と小は相対的なものであり、小がなければ大も無いことになります。
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コメント一覧 (36)
他方で、ロシア国内での人々に動きはどうなのだろうか。情報が遮断されているから、わからないであるが、一定の形でのプーチン支持と批判とが広がっているように憶測できる。今度の戦争の動機の一つとして、プーチンの統治の危機があり、それをそらすために戦争を選んだということ。
これはプーチンが自己の統治基盤を強めるためであり、これは支持基盤を失う「両刃の刃」というところをもつのだが、両面を深めているように思う。ウクライナの人たちの抵抗とロシア内部の人たちのプーチン拒否の動きが、
この戦争の解決に導くだろうと、推察してきたが、概ね、その通りに事態は進行しているように思う。侵攻も一カ月を経て、停戦の動きは活発である。これが、どんな形で進むかはわからないが、基本的なことは、停戦はロシアの攻撃の停止であり、撤退であり、ウクライナの側にヘゲモニーがあって当然のことであるということだ。
ロシア側の停戦条件は無理というか、理屈に合わないものが多いと見受けられる。自分が戦争を仕掛けておいて、相手に非軍事化を要求するというのは、どういう神経かと思う。これは降伏の要求であり、ウクライナ側が蹴るのはあたりまえである。
capelaurig
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いが、これは降伏の勧告と同じで、ヒドイものだという他ない。地獄への道は善意で敷き詰められているということの典型のようなものだ。
戦争への関りが困難で、細い道を介してしか不可能であるという自覚が見られないことだ。この戦争に対する自己の立ち位置に自覚的でないと、安易な提言になってしまう。
ロシアのウクライナ侵攻(侵略)については「大義なき戦争である」と言われる。ロシアはこれを「戦争」といわずに「特別作戦」と称している。彼らもこれが大義なき戦争であることはわかっているのだと推測できる。日本が中国大陸に「侵攻(侵略)」にしたことを「事変」と呼んで、ごまかしたことを想起する。これは当時、侵略戦争に反対する動きが出てきて、パリ反戦条約ができたことから「戦争」を避けるためだった。
「事変」と言って、ごまかしたのだ。この方法をフアシズム(ナチズム)は密かに導入していく。戦争の違法化の動きの中で、抜け道を作った。今、戦争が世界的に違法化される状況の中で、プーチンは「特別作戦」ということで、それを真似ている。この戦争は「大義なき」といわれるだけ、ある意味で分かりにくい戦争にしている。
capelaurig
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『霊界物語41巻』の中で人名を読み替えるなどの方法で、江戸城再会時の会話を残している。『霊界物語』口述開始の年は大正十年、九月18日に口述開始したが、九月二十日午後一時には本宮山神殿破壊が始まる。天皇の権威を超える天御中主神。高皇産霊神、神御産巣日神、日本でほぼ初めての天の御三体の神を祭る本格的神殿である。もし本当の事を赤裸々に書けば不敬罪で最高刑、獄中での暗殺もありえない話ではない。
本文 北光の神は竹野姫等を引きつれ、気を利かして一間に引上げてしまった。後に熾仁親王、和宮は暫し沈黙の幕をつづけていた。和宮は心臓の鼓動を金剛力を出して鎮静しながら、顔にパツと紅葉散らし、覚束な口調にて、『熾仁親王様、お久しうございました。御壮健なお顔を拝し嬉しう存じます』
と纔に言つたきり、恥しそうに俯むいて顔をかくす。熾仁親王は目をしばたたきながら、『貴女も随分辛い思いをしたでしょうなア。私も江戸の国の空を眺めて、渡り行く雁に思いを送ったことは幾度か知れませぬ。私の真心は貴女の精霊に通じたでしょうなア』
和宮『ハイ、一夜さも王様の御夢を見ないことはありませぬ。今日ここで貴方にお目にかかるのは夢の様にございます。夢を両人が見ているのではありますまいか。夢なら夢で、どこまでも醒めない様にあって欲しいものですワ』
熾仁『決して夢ではありますまい、現実でしょう、しかしながら二人の間は夢より果敢(はか)ないものでございました。今北光の神様からいろいろと御理解を承はり、今後どうしたらよからうかと思案にくれている所です』
和宮『たとえ天律を破ってもかまわぬじゃありませぬか。一分間でも自分の本能を満足させることができれば、死んでも朽ちても構いませぬ。二人が根の国底の国へおとされようとも、貴方と手を引き合うてゆくのならば、構わぬじゃありませぬか』
