ブログの更新をしないまま、9月になってしまいました。仕事や介護で忙しく・・というのは言い訳にはなりませんが、なかなか更新する機会がありませんでした。
今月27日には安倍晋三の国葬が行われるようですが、今からでも中止すべきではないでしょうか。国民の反対も多く、やるなら統一教会葬でやるべきという意見もあります。
統一教会の問題は数十年にわたってマスコミではタブーになっていましたが、暗殺事件を契機に一気に解放されました。この動きがどこに向かってゆくかは注目していきたいと思います。
まだ残暑はありますが、涼しくなるにつれてさわやかな動きが出てきてほしいものです。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
今月27日には安倍晋三の国葬が行われるようですが、今からでも中止すべきではないでしょうか。国民の反対も多く、やるなら統一教会葬でやるべきという意見もあります。
統一教会の問題は数十年にわたってマスコミではタブーになっていましたが、暗殺事件を契機に一気に解放されました。この動きがどこに向かってゆくかは注目していきたいと思います。
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コメント一覧 (35)
家茂と和宮の不可解な死因 脚気衝心《かっけしょうしん》。侍医は同じか。同じ毒を盛ったか。
ところが、それからわずか四年後の慶応二年(一八六六)六月二十日、長州征伐の最中、家茂《いえもち》は二十一歳の若さで大阪城で夭折《ようせつ》してしまう。公表された死因は脚気衝心《かっけしょうしん》であるが、暗殺の噂もあった。
和宮は剃髪《ていはつ》して静寛院宮と号したが、家茂亡くして六か月後の十二月二五日、今度は孝明天皇が三六歳で崩御する。いったいなんのための政略だったのか。国はゆらぎ、幕府はきしみ、かつての許婚熾仁親王は征東大総督として軍をひきいて江戸へ攻め寄せてくる。
いつの間に朝敵となったのであろう。三二歳の和宮は、江戸城に逃げ帰った慶喜の助命嘆願に専心する。江戸市民が戦火に巻き込まれぬよう教諭を発し、江戸進撃中止の嘆願書を書く。江戸は戦火を免れ、天皇は江戸城を皇居としたが、和宮のむなしさを救うものはなかった。
capelaurig
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和宮と家茂の死因は時期も場所もちがうのに二人して脚気衝心。診断医は同じなのかな。岩倉、篤姫、慶喜達が疑われる。同じ毒を盛ったのか。
文芸雑誌の『群像』に一九七七年一月号から七八年三月号にかけて『和宮様御留』という小説が連載されました。そこで取り上げられたのが『和宮替玉説』です。
岩倉具視の意向を受けた京都所司代酒井忠義《さかいただあき》が公武合体のために和宮降嫁を急ぐのですが、第百二十代仁孝天皇の后妃のひとりであり和宮親子内親王の生母 勧行院(通称おすめ)が頑強に拒否します。何も知らされないで、少女フキが替玉、和宮に仕立てられて精神に動揺をきたしていくわけですが、その動揺と変調自体は、逃げるために作られたものかもしれません。そして、岩倉具視が仕立てた、髪の毛が淡く、いわゆる赤毛の、左手首のない和宮に取り替えられます。
有吉は、和宮が、その屋敷跡が現在の目白の学習院となった豪農新倉家の家の蔵で縊死《いし》したとの伝承を紹介し、その伝承が御留の本のストーリーに生かされたことがわかります。和宮はもともと東下せず、「フキ」が、板橋本陣で小説の上で宇多絵とされる、岩倉具視が因果を含めただろう、左手首のない新しい和宮にすり替わったとするのですが。いずれにせよ有吉の本は三人の和宮を想定しています。縊死したとする和宮は、伝承では本物の和宮としながら、「御留」で入れ替わった和宮「フキ」を想定していることに不徹底さが感じられます。また有吉は、増上寺の和宮の髪は赤毛であったが、家茂の内柩に収められていたのは緑の黒髪だったと記しています。
capelaurig
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「調査団宛の手紙」の主旨は、明治初年に「岩倉卿と祖母が主になって、小数の供まわりを従へ、御手回り品を取まとめ、和宮様を守護して京都へ向う途中、箱根山中で盗賊にあい(多分、浪人共)、宮を木陰か洞穴の様な所に(もちん御駕籠《かご》)おかくまいいたし、祖母も薙刀《なぎなた》を持って戦いはしたものの、道具類は取られ、家来の大方は斬られ、傷つき、やっと追いはらって岩倉卿と宮の所に来て見たところ、宮は外の様子で最早これまでと、お覚悟あってか、立派に自害してお果てなされた」ということです。それならば、明治二年二月二四日に明治天皇に会ったという和宮親子内親王とは、その面会の事実そのものが虚偽か、あるいは、殺されたであろう和宮の「替玉」であったのではないでしょうか。
