『日本書紀』の歴代天皇元年には「太歳」干支が表記されています。これは百済の史書の影響のようですが、他に例が無い独特の書き方です。
神功皇后の巻には3か所にわたって書かれており、うち1か所は『魏志』から引用した卑弥呼の記事にあります。ただし「卑弥呼」の名前は注意深く避けられています。
天武天皇の巻では元年(壬申の乱の年)ではなく、翌年の2年に書かれているのも興味深いです。おそらく近江大津宮で大友皇子が天皇に即位していたのでしょう。『日本書紀』は大友皇子を天皇と認めていませんが、明治時代に「弘文天皇」として歴代に加えられました。古代には多くの謎があります。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
神功皇后の巻には3か所にわたって書かれており、うち1か所は『魏志』から引用した卑弥呼の記事にあります。ただし「卑弥呼」の名前は注意深く避けられています。
天武天皇の巻では元年(壬申の乱の年)ではなく、翌年の2年に書かれているのも興味深いです。おそらく近江大津宮で大友皇子が天皇に即位していたのでしょう。『日本書紀』は大友皇子を天皇と認めていませんが、明治時代に「弘文天皇」として歴代に加えられました。古代には多くの謎があります。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
コメント
コメント一覧 (33)
『いろいろと御懇切なる御説示に預かりまして、私も大に得る所が御座いました。どうやらエルサレムに着車した様ですから、茲で御別れ致しませう。私はパレスタインの或る高丘に、大聖主の後嗣が居られますので、一寸御訪ねいたし、再び橄欖山上にお目にかかり、結構なる御説示を蒙り度いと存じて居りますから、今後宜敷く御指導を願ひます。そして私はアメリカンコロニーへ訪問したいと思つて居ります』
capelaurig
が
しました
侵攻に対するウクライナの抵抗は予想を超えたものであり、大変なものである。ロシアを敗戦に導くものだと思う。ロシアの不当な戦争を敗戦に導くことは歴史的な希望である。ベラルーシの若者が義勇兵として志願していることは、それを示している。ウクライナの人々の抵抗はこうした戦争(プーチン型の侵略戦争)を廃絶していくための現実的な展開であり、これとロシア内部のプーチンの政治批判(戦争含めた批判)の結合(大きな意味での結合)が、プーチンの予想に反して進んでいる。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
八木清之助は、和宮家、有栖川宮家に筆の行商など出入りし、勤王の志士で、王仁三郎聖師の冠句の師 度変窟烏峰宗匠《どへんくつうほうそうしょう》、聖師の恋人、八木弁の父。清之助が熾仁親王と上田世祢を結んだのかもしれません。しかし二人の出会いについては、王仁三郎聖師が示している。
うのさん(上田宇能。聖師の祖母)のお父さんが中村孝道である。王仁は十三歳の時から言霊学《ことたまがく》をお祖母さんからならっている。大石凝《おおいしごり》先生に会ったのは明治三十五年で、その言霊学を習ったが基礎があったから判ったのである。大石凝先生は中村孝道の弟子である。
中村孝道は有栖川宮家の侍医で母が伏見に行っていた時、叔父さんの家に有栖川(熾仁親王)宮様がお寄りになったのである。(昭和十八年)(「王仁と言霊学」『新月の光下巻』)
capelaurig
が
しました
考えられることの一つは階級的な戦争論(観)の残滓というか、影響が残っていることである。レーニンの帝国主義戦争論でないが、戦争は資本主義権力(経済権力)の対立としてあり、戦争は帝国主義戦争であるという考えが長く流布されてきた。これは左翼や反体制派を支配してきた考えである。これは第一次世界大戦の総括としてはある程度の妥当性が考えられたが、第二次世界大戦以降の戦争についてこれは疑問のあることだった。ファシズムの戦争を資本制権力の戦争ということは疑問のあることだった。ファシズムについては分析があるが、フアシズム戦争をドイツの資本制権力の戦争としては分析していない。帝国主義戦争というなら帝国主義化した政治権力間(国家権力間)の対立のこととしてならこれは検討すべきことだが、経済権力を根底にした帝国主義戦争論は妥当性を持ってはいない。この帝国主義戦争観は部分的な妥当性しかないのだのだと思う。日中戦争の分析をやっていてそこでの帝国主義とか、帝国という概念が経済に還元できるものではない。日本の中国大陸の侵略戦争は日本帝国主義の市場獲得を根底にしていたといわれていたが、これが中心的動機であったとはいえない。帝国主義化した政治権力の野望がその中心にあったのだと認識する。
capelaurig
が
しました