capelaurig
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帝国主義的な復活(ロシア帝国の復活)など。戦争の根拠についての十分な理解(認識)が得られたのかと言えば、そうではない。戦争に関係するのはどのようにして可能か、戦争をなくしたいという意思はどのように実現していくのか。このロシアのウクライナ侵攻に反対し、同時に戦争をやめさせる道はどのようにあるかということだ。
ウクライナ侵攻に対しては、ウクライナの人たちの抵抗によるロシア軍の撤退(排撃)と、ロシアの人々の反乱(国家権力)であるが、間接的にしか関われない。闘う人々の行動を支援することができることがせいぜいのところだ。戦争をやめること、戦争をなくさせることは我々に関わる課題である。構成している国家に戦争をさせないということなのだが、そのために、何をなしえるのか、なにをなすべきなのか。
このロシアのウクライナ侵攻を通して戦争とはなにか、それは、なぜ起こるのかを深く認識することである。反戦(非戦)の運動とはこの認識を広める、共通の認識にすることだ。戦争についての明確な認識なしに、それを廃絶する構想も出来ようもない。「それは単純なことだ」と。単純なことだが、これが極めて困難なことだ。
戦争の問題こそ、戦後最大の思想の問題だ。だが、いつもこの営みは【戦い済んで日は暮れて】という思いをもたらす類で、「道遠し」という思いを感じてきた。
capelaurig
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ところが、それからわずか四年後の慶応二年(一八六六)六月二十日、長州征伐の最中、家茂は二十一歳の若さで大阪城で夭折してしまう。公表された死因は脚気衝心であるが、暗殺の噂もあった。
和宮は剃髪《ていはつ》して静寛院宮と号したが、家茂亡くして六か月後の十二月二五日、今度は孝明天皇が三六歳で崩御する。いったいなんのための政略だったのか。国はゆらぎ、幕府はきしみ、かつての許婚熾仁親王は征東大総督として軍をひきいて江戸へ攻め寄せてくる。
いつの間に朝敵となったのであろう。三二歳の和宮は、江戸城に逃げ帰った慶喜の助命嘆願に専心する。江戸市民が戦火に巻き込まれぬよう教諭を発し、江戸進撃中止の嘆願書を書く。江戸は戦火を免れ、天皇は江戸城を皇居としたが、和宮のむなしさを救うものはなかった。
capelaurig
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『霊界物語』口述時の大本は、まさに本宮山破壊に象徴される大本弾圧直下であって、聖師の立場でみれば、正しく信者が『霊界物語』を解釈して、真実の扉を開けてはならなかった。一文字一文字を解釈して、真相を探求され、発表されると、不敬に結びつき、聖師の首はいくつあっても足らなかった。「速解するな」とは、「熟慮して解釈せよ」と反対解釈できます。
たとえば、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)(皇女和宮)という姫が四一巻に出てきます。耶須陀羅姫《やすだらひめ》とはお釈迦様の妃と同じ名前です。そしてお釈迦様は、素盞嗚命の四魂の神(和魂大八洲彦命《にぎみたまおおやしまひこのみこと》)の一神です。出口王仁三郎聖師は、素盞嗚命の現界での顕現ですから、耶須陀羅姫が聖師と近い関係にあるのは想像できます。
それはともかく、ヤスダラ姫(耶須陀羅姫)のヤスの語感は、「ヤス」=「和」を示しています。『霊界物語』は聖師の口述です。孫の出口和明を「やすあき」と読ませた王仁三郎聖師だからこそ、この理屈は成り立ちます。『霊界物語』ではヤスダラ姫はインドの入那《いるな》の国の左守《さもり》クーリンスの娘で、セーラン王の許嫁《いいなづけ》です。サンスクリット語かもしれない言葉を日本語で解釈するのはどうかという意見もありますが、聖師のお示しから『霊界物語』の印度とは、普通日本のことと考えています。
capelaurig
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こういう事情が旧ソ連軍の戦争犯罪を暴かないできたが、それを多くの人
は知っていたのだと思う。それに戦後の左翼は旧ソ連や中国を支持し、ソ連の戦争は正義の戦争であるとしてきたから、こうした旧ソ連軍の犯罪的行為は不問に付してきた。この問題をきちんと総括しないできたことが、今、ロシア側のあれは捏造だというプロパガンダを信じる部分を生みさしているようにも思う。そこには戦後の左翼が旧ソ連の戦争は正義の戦争としてその蛮行は不問に付してきた伝統が無意識も含めて残っているように思う。
