卑弥呼については、このブログではあまり取り上げてきませんでしたが、助けて国を治めていたという「男弟」について。
「男弟」とは不思議な言葉で、弟なら男に決まっていると思うと昔はそうではなく、『古事記』でも「弟」と書いて「いろど」と読み、妹を表している例があります。しかし『三国志』で「男弟」が使われたのは他に一ヵ所しかなく、大変珍しいようです。
一方『日本書紀』全30巻で「男弟」はたった一度しか使われていません。それは第4代・懿徳天皇の皇后・天豊津媛について、ある書物では磯城県主葉江の「男弟」猪手の娘・泉媛となっていると記した箇所です。これを見ると葉江さんは女性であったと思われ、卑弥呼の可能性もあります。後継者の台与は天豊津媛か、第5代・孝昭天皇の皇后の母として出てくる「倭国の豊秋狭太媛」かもしれません。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
「男弟」とは不思議な言葉で、弟なら男に決まっていると思うと昔はそうではなく、『古事記』でも「弟」と書いて「いろど」と読み、妹を表している例があります。しかし『三国志』で「男弟」が使われたのは他に一ヵ所しかなく、大変珍しいようです。
一方『日本書紀』全30巻で「男弟」はたった一度しか使われていません。それは第4代・懿徳天皇の皇后・天豊津媛について、ある書物では磯城県主葉江の「男弟」猪手の娘・泉媛となっていると記した箇所です。これを見ると葉江さんは女性であったと思われ、卑弥呼の可能性もあります。後継者の台与は天豊津媛か、第5代・孝昭天皇の皇后の母として出てくる「倭国の豊秋狭太媛」かもしれません。
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コメント
コメント一覧 (21)
capelaurig
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具視は孝明天皇を自分のお稚児としていた。孝明は岩倉に逆らえなかった。まあ男同士の愛。そして岩倉具視がそれ以上に愛したのが和宮親子内親王。
そして東征大総督をかってでてまで幕府と政府軍の内戦を避けようとした有栖川宮熾仁親王。熾仁親王の真意は。愛し抜いた和宮を江戸の戦火から救い出すことなのだ。西郷隆盛を参謀として。
しかしその心も知らずか、寅之祐、伊藤、岩倉らは和宮を切って捨てた。その傷心の熾仁親王の目の前に現れたのは、母かなの郷里の女、上田世祢、後の王仁三郎の母親であった。世祢は子供を宿していた。和宮との悲恋に次ぐ、世祢との悲恋の物語が始まる。熾仁親王は明治維新の責任をとって、1895年東京品川御殿で切腹する。
capelaurig
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昭和天皇が最も嫌った人物として、北一輝、三島由紀夫そして出口王仁三郎と考えられる。
松本健一氏の<三島由紀夫の二二六事件>でも言及されてますが、当の<英霊の聲>では、二二六事件に深く関与できなかった男が、大本祭礼で亡くなった青年将校の霊魂を呼び戻すと、<天皇はなぜ人間なりしか?>という呪詛の聲が聴こえる。三島は観念の中で創り上げた<文化概念としての天皇>に対して、俗物的昭和天皇への嫌悪感を抱き、昭和天皇ご自身にも伝わったのではないか?三島が天皇に正直に向き合った作品ではなかったか?