山口志道など多くの縁者が五十音図に依拠したのに対し孝道の言霊学では五十音に濁音・半濁音を加えた七十五声を曼荼羅のように配列した「ますみの鏡」がその根幹に据えられます。これは言霊の曼荼羅であり、最下段のア音がもっとも重い音で、最上段のカ行がもっとも軽い音とされる。中心には「す」が置かれ、この図に示される音の階層秩序は、同時にあらゆる存在の階層秩序とされ、そこからネオプラトニズム的な自然秩序が誘導されていく。七十五声の音を形象化した「水茎文字」の伝、太占天之目止木《ふとまにあめのめとき》などを口伝、伝書などといった形で弟子たちに伝えました『古神道の本』学研。
中村孝道の言霊学は中心に「す」を置き、五十音をたとえば「さそすせし、たとつてち」と置くなど聖師の言霊学とそのあたりは一致しています。
聖師の曾祖父が有栖川宮熾仁親王の侍医であれば、聖師の母、上田世祢と熾仁親王の密会というのは、自然だからです。まして熾仁親王の母可那は亀岡市佐伯の出身でしたから、曽我部町宮垣内はほぼ同郷隣町であり、熾仁親王はよく母の里に馬で出入りしていたと思う。
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
特選
・異世界に行くより現実ぶっこわせ - ふ64
秀句
・サイバーがスポーツと呼ぶ殺し合い - ふ64
・現実を深読みせよ道はある - 海の民
・十年間座るも現実再稼働 - 原子力ガリレオ
・苦しさをコロナロシアのせいにする - 芒野
・ゲームじゃない戦車が攻めてくる世界 - 芒野
「読む」
特選
・核戦争カウントダウンの時計読む - まごじい
秀句
・日本人読むのは上の顔の色 - 原子力ガリレオ
・長文を読めぬ短絡ネット民 - 芒野
・戦力の解説ばかりじゃ先読めぬ - 芒野
・脱原発空気は読まない危険予知 - ふ64
・手をつなげ独裁は敵我戦う - 海の民
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
capelaurig
が
しました
中村氏は中村孝道を天明七年(一七八七)頃の生まれと推測しています。有栖川宮熾仁親王は天保六年(一八三五)の生まれ。
中村孝道は、文政三年(一八二〇)には、まとまった最初の著作『言霊秘伝』を著しました。一八一八年頃、京都から旅に出ています。孝道は言霊の秘奥を知るためとして国生み神話の残滓《ざんし》を探索しつつ、淡路島や中国路を旅したようです。出雲へ下り、千家国造家の俊信《としざね》(鈴門)や北島主膳と会見したのもこの折りのこと。
capelaurig
が
しました
安河に 誓約の業を始めたる 厳と瑞との神ぞ尊き
八洲河の 誓約になれる真清水は 罪ちょう罪を洗い清める
素盞鳴尊が地上を追われたのには、より深い原因があったことを、王仁三郎は『霊界物語』の中で一庶民の噂話にことよせ述べている。
「天の真奈井からこっちの大陸は残らず、素盞鳴尊の御支配、天教山の自転倒島から常世国、黄泉島(よもつとう)、高砂洲は姉神様がおかまいになっているのだ。それにもかかわらず、姉神様は地教山も黄金山も、コーカス山もみんな自分のものにしようと遊ばして、いろいろと画策をめぐらされるのだから、弟神様も姉に敵対もならず、進退これきわまって、この地の上を棄てて月の世界へ行こうと遊ばし、高天原へ上られて、今や誓約とかの最中だそうじゃ。姉神様の方には、珠の御徳から現われた立派な五柱の吾勝命(あかつのみこと)、天菩火命(あめのほひのみこと)、天津彦根命(あまつひこねのみこと)、活津彦根命(いくつひこねのみこと)、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)という、それはそれは表面殺戮(さつりく)征伐などの荒いことをなさる神さまが現われて、善と悪との立別けを、天の真奈井で御霊審判(みたましらべ)をしてござる最中だということじゃ。
姉神様は玉のごとく玲瀧(れいろう)として透きとおり愛の女神のようだが、その肝腎の御霊からあらわれた神さまは変性男子の霊で、ずいぶん激しい我の強い神さまだということだ。弟神様の方は、見るも恐ろしい十握(とつか)の剣の霊からお生まれになったのだが、仁慈無限の神様で、瑞霊ということだ」(『霊界物語』一二巻二五章「琴平丸」)
capelaurig
が
しました
日本の中国大陸侵略は帝国主義の戦争と言われた。中国市場獲得のための戦争と言われたが、帝国主義化して政治権力の野望、所業だった。坂野潤治がいう立憲的政治権力に対立する帝国的政治権力の行為である。ここで注意のいるのはこの帝国権力は資本と結びつき、それを代表する面もあるが、独自の政治意思を持つ。プーチンの戦争に向かう意思と似ているし、歴史的概念としての帝国主義戦争と言っていいのである。