capelaurig
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情報戦といわれる現在の戦争については特にそうである。それをどのように判断すればいいのか。正確な情報ではなく、嘘の情報を出すことを当然のこととしているかぎり、それは戦争がいかがわしいものであること示しているのだが、情報を通じてしか事実を知らない。結局、これは、情報を受け取る側の判断に委ねられるのである。そこで二つこのことを基準として考える。自分が情報を読むときの基準である。例えば、プーチンは嘘つきであるという情報がある。信用できないという。他方でそれはデマであるという情報がある。その場合にどちらの情報を信じるかという時の基準の一つは、情報を発する人の社会や国家が情報の自由がある社会かどうかが一つの基準になる。表現の自由と言ってもいい。これは相対的なことだが、一つの基準になる。言論統制や表現の統制の厳しい国とそうでない国との差異はある。これは相対的なことだが、ここは一つの基準になる。
capelaurig
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『救世主が最早再誕されたと仰有るのですか。大聖主メシヤたる可き神格者には九箇の大資格が必要ですが、左様な神格者は容易に得られますまい。先づ第一に、
一、大聖主は世界人類の教育者たること
二、其教義は世界的にして人類に教化を齎すもの成ること
三、其智識は後天的のものに非ずして自湧的にして自在なる可きこと
四、彼は所在賢哲の疑問に明答を与へ、世界の所在問題を決定し、而して迫害と苦痛を甘受す可きものなること
五、彼は歓喜の給与者にして、幸福の王国の報導者なる可きこと
六、彼の智識は無窮にして、理解し得べきものなる可きこと
七、其言説は徹底し、其威力は最悪なる敵をも折伏するに足るの人格者なる可きこと
八、悲しみと厄難は、以て彼を悩ますに足らず、その勇気と裁断は神明の如く、而して彼は日々に堅実を加へ、熱烈の度を増可きこと
九、彼は世界共通の文明の完成者、所在宗教の統一者にして、世界平和の確定と世界人類の最も崇高卓絶したる道徳の体現をなす可き人格を有すること 以上
ではその要件を満たす者は誰かということの質問を多くの人に聞かれているのです。救世主とは世界を救うために天から地へおりてきたひとなのです。そして救世主であるからには必ず証拠を求められます。男女どちらでもいいと思いますが。
capelaurig
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capelaurig
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バハーウラーは襟を正し、さも謹厳な態度で、ブラバーサの談話を耳を傾けて聞き初めた。
汽車は早くもユデヤの高丘を足重たげに刻みて上り行く。
『私のメシヤと云ふ人格者は目下高砂島の下津岩根に諸種の準備を整へて居られます。そして其名はウヅンバラ・チヤンダーと謂つて、実に慈悲博愛の権化とも称すべき神格者です。世界人類に対して、必須の教育を最も平易に懇切に、施し玉ひつつあるのです。故に宗教家も教育家も、政治家も、経済学者も、天地文学者も軍人も職工も農夫も皆訪ね来つてそれ相応の教を受け、歓んでその机下に蝟集して居ます。如何なる難問にも当意即妙な答を与へられ、何れも満足して居ります。是が只今貴師の仰せられた第一の資格たる
「大聖主は世界人類の教育者たるべきこと」の条項に匹敵するやうに思ひます』
『成程御尤もです』
と頭を三ツ四ツ振つてうつむく。
『ツルク大聖主が伊都の御魂と顕はれ玉ふて、三千大千世界一度に開く梅の花の大獅子吼を遊ばしましたが、此御方は約りヨハネの再臨だと信じられて居られます。そして基督とも謂ふべき美都の御魂の神柱、ウヅンバラ・チヤンダーと云ふ聖主が現はれて、世界的の大教義を宣布し、凡ての人類に教化を与へたまひ、今や高砂島は言ふに及ばず、海外の諸国から各種の宗教団体の教主や代表者が、聖主を世界の救世主と仰いで参り、其教義の公明正大にして且つ公平無私なるに感化され、日に月に笈を負ふてその門下に集まつて来て居ります。
capelaurig
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出口王仁三郎聖師は大正5年の6月25日、9月8日、10月5日の三回にわたって神島に御参りになり、開祖さま、二代さまも同行された10月5日の『お筆先』で、坤の金神(聖師さまの御魂)、素盞嗚尊 小松林の霊が、五六七さまの御霊であることが明らかとなった。これにより、大本の経綸は新たな段階を迎えることとなった。