capelaurig
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物質文明に心酔した人民は、弱肉強食を天理の如く思考し、無慈悲で、殺伐で利己主義である。悪魔同様である。現社会は黄金国でなく地獄である。文明ではない。野蛮であり生物を殺して喰う猛獣国である。この肉食のために、偽文明の人民が気が強く、活気はあるが慈悲心は断滅し、生存競争は狂烈になり無神論なる馬鹿知識が、人民を小利口、小理屈で、神国たることを忘却し、異邦の道を尊重し、奇怪千万なる倫理に迷う。宗教なり道徳を疑い、大地震が揺らずとも、大戦争が無くとも、この社会は自然に破滅するようになる。今のうちに不都合なる社会の風潮を一掃し、精神的文明、惟神の徳性を拡充し、世界人類のため心身を尽くして、神教のまにまに円満美麗なる天国に至り、心魂を清めて宇内の為に奉ぜんとす。
capelaurig
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物語には滑稽、諧謔もあるけれども、それは一つの色をつけているのであって、そういうところにかえって余計書いてある。
読み方がまだまだ足らぬ。物語は決して予言書ではない、確言書である。三十万年昔の事であるが、これから先、三年、五年のうちにそれがみんな出て来る。
(鎮魂帰神はただ今お止やめになっていられますが、またいつかの時期に)
あれはうるさいでネ…魂の研けた者で、よく解したものがやるのはいいが、そんなに研けた者はいない。そのくせ、やらすと邪霊がかかってさっぱりいけない。みな邪霊のかかりそうな顔ばっかりだ。
(霊界物語を拝読さして頂くのが鎮魂でないでしょうか?)
それはそうだけれど、まだ本当に霊界物語を解していないからいけない。もちっと研究会でも開いて勉強せねばいけない。
(修業者がよく鎮魂帰神を要求して「昔出来たのなら今でも出来そうなものだ」と言います。)
自分と相談してみればよくわかる、審神さにわの出来る者があると思うか? あの浅野氏にしたって、悪霊がかかって来ると、一生懸命談判をやっている。朝から晩まででもウンウン言ってやっている。私が行って「オイオイ先生エエカゲンにしたらどうや」と言うて背中を叩いてやると、おさまってしまう(笑声)古い信者は経験しているだろう。神懸りをやらすのは狂人きちがいに刃物を持たすようなものだ。
capelaurig
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1962年、栄二先生はモスクワの世界宗教者会議に出席され、中国仏教協会の趙樸初氏に出会います。趙樸初氏は1936年より抗日救亡運動に参加、中国仏教協会の発足に貢献され、会長に就任し周恩来総理から信頼を得ていた人物でした。
<北京に来ませんか、御招待します>と言われ、当時40歳の若い栄二先生は国交が回復していない北京にモスクワから入国しました。北京に到着後、どのような方とお会いしたいかと訊ねられ、<毛沢東主席か周恩来総理にお会いしたい>と答えたところ、ある日<周恩来総理がお会いします>と回答がありました。7月26日対談が行われ、大本について、特に戦前2度も、天皇制国家権力から徹底的に弾圧を受けた歴史を周恩来総理に話すと、総理は傍に居た記者達に<もっと大本を中国に紹介しなさい>と語りました。
この対談の模様は人民日報に写真入りで掲載され、月刊の人民中国(日本語版、エスペラント判など)にも写真入りで記事になりました。周恩来総理が日本の宗教界の動きに敏感だったわけです。
公明党が結党された創価学会にも注目しており、有𠮷佐和子は少なからぬ役割を果たしていました。
capelaurig
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日本人の想念(魂の活動)の思いが清まらず、主神の思い、肝心の所がわからない。信仰的想念とは、人の悲しみ苦しみを受け止め、主神・経典に根ざす事が急務である。
皇統を廃して王仁三郎を天皇にするという自白を強要した大本弾圧で教団は破壊され、御自身も6年8ヶ月独房での拘禁、この時点で天皇制は潰えた。昨年の生前退位で御厨貴は<中身はともかく、イベント化して興味を引くことで、天皇制を維持している>と述べている。ポツダム宣言前後の国体維持の暗躍、対ソ戦略での天皇利用したアメリカは、反動国家主義を復活させた。国祖国常立尊の大本神話(主神信仰)と天岩戸開きの天皇制神話(現人神信仰)とは異質のものである。
