纏向遺跡は垂仁天皇と景行天皇が都を置いたと言われる遺跡ですが、何故か邪馬台国の遺跡として宣伝されています。(纏は別の漢字のようですがご容赦願います)
報道機関の人達もこうした古代の天皇の名前は馴染みが無く、卑弥呼の方をよく知っているのだろうと思いますが、私の見るところ、この遺跡は邪馬台国ではありません。中国や韓国・朝鮮に関係する遺物が少なく、外国との繋がりが薄かったと思われるからです。邪馬台国は九州、おそらく筑後平野にあったと考えられます。
しかし卑弥呼とは関係なくても日本の建国を考える上で重要な遺跡ですから、報道機関の人達も勉強して、纏向に関する記紀の記録を紹介すべきと思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
報道機関の人達もこうした古代の天皇の名前は馴染みが無く、卑弥呼の方をよく知っているのだろうと思いますが、私の見るところ、この遺跡は邪馬台国ではありません。中国や韓国・朝鮮に関係する遺物が少なく、外国との繋がりが薄かったと思われるからです。邪馬台国は九州、おそらく筑後平野にあったと考えられます。
しかし卑弥呼とは関係なくても日本の建国を考える上で重要な遺跡ですから、報道機関の人達も勉強して、纏向に関する記紀の記録を紹介すべきと思われます。
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コメント一覧 (26)
黒姫『コレコレ蠑螈別サン、高姫サン、静になさらぬか、丁ン助、久助その他の面々、千騎一騎のこの場合、気を確(しっか)り持ち直し、力限りに神政成就のため活動をするのだよ、何を愚図々々キヨロキヨロ間誤々々するのだい。これ位の事が苦しいやうなことで、どうして、ウラナイ教が拡まるか、転けても砂なりと掴むのだ、ただでは起きぬと云ふ執着心が無くては、どうしてどうしてこの大望が成就するものか。
変性女子の霊や肉体を散り散りばらばらに致して血を啜り、骨を臼に搗いて粉となし、筋を集めて衣物に織り、血は酒にして呑み、毛は縄に綯ひ、再びこの世に出て来ぬやうに致すのがウラナイ教の御宗旨だ。折角今迄骨を折つて天の磐戸隠れの騒動がおっ始まる所まで旨く漕ぎつけ、心地よや素盞嗚尊は罪もないのに高天原を放逐され、今は淋しき漂浪(さすらい)の一人旅、奴乞食のやうになつて、翼剥は)がれし裸鳥、これから吾々の天下だ。
この場に及んで何を愚図々々メソメソ騒ぐのだ。高姫さま貴女も日の出神と名乗った以上は、何処迄も邪が非でも日の出神で通さにやなるまい。
憚りながらこの黒姫は何処々々迄も竜宮の乙姫でやり通すのだ。蠑螈別さまは飽までも大広木正宗で行く処までやり通し、万々一中途で肉体が斃れても、百遍でも千遍でも生れ替はってこの大望を成就させねばなりませぬぞ。エーエー腰の弱い方々だ。この黒姫も気の揉める事だワイ、サアサア、シ’ャンと気を持ち直し、大望一途に立て通す覚悟が肝腎ぢや。
capelaurig
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ウクライナの国歌(ウクライナは滅びず)をYOU TUBEで聞くと、彼らはコサックの子孫だと信じてます。大本信者は神の子だと思ってます。プーチンは悪党です。第3次世界大戦の予兆があります。時間は掛かります、プーチンは反面教師かもしれません。三種の邪神として、物語第4巻天地開明で六面八臂の邪鬼、金毛九尾白面の悪狐、八頭八尾の大蛇が定義されている。金毛九尾とは、狐として黄金色の硬き針毛を有し、化現すると美しき女人の体を現し高貴なる服装を纏い、神人を驚かしめ、威厳に打たらしめ、完全無欠にして九尾を振るという。われよし、強いもの勝ちの世を金毛九尾、大蛇などの動物の概念で表し、立替え立直し改心を行う国祖の出現、天の弥勒様の下生という、物語では高姫に代表される。高姫はよく改心するが、口が上手い、嘘をつく、男を騙す、騙されて気が付くので、失くす事は難しい。物語第14巻丸木橋では二十世紀は悪魔横行の時代、八頭八尾や金毛九尾の悪霊が発動し、常世姫や木常姫の霊魂の遷り易い肉体を使う。善の仮面を被って教え子を食い殺す。物語第48巻至愛では我が子にはつまらぬ御用がさしてある。信者はそれを見て改心せよと説かれる。物語第47巻天界の花:「こんな穢い人間に触ろうものなら、忽ち地獄の団体に落ちます。」「天国は愛善の国だ。地獄に落ちるのを恐れて現在目の前に苦しんでいる憐れな人々を救わないのは、自愛の心だ。自愛の心は天国にない。自愛を捨て善と愛との光明にひたれば、地獄は忽ち化して天国となるであろう。」物語では反面教師として高姫は最後まで登場します。改心させようとする言霊別を、諫言する高姫が慕う場面がある。臨死体験から生還した時の世の中が、その時大変美しく見えたりする。