大正7年5月25日には聖師さま御一行により、神島神社鎮座祭がおこなわれた。神島神社は昭和10年、第二次大本弾圧で破壊されたが、同26年5月20日に二代教主さまの筆による「みろくのおほかみ」の石碑が建立され、現在にいたっている。
capelaurig
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『御尤もです。第三の資格に合致した点の御説明を願ひます』
『我聖主ウヅンバラ・チヤンダー様は、小学校へ通ふこと僅かに三年で、しかも世界智識の宝庫とまで言はるる程の智識を有し玉ひ、天地万有一切の物に対して深遠なる理解を有し、三世を洞観し、天界地獄の由来より過去現在未来に渉りて、如何なる質問にも尠しも遅滞せず即答を与へ、且つ苦集滅道を説き道法礼節を開示し、泉の如く淆々として湧出するその智識には、如何なる反対者と雖も感服して居りますよ。天文に地文に、政治に宗教に、道徳に芸術に、医学に暦法に、詩歌に文筆に演説等、何れも自湧的に無限に其真を顕はし得ると云ふ稀代の神人であります。幼時より八ツ耳、神童又は地獄耳などの仇名を取つて居た方ですからなア。今も猶、神政成就の神策に関する神秘的神示を昼夜執筆されつつあります。世界各国の国語と雖も、未だ一度も学んだ事の無いお方が、凡ての国の言語が習はずして口から出て来るのですから、吾々はどうしても凡人だとは思ひませぬ。何人も聖主を指して生神だ生宮だと崇めて居りますよ。所謂貴師の仰せに成つた
「その智識は後天的のものに非ずして、自湧的なる可きこと」に合致するぢやありませぬか』
『ヘエー、何と不思議な方ですな。それこそ真正の大聖主メシヤですな』
『それから瑞の御魂の聖主は、あらゆる賢人哲人の疑問に対し、即答を与へて徹底的に満足せしめ、且つ世界に所在種々の大問題に対し決定を与へ、種々雑多の迫害と苦痛を甘受し、常に平然として心魂にも止めず、部下の罪科を一身に負担して泰然自若、日夜感謝の生涯を送つて居られるのです。如何なる迫害も苦痛も聖主に対しては、暴威を振ふ事は出来ないと見えます。是が第四の条件に匹敵せる大聖主の資格の一ではありますまいか』
capelaurig
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歴史的な認識が必要である。その、鍛錬というか努力が必要であると思っている。それが国家的プロパガンダに取り込まれることを免れることになると思う。半藤一利が指摘していたように国家が戦争について本当のことを語らないことは、その属性である根根深いものである。半藤は日露戦争について日本国家は戦史を遺したが、それは公的に語られてきたものとは全く違っていたという。公的に流布されてきた戦史は偽造というべきものであったと。半藤は司馬遼太郎が本当のこの戦史を読んではいなかったと推察している。彼は司馬がこの戦史を読んでいたら『坂の上の雲』は違っていたと推察するのだが、戦争についての国家的情報は偽造という国家の都合のいいように脚色して流される。今回の虐殺情報を見ていてもそういう背景のあることを認識し、目に唾をしてかからなければならない。そのときの情報を読むには旧ソビエトやロシアの、あるいはアメリカやや西欧諸国の戦争の歴史について認識する努力が役立つのである。半藤一利や保阪正康が日本の戦争についての歴史を探索することを強調しているのを知ってはいたが、そのことが、今回のウクライナ侵攻についての情報を正確に読むことに役立った。そう言う意味では歴史の探索は偽造情報にごまかされないために重要だ。
capelaurig
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第七の資格としては、過去現在未来に渉る一切万事の解説は、終始克く徹底し、前人未発の教義を極めて平易に簡単に了解し易く説示し、内外種々の反抗者や圧迫者に対しても、凡て大慈大悲の雅量と神直日大直日の神意に従ひ敵を愛して、終には敵をして心底より悦服せしめ、善言美詞の言霊を以て克く言向和し、春野を風の渡るが如くその眼前に来れるものは、一人も残らず善道に導きたまひ、自己に対して種々の妨害を加へ災厄を齎したる悪人に対しても、聊かの怨恨を含まず、貴賤老幼の別なく慈眼を以て見給ふ所は、第七の大資格に合致して居られる様に思ひます。
capelaurig
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