ロシアのウクライナ侵攻でのキーウ攻略の失敗を日中戦争における初期の上海攻略戦の失敗と類似しているという。電撃作戦で簡単にウクライナを攻略し、傀儡政権を樹立出来ると目論んだプーチンの失敗が日中戦争での日本の失敗に似ているということだろう。ウクライナの人々の予想外の抵抗、あるいは民族的抵抗をプーチンがいかに見誤っていたかを示すが、これは日中戦争において日本の権力が中国の民族的抵抗についにわからずじまいだったことと似ている。満州国建設にあたって石原莞爾は五族協和を掲げたが、日本は帝国主義的支配を根底に持っていたのだから、これは矛盾に直面した。
capelaurig
が
しました
中村氏は中村孝道を天明七年(一七八七)頃の生まれと推測しています。有栖川宮熾仁親王は天保六年(一八三五)の生まれ。
中村孝道は、文政三年(一八二〇)には、まとまった最初の著作『言霊秘伝』を著しました。一八一八年頃、京都から旅に出ています。孝道は言霊の秘奥を知るためとして国生み神話の残滓《ざんし》を探索しつつ、淡路島や中国路を旅したようです。出雲へ下り、千家国造家の俊信《としざね》(鈴門)や北島主膳と会見したのもこの折りのこと。
『言霊由来』によると、出雲からの帰途、孝道は竜野に「言霊塚」を建立しています。瓦一枚に「三声の言霊」を書いたものを七十五枚埋めたとあります。この地には、圓尾屋の後援を得て、言霊学の社中が他に先駆けて形成されました。
capelaurig
が
しました
口述された大正一一年三月大日本帝国はシベリアに出兵、軍備を強め、仮想敵国を作って牙をとぐ頃。王仁三郎は第一次大本事件で投獄され、開祖出口直の墓はあばかれ、神殿はこわされ、不敬罪に関われている最中である。
天照大神の行為そのものにも首をかしげたくなる。お別れの挨拶がしたいという弟神の心を察する前に、ソク武力を整える。
大は仮想敵国をつくり上げる国際問題から小は家庭のいざこざまで、どれほど多くの紛争の種を撒いていることか。それを清くあるべき高天原の主宰神がまず犯された罪は重大である。
まっさきに武力に求めようとした。この体質は省みられず、帝国日本に引き継がれ、尾を引いた。口述の翌一二年関東を襲った大地震には朝鮮人暴動の疑いをかけ、数千人を殺している。その後も二度にわたる世界大戦や幾多の愚かな戦争のくり返しが、人類をどれほど悲惨な状況におとしいれてきたことか。神代では、素盞鳴尊の言霊と誓約によって、あやうく地上軍との武力衝突こそ避けられたが。
素盞鳴尊は「我が心清く明し。故、我が生める子は手弱女を得つ。これによりて言さば、自ら我勝ちぬ」(これで私の清明潔白なことは証拠立てられた。私の心の綺麗なことは私の魂から生れた手弱女によって解りましょう。従って、私の勝です)といい、勝ちのすきびに乱暴をする。これについて王仁三郎は、地上から従ってきた素盞鳴尊の従神たちの集団行為だという。主である素盞鳴尊があらぬ疑いをかけられた無念を、その潔白が晴れたとたんに爆発させたのだ。
素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、天の磐戸隠れの騒動を仕組んだのは、ウラナイ教の高姫ということが霊界物語に記されています。
capelaurig
が
しました
これは戦後の反体制運動や反権力運動にあった面々が憲法(とりわけその戦争観)をどう理解してきたかの反映である。単純に言えば、憲法9条を含めた戦争観がアメリカからの強制というが、アジアの人々への反省と謝罪であった面を理解し認識することができてはいなかった、ということだ。そして戦争の原因の理解が一面的で深めないできたということだ。マルクス主義の側の戦争追及が衰退し、それが半藤一利や保阪正康らにとって替わられてきたということでもある。
「プーチン悪論、ゼレンスキー善論という二元論ではなく、戦争悪論と一元論でこの戦争を把握し、ゼレンスキ―もプーチンも停戦して戦争をやめろという」のがある。これはプーチンの戦争にはアメリカやNATOの拡大が原因だとか、ゼレンスキ―が仕掛けた戦争だとか、アメリカと西欧ロシアの戦争だとか、そして、どちらも戦争をやめろ(停戦しろ)という提案になって行く。これは俗にいう傍観主義、客観主義的な発言であり、結局は当人の意思に関わらずプーチンの擁護になってしまう。なぜなら、これは降伏の勧告になってしまうからである。そんなことは当人たちも承知のことだと思う。こういう議論は現在的な善意者の発言であり、レーニンの良く言った地獄には善意の道が敷き詰められていると言った類のことだ。
ここには一つの戦争観があり、それは問題なのだと思う。こういう考えの背後には、多分に憲法9条の戦争放棄の認識や理解に影響されたものがある。
capelaurig
が
しました