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capelaurig
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「神殿に糞をしたといって騒ぐけれども、あれはきっと、酒に酔って何か吐き散らしたまでのことでしょう。田のあぜや溝をこわしたというのも、耕せば田となる土地をあぜや溝にしておくのは惜しいと思つてのことでしょう。わが弟のしたことですから」
清めぬいた忌服屋では、天照大神のもとで織女たちが神に捧げる御衣を織っていた。その時、御殿の棟がこわされて、その穴から火のかたまりのようなものが落ちてきた。逆はぎにはがれた天の斑馬ではないか。逃げまどう織女たちの絶叫、なんと、天井の穴からのぞき見ているのは、弟素盞鳴尊の髭面ではないか。
思慮を失った天照大神は、天の岩屋戸に閉じこもってしまう。これによって高天原は常闇の世となり、荒ぶる神々はここぞと騒ぎまわり、禍という禍はことごとに起こった。
天の斑馬(ふちこま)を逆はぎにはいで落としたのは、明らかに素盞鳴尊自身である。こればかりは、弁護の余地さえなさそうだ。それにしても、安河原の誓約(うけい)では確かにやさしい魂をもっ素盞鳴尊が、なぜわざわざ姉の面前で、そのような残虐行為に出たものか、その矛盾がひっかかってならない。
素盞鳴尊の従神たちの乱暴を神々が訴えた時、天照大神は弟神をかばい過ぎてしまった。厳然として天地の律法を守らねばならぬ高天原の主宰神が、天則違反を犯す天下の大罪人を、いとしい弟だからと見すごしてはならない。それは天地の神々へのしめしもつかず、律法は内側から崩れてゆこう。だからこそ父伊邪那岐尊は、涙を呑んで貴の子を追放されたものを。姉神がかばえぱかばうほど、素盞鳴尊は苦しんだであろう。
capelaurig
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シモーヌ・ウェ―ユの戦争論批判に深い影響を受け、この時代にあらゆる戦争は悪だ、戦争は止めてしまえという考えを提起していた。特定の戦争の批判を超えて戦争そのものを批判していた。この反戦論は徹底したもので、反ファシズム戦争を戦った米ソが、戦争そのものを否定せず戦後も戦争を繰り返してきたことを批判する立場を与えてくれる。憲法9条の戦争放棄論に理念的立場を与えてくれる。現在の戦争観(非戦論)の根底になっており、憲法9条を擁護する理念的根拠になってきた。その彼女がスペイン人民戦争に義勇兵として参加し、ファシズムとの戦争では連合国側に立ちロンドンで闘った、この行動と彼女の戦争観は矛盾的にみえる。なぜ彼女は反ファシズムの側の戦争に立ち闘ったのか。ここではファシズムの側の戦争を悪として考えていたに違いない。彼女は戦争そのものを悪とする立場と、どちらかの戦争を選択するという矛盾にあった。彼女が現実を生きたという事の証明である。シモーヌ・ウエーユの戦争観に示唆されながら、彼女の取った行動も含めて、その矛盾的な所業を考えてきた。僕らは幸福なことに戦後体制の中で日本が戦争に参画しないできたし、現実の戦争に直面しないできたから、彼女の直面したような矛盾に悩まなくて済んできたところがある。
capelaurig
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素盞鳴尊のとるべき道は一つ。姉神の面前でのつぴきならぬ怒りを買うのだ。万神の激怒をわが身一神にふりかえて処罰させる。それしかないではないか。ところが天照大神はしょせんは女神。素盞鳴尊の深い志を察して罰を与えるゆとりすらなく、天職も誇りも捨てて岩戸へこもってしまわれた。王仁三郎がこの事件について口ごもるのは、触れようとすれば非を皇室の祖神天照大神に重ねて帰せねばならない。しかし王仁三郎は、天照大神と機について、重大なことを示唆している。
「ここで機を織るということは、世界の経論ということであります。経と緯との仕組をしていただいておったのであります。すると、この経綸を妨げた。天の斑馬、暴れ馬の皮を逆はぎにして、上からどっと放したので、機を織っていた稚比売(わかひめ)の命は大変に驚いた。驚いた途端に竣に秀処(ほと)を刺して亡くなっておしまいになったのであります」(『霊界物語』一二巻二九章「子生の誓」)