大室寅之祐明治天皇は、江戸開城から半年を経た明治元年十月一三日、初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められました(東京奠都)
和宮が十一月一日に明治天皇と面会したという記録がありますが、天皇は御簾《みす》の外から顔を出して和宮と会見したのでしょうか。もしそうなら、和宮は明治天皇が偽物であることを見抜いていたはず。
capelaurig
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ここに登場するのは、「調査団宛の手紙」の老婆の指摘と同じ、岩倉具視です。この千両とか三千両とは、岩倉具視や伊藤博文が実行した孝明天皇暗殺と大室寅之佑すりかえに伴う「口止め料」ではないでしょうか。1月11日に天璋院篤姫を訪問し暇(いとま)乞いをし18日に東京を発った。 和宮の侍女であったという女性から、朝日新聞と調査団に奇怪な投書が舞い込んだ。明治初年の頃、和宮が岩倉具視《ともみ》と投書者の祖母に当たる宮の祐筆〈公文書や記録の作成を行う人〉に若干の供回りを連れて江戸から京都へ向かう途中、箱根山中で賊に遭い、防戦中に自害されたという内容であった。差出人が匿名であったこともあり、この投書は一笑に付されたようだ。しかし、正式な発掘調査報告書『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会)の本文中に「(昭和三十四年)三月○日、静寛院宮の臨終について朝日新聞社、および調査担当官に投書が来る」の一行が記録されている。
capelaurig
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岩倉具視の名前があがっていることが気になる。岩倉は和宮の降嫁を強引に進めた冷血な策謀家であり、孝明天皇密殺謀議の首魁と目される人物なのである。
capelaurig
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<第6章 浮島の怪猫>
【大正13年12月27日 綾部祥雲閣にて口述筆記】
(文中 アケハルの岩とは、明治の天皇制国家権力が想定されており、また
虎猫夫婦とは明治天皇のすり替え 大室寅之祐と皇后 一条美子とされる。)
波切丸は万波洋々たる湖面を、西南を指して、船舷に鼓を打ち乍ら、いともゆるやかに進んでいる。天気晴朗にして春の陽気漂ひ、或は白く或は黒く或は赤き翼を拡げた海鳥が、或は百羽、千羽と群をなし、怪しげな声を絞って中空を翔めぐり、或は波間に悠然として、浮きつ沈みつ、魚を漁っている。アンボイナは七八尺の大翼を拡げて一文字に空中滑走をやっている。その長閑さは天国の楽園に遊ぶの思いがあった。前方につき当ったハルの湖水第一の、岩のみを以って築かれた高山がある。国人は此の島山を称して浮島の峰と称へている。一名夜光の岩山ともいう。船は容赦もなく此の岩山の一浬許り手前迄進んで来た。船客は何れも此の岩島に向って、一斉に視線を投げ、此の島に関する古来の伝説や由緒について、口々に批評を試みている。
甲 『皆さま、御覧なさい。前方に雲を凌いで屹立している。あの岩島は、ハルの湖第一の高山で、いろいろの神秘を蔵している霊山ですよ。昔は夜光の岩山と云って、岩の頂辺に日月の如き光が輝き、月のない夜の航海には燈明台として尊重されたものです。あのスックと雲を抜出た山容の具合といひ、全山岩を以て固められた金剛不壊の容姿といひ、万古不動の霊山です。此の湖水を渡る者は此の山を見なくちゃ、湖水を渡ったといふ事が出来ないのです。』
capelaurig
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・フクシマが終わったふりの新増設 - 芒野
「新増設」の秀句
・核のゴミ処分もできず新増設 - 乾草
・核武装狙うその先自国民 - ふ64
・教団の名前を変えて新増設 - 金狼と月
・恐ろしや新増設の初期故障 - 原子力ガリレオ
・トリチウム海に流して良いものか - 平野幸男
「勇気」の特選
・国葬をやめる勇気持て岸田 - 乾草
「勇気」の秀句
・増やしたい勇気を持った裁判長 - 原子力ガリレオ
・新しい時代は口先だけ岸田 - ふ64
・原発は終わってないぞ福島へ - 平野幸男
・真実を言う気になるの勇気いる - 金狼と月