capelaurig
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capelaurig
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万延元年(一八六〇)、大雪のなか登城する大老井伊直弼の行列に水戸脱藩の尊攘派浪士ら一八名が切り込み、井伊を刺殺する。桜田門外の変である。幕府の威信はますます低下し、政権を引き継いだ安部・久世は、尊攘派を牽制せんがため、朝廷に対し、和宮降嫁を強硬に申し入れてきた。
孝明天皇は最初、難色を示す。和宮にはすでに婚約者の有栖川宮がいるうえに、和宮自身も、江戸は蛮夷《ばんい》の集まるとことして恐怖していたからである。ところが幕府は引き下がらず、公武一和のためと重ねて押し戻し、有栖川宮家に和宮との婚約を辞退させるなど、次々と外堀を埋めていった。
孝明天皇は板ばさみになって苦悶するが、そこに策略家の岩倉具視が登場する。岩倉は幕府の執拗な降嫁奏請を逆手にとり、降嫁容認は屈服ではなくむしろ「関東へ御委任の政柄を隠然と朝廷へ御収復」する絶好の機会ととらえ、和宮降下を認める条件として、幕府に対して、攘夷の実行や、国家の重要事の奏聞《そうもん》を命じることを天皇に奏上したのである。
岩倉の説得で孝明天皇は和宮降嫁を認めることを決意する。和宮はみずから天皇に「この儀は恐れいり候えども幾重にも御断り」と手紙を書く。無理もなかった。和宮はもの心つかぬうちから熾仁親王を慕い、その妻となる日を夢見つつ成人したのだ。十年の時の流れが、ふたりの心を固く結びつけている。しかし、天皇が九条関白に宛てた宸翰《しんかん》で、この問題がこじれるならば譲位を決意していることを知った和宮はついに承諾する。
capelaurig
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家茂と和宮の不可解な死因 脚気衝心《かっけしょうしん》。侍医は同じか。同じ毒を盛ったか。
ところが、それからわずか四年後の慶応二年(一八六六)六月二十日、長州征伐の最中、家茂《いえもち》は二十一歳の若さで大阪城で夭折《ようせつ》してしまう。公表された死因は脚気衝心《かっけしょうしん》であるが、暗殺の噂もあった。
和宮は剃髪《ていはつ》して静寛院宮と号したが、家茂亡くして六か月後の十二月二五日、今度は孝明天皇が三六歳で崩御する。いったいなんのための政略だったのか。国はゆらぎ、幕府はきしみ、かつての許婚熾仁親王は征東大総督として軍をひきいて江戸へ攻め寄せてくる。
いつの間に朝敵となったのであろう。三二歳の和宮は、江戸城に逃げ帰った慶喜の助命嘆願に専心する。江戸市民が戦火に巻き込まれぬよう教諭を発し、江戸進撃中止の嘆願書を書く。江戸は戦火を免れ、天皇は江戸城を皇居としたが、和宮のむなしさを救うものはなかった。
明治二年正月一八日、和宮は東京(江戸)をあとにして京都に帰るが、明治七年七月、再び東京に移り住む。そして明治十年八月、脚気を発病、侍医の進めによりて箱根塔之沢へ湯治に赴《おもむ》くが、九月二日、にわかに衝心の発作により、当地で他界したという。
capelaurig
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我々が漠然と思っていたより、はるかに系統的に宗教を研究している。キリスト教、仏教にしても予想外な位にきちんと取り組んでいる。年代によってかなり思想的な発展がある事が非常にはっきりしてきた。大本信仰の上で、瑞の御霊である代表作の霊界物語は王仁三郎の全思想で、それ以前は本来の思想ではないとされたが、著作集はあえて年代順に復元した異例な捉え方をした。1901年の聖教本義から1926年の愛善信真に至る、霊界物語の生まれたいきさつが分かる。不敬罪による1次弾圧(1921年)の神殿破壊の音を聞きながら、口述を始めたのではなく、直前に書かれた神霊界の内容が冒頭部になっている。大正維新で運動が盛り上がった時期に、霊界体験や状況を述べることによって、森羅万象についての王仁三郎の思想の体系化が始まっている。最初は素朴であっても、大正期に習合的になった宗教思想としての特色でもある。
capelaurig
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