単に血だらけの馬を落として驚かす単純な悪戯などではない。素盞鳴尊が天照大神の経輸を妨害したと、王仁三郎はいっている。もしそうであれば、まさしく素盞鳴尊は天下の大罪人である。が、も一つ底があるかも知れない。合せ鏡の元、天照大神の経論そのものが国祖の律法から見て間違っているとすれば。
瑞御霊(みずみたま) 千座(ちくら)の置戸を負わせつつ 世人の犠牲と降りましけり
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にしきの機とは、綾錦の布を織ることをさすが、みろくの世に至る道程を、さまざまに織りなしていく人々の苦節を色糸にたとえ、象徴的に表現したものであろう。機は経糸と緯糸で織り成されるが、出口直と王仁三郎のふたつの魂の要素ともいうべきものが、経と緯の関係になぞらえる。
経糸 出口直 艮の金神 変性男子 厳の御霊
緯糸 出口王仁三郎 坤の金神 変性女子 瑞の御霊
対立し、ぶつかり合い、からみ合うふたつの個性や生きざまの鮮やかな対照がいつのまにやらそのまま組みこまれて、大本の教義を成していく。直にかかる神の啓示と王仁三郎にかかる神の教えが、火と水、男子と女子、父と母、天と地、小乗と大乗、ナショナルとインターナショナルというように、まったくあい反しながら、機の経糸、緯糸となって織りなされてゆくのである。
「古き世の根本のみろくさまの教えをいたさなならん世がまいりきて、にしきの機のたとえにいたすのは、変性男子のお役は経のお役で、初発からいつになりてもちっとも違わせることのできんつらい御用であるぞよ。変性女子は機の緯の御用であるから、きとくが落ちたり、糸がきれたり、いろいろと綾のかげんがちごうたりいたして、何かのことがここまでくるのには、人民では見当のとれん経綸がいたしてあるから、機織る人が織りもって、どんな模様がでけておるかわからん経論であるから、出来あがりてしまわんとまことの経論がわからんから、みなご苦労であるぞよ」
capelaurig
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憲法9条の擁護という問題に関わることだからである。憲法9条の戦争放棄に対して、現実の侵略があったらどうするのだという問いが投げかけられてきた。対応は憲法9条の擁護者において様々だった。
問いに対して軍事抵抗はするが、従来の形の形態、戦争という形態を超えたで方法を考えたい。非戦論は侵略戦争には抵抗を持って対応するというものであり、この関係は難問だった。そんな抵抗が歴史的にはまだ何処にもなく、未知のものだということもあるが、そこには戦争をめぐる理念と現実を思考する問題がある。
あらゆる戦争を否定するという非戦論にたっていた。特定の戦争において戦争(侵略)と抵抗という形の戦争があつたとき、もう一つの戦争を支持することもした。戦後の戦争もういろいろとあり、複雑であって一般化してではないが、その都度ある戦争については、ある方を支持するとしたこともある。ベトナム戦争はそんな戦争だった。第二次世界大戦では反フアシズムの側を支持した。戦争には様々あり、単なる国家間戦争のようなものもあり、そんな戦争には支持とか、不支持とかはなかったが、特定の側を支持することもあった。戦争を絶対的悪として否定しながら、特定の戦争ではある方を支持するというようなことがあるのか。
capelaurig
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国祖国常立尊の至正、至直、至厳なやり方に対して不満の神々が天の大神に直訴する。天の大神もついに制止しきれず、「もう少し緩和的神政をするよう」説得したが、国祖は聞き入れぬ。もしそこで聞き入れてゆるめれば、機の末は乱れきるのが目に見える。たとえ天の大神のお言葉を拒もうとも貫く、これが機の仕組の経糸のつらい役目なのだ。
経糸が張られれば、後は緯糸のお役。緯糸は、張りつめた経糸の聞をくぐり抜ける度に筏(おさ)で打たれながら、きとくが落ちたり、糸が切れたり、梭のかげんが違ったりしつつ錦の機(はた)の完成まで動き続ける。これまたいっそうつらい役。
経と緯というのは、すべての物事の成り立ちのぎりぎり決着の表現であろう。いかなる文化も経と緯、時間と空間のないまじりから成る。「縦横無尽の活躍」というのも、自由自在な働きの根底が経と緯とで構成されていることを示す。