・勇気出せ縁切り今だ自民党 - 芒野
capelaurig
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乙 『成程文化は東漸するとかいひますから、文化風が吹いたのでせう。併し日月星辰何れも皆西へ西へ移って行くのに、あの岩山に限って、東へ移るとは少し天地の道理に反しているじゃありまぬか。浮草のやうに風に従って浮動する様な島ならば、何程岩で固めてあっても、何時沈没するかしれませぬから、うっかり近寄るこた出来ますまい』
甲 『あの山の頂きを御覧なさい。殆ど枯死せむとする様なひねくれた、ちっぽけな樹木が岩の空隙に僅かに命脈を保つているでせう。山高きが故に尊からず、樹木あるを以て尊しす・・・とかいって、何程高い山でも役に立たぬガラクタ岩で固められ、肝心の樹木がなくては、山の山たる資格はありますまい。せめて燈明台にでもなりや、山としての価値も保てるでせうが、大きな面積を占領して、何一つ芸能のない岩山ではサッパリ話しになりますまい。それも昔の様に暗夜を照し往来の船を守って安全に彼岸に達せしむる働きがあるのなれば、岩山も結構ですが、今日となっては最早無用の長物ですな。昔はあの山の頂きに特に目立って、仁王の如く直立している大岩石を、アケハルの岩と称へ、国の守り神様として、国民が尊敬していたのです。』
capelaurig
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乙 『何と、権威のある岩山じゃありませぬか。つまり此の湖面に傲然と突っ立って、あらゆる島々を睥睨し、こわ持てに持てているのですな』
capelaurig
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乙 『丸っ切り蛆蜒か、蛇蠍の様な恐ろしい厭らしい岩山ですな。なぜ天地の神さまは人民を愛する心より、湖上の大害物を除けて下さらぬのでせうか。あって益なく、なければ大変、自由自在の航海が出来て便利だのに、世の中は、神様と雖、或程度迄は自由にならないと見えますな』
甲 『何事も時節の力ですよ。金輪奈落の地底から突き出てをったといふ、あの大高の岩山が、僅かの風位に動揺して、東へ東へと流れ移る様になったのですから、最早其の根底はグラついているのでせう。一つレコ-ド破りの大地震で勃発したら、手もなく、湖底に沈んで了ふでせう。オ、アレアレ御覧なさい。頂上の夫婦岩が、何だか怪しく動き出したじゃありまぬか』
乙 『風も吹かないのに、千引の岩が自動するといふ道理もありますまい。舟が動くので岩が動くやうに見えるのでせう』
甲 『ナニ、さうではありますまい。舟が動いて岩が動くやうに見えるのなれば、浮島全部が動かねばなりますまい。他に散在している大小無数の島々も、同じ様に動かねばなりますまい。岩山の頂上に限って動き出すのは、ヤツパリ船の動揺の作用でもなければ、変視幻視の作用でもありますまい。キッと之は何かの前兆でせうよ』
乙 『さう承はれば、いかにも動いて居ります。あれあれ、そろそろ夫婦岩が頂きの方から下の方へ向って歩き初めたじゃありませぬか』
capelaurig
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かく話す内、波切丸は浮島の岩山の間近に進んだ。島の周囲は何となく波が高い。虎と見えた岩の変化は磯端に下って来た。よくよくみれば牛の様な虎猫である。虎猫は波切丸を目をいからして、睨み乍ら、逃げる如く湖面を渡って夫婦連れ、西方指して浮きつ沈みつ逃げて行く。俄に浮島は鳴動を始め、前後左右に、全山は揺れて来た。チクリチクリと山の量は小さくなり低くなり、半時許りの内に水面に其の影を没して了った。余り沈没の仕方が漸進的であったので、恐ろしき荒波も立たず、波切丸を前後左右に動揺する位ですんだ。一同の船客は此の光景を眺めて、何れも顔色青ざめ、不思議々々々と連呼するのみであった。此の時船底に横臥していた梅公宣伝使は船の少しく動揺せしに目を醒ましヒョロリヒョロリと甲板に上がって来た。さしもに有名な大高の岩山は跡形もなく水泡と消えていた。・・・・・
(浮島の怪猫、後半もあります。 続きの原文は愛善世界社 注釈付き文庫版をお読み下さい。 アマゾン、ジュンク堂書店などで取り扱っております。)
(文中の大黒主を天皇に読み替えたり、波切丸は船による1つの社会集団を意味したり、あの岩に限って、東へ移るのは天地の道理に反しているなど、大本信者の間で語り継がれています。)
capelaurig
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capelaurig