大本的表現をすれば、この錦の機(はた)を織り上げるのが神業であり、人間は一筋の糸として参加するため、この世に生まれてきたのである。この地球上で人間が創造している文化(政治、経済もふくめ)は、それぞれ勝手にやっているようで、実は織られているのだ。短い糸をつなぎ、より合わせていつか時代の流れの色模様が染め上げられていく。
経と緯とがうまく整い、見事な布が織られていくことを「まつりあう」という。政治を、日本古来の言葉では「まつりごと」と称した。天と地、神と人、霊と体との均り合いが真にうまくとれることが政治の理想であろうが、神に対する祭りも同様である。その意味から見れば、現今の文化のいっさいは均衡を欠いており、人間の我欲だけが一方的に突出して、歪んでしまっていはしないか。
capelaurig
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現実には戦争はある、そこでは特定の戦争の是非が問われる。現実は様々の段階の戦争があり、特定の戦争に対する判断を必要とする。例えばプーチンの戦争はどうかというように、戦争は悪なのだから、全部否定しろという考えが出てくる。戦争を仕掛けた側を擁護するような矛盾が出てくる。これは観念的(空想的)か、現実に抵抗し闘う人間に対する無視のように現れる。
理想と現実の関係の問題と言っていい。
矛盾の解決を目指す活動の運動がある。この矛盾の解決には矛盾の絶対的解決がある。これは理想的立場であり、革命的立場である。ただ、矛盾の解決ということでは絶対的な解決というよりは新しい矛盾の提起ということがある。矛盾の絶対的解決をしたわけではないが、一つの矛盾の解決ではある、提起がある、これは絶対的な矛盾の解決という点では中間的で過渡的なもの、歴史的には段階的なものと言える。哲学的には矛盾対立論に対して矛盾調和論である。
capelaurig
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たてよこの 神のよさしの綾錦 機のかがやく世とはなりけり
綾の機 織る身魂こそ苦しけ一れ 一つ通せば三つも打たれつ
高天原の司がすべてを投げ捨て岩戸にこもっては、世は闇夜となりはてる。万の災禍も起こってきた。そこで八百万の神々が安河原に集まって思金神(おもいかねのかみ)に知恵を傾けさせる。長鳴鳥を鳴かせ、さかきの上枝にみすまるの玉をかけ、鏡をつけ、下には白や青の布を垂らしておき、太祝詞を奏上した。天宇受売命(あめのうづめのみこと)が伏せた桶の上で、足をふみとどかし、胸乳もあらわに踊り狂ったので、高天原も揺れるほどに神々はともに笑った。天照大神は不思議に思われ、岩戸を細目に聞いて声をかけられた。
「私がこもっているので、高天原は暗く、また世の中も暗いと思うのに、どうして天宇受売命は楽しそうに踊り、神々は笑うのか」天宇受売命は答えた。
「あなたよりも尊い神が出られましたので、みな大喜びで笑い遊んでいます」がたしかに岩戸の前には光り輝く女神がいる。それがさし出された鏡に写る御自身とは知らず、思わず戸より出てのぞかれたので、隠れていた天の手力男神がみ手をとって引き出し、布刀玉(ふとたま)命がしめ縄を張って「これより中に、もう戻らないで下きいと申し上げた。」
岩戸は開けこの世は明るく照りわたった。
capelaurig
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戦争に対する革命的理念と特定の戦争の戦争を関係させるのは難しい。そこには伝統的左翼の思考が残っているからだ。矛盾対立論で矛盾調和論を認めないという伝統的左翼の思考が遺伝子のようにある。
例えばファシズムに対する戦争(プーチン型の戦争)を否定することは特定に戦争の否定であるが、戦争そのものの否定ではない。これは矛盾の解決のための新しい矛盾の提起ということになる。プーチンの戦争(侵略戦争)を否定することは戦争を否定することにはならないにしても、侵略戦争を否定することである。歴史的には段階的に戦争を否定してきたことになる。人類の歴史は戦争の歴史と言ってもいいが、人類は戦争という矛盾を解決はしてこなかったけれども、段階的に解決はしてきたという歩みはある。
capelaurig
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