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capelaurig
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恋敵《こいがたき》和宮の夫家茂《いえもち》を殺《あや》めることになんのためらいもなかったはずだ。そして家定は女性であったと思う。さて場面は江戸城。和宮と天璋院篤姫の軋轢《あつれき》の場。篤姫と和宮は京都御所では周知の中、もし和宮が替玉であれば、篤姫は瞬時に見抜けたはずだ。京都御所には、幕末まで様々な公家屋敷がひしめいていて、禁門の変で焼失したが、今出川御門北に現在同志社大学が所在しており、篤姫がいた薩摩藩邸も幕末にはこの地域にあったとのこと。和宮も皇女ですから御所に出入りし篤姫のごく近くにいたはず。
生理的に日干しにされ続けた篤姫と匂やかな和宮。女性だった十三代将軍家定の組み合わせである。
capelaurig
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capelaurig
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家定は簡単な料理をしたり、カステラなどのお菓子作りが趣味だったと聞く。人に何かと振る舞うのも好きだった。
「大奥最後の日」をよんでどきっとしたのは「本つ根」の在(おわ)さぬという言葉だ。まさか事故で男根を失ったのでもなければ家定は女性だった。
家定は正室として鷹司政煕(たかつかさまさひろ)の娘・任(あつ)子や一条忠良の娘・秀(ひで)子を迎えたが、早世し、天璋院篤姫との間にも実子はなかつた。素直に家定は女性であり、表に立てない将軍だったのではないか。妻を体裁上迎えないわけにはいかないし、迎えた妻が秘密を漏らそうとするなら口封じをするしかない。当時の男の論理なのでしょうか。篤姫は家定が女性だと言い含められ、御台所になったのではないか。家定に愛情など湧くはずがない。また熾仁親王を終生愛しぬいた和宮は、霊界物語41巻の暗示によると家茂との男女の契《ちぎ》りを拒んでいた。家茂への愛情はつゆほどもなかった。当時の大奥は二人の女にとって愛情砂漠であったろう。一方主君や二人に仕える女たちの乱脈は進んだ。一橋慶喜が将軍として登場するまで。徳川家重にも女性だったという噂があるし。王仁三郎は武田信玄と上杉謙信の愛を語り、謙信が女性であることを示唆しているし、家の存続のため男子を残さなければならない将軍家などにおいてはさほど家定が女性であっても不思議ではない。篤姫と和宮、家定と家茂の関係など時代を読み解く鍵となるのではないか。
capelaurig
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和宮暗殺または替玉に岩倉具視はもちろん一条家がからんでいる。一条家は世襲親王家でなく摂関を出す藤原氏の五摂家だから権威は世襲親王家より低い。しかしもともと宮廷をコントロールする力を持ち、権力は絶大。そこには途方もない秘密が集まり、お金が集まるのは周知の権力の力学。特に血統を守るという意味では、いつの時代でも自分の一族・身内の中にすべてをしまい込むからさまざまなところから工作資金が入り込む。大きな秘密を抱えた一族ほど権力はふくれあがり、一族は崇《あが》められ、その懐の深さもまた尊敬される。熟達してくると人の秘密を引き受けることが「家」としての仕事のようになりかねない。
自分が深刻な秘密を持つということは、どうしても秘密を他人と共有することになる。多くの他人の秘密を抱えれば、その他人を時には支配できる。一族を支配したり、時には一国を支配したり。
特に維新の秘密を知った者は、殺されるか、謀略を図ったものの仲間になって、特権を享受することになる。一条家を含む五摂家とは摂政関白に任じ...られる家柄。近衛・九条・二条・一条・鷹司の五つの家である。藤原北家の良房が天皇の外祖父として人臣初の摂政に任官してから、その子孫の諸流のうち外戚の地位を得た者の間で摂政・関白の地位が継承されていったが、家定の正室として五摂家の中から、一条家、鷹司家の二人の娘が正室として迎えられ早世・あるいは暗殺されたのは、藤原氏が朝廷だけでなく幕府権力さえ狙っていたこと、そのあと薩摩の天璋院篤姫が正室におさまるのですが、薩摩といえばイエスズ会の影を感じざるを得ないのです。
capelaurig
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