講談社(学術文庫)版『日本の歴史』02「王権誕生」で寺沢薫氏は次のように述べています。
列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国から東遷したという言い方もできるかもしれない。しかし、それはイト倭国の権力中枢がそのまま東遷したのでもないし、まして東征などはありえない。
氏は「神武」という名前を注意深く避けていますが、明らかに神武東征伝説を念頭に置いています。私は本ブログで歴代天皇の漢風諡号の考察から、神武東征を1世紀後半と見てきましたが、あれはあくまで淡海三船の考証であり、史実は2世紀末と考えるようになりました。倭国大乱後の纏向遺跡の出現は神武伝説と直結しているように思われます。今後も考察する予定です。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
列島での権力中心地の移動という意味では、新生倭国の王都は結果的にイト国から東遷したという言い方もできるかもしれない。しかし、それはイト倭国の権力中枢がそのまま東遷したのでもないし、まして東征などはありえない。
氏は「神武」という名前を注意深く避けていますが、明らかに神武東征伝説を念頭に置いています。私は本ブログで歴代天皇の漢風諡号の考察から、神武東征を1世紀後半と見てきましたが、あれはあくまで淡海三船の考証であり、史実は2世紀末と考えるようになりました。倭国大乱後の纏向遺跡の出現は神武伝説と直結しているように思われます。今後も考察する予定です。
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コメント一覧 (20)
手がかりを求めて『有栖川宮熾仁親王行実《こうじつ》』や『有栖川宮熾仁親王日記』を探っても、かくかくたる事績ばかりで自殺にいたる影もない。
公式には、熾仁親王は日清戦争の勝利を目前とした広島大本営にあり、参謀総長の激務のなかで病を得、舞子別荘に退き療養のところ、マラリアチフスと判明、明治二十八年(1895)一月一五日に崩御したことになっている。六一歳。
熾仁親王と旭形亀太郎と赤十字 朝形は秘密を知りすぎた。
明治二十七年、日清戦争が勃発し、九月十七日、大本営を広島に進められるにあたり、明治天皇の生母中山一位の局《つぼね》は大阪に下られ、旭形亀太郎家に御一泊となり、玉鉾《たまほこ》大神に御参拝になった。このとき、有栖川宮、小松、北白川、伏見、久邇《くに》、賀陽《かや》の各宮家からは親電を寄せられたと言う。九月十五日に明治天皇が広島に入ることで、平壌《へいじょう》攻略戦で日本軍が勝利。そして明治二十七年の時の、参謀総長として広島大本営に入ったのは、有栖川宮熾仁親王。明治二十七~八年の戦役の間、旭形は広島に移り住んで大本営にご用を始める。したがって、旭形亀太郎は、有栖川宮熾仁親王を追うように広島に入っている。
大本営とは,明治二六(一八九三)年の勅令(天皇の命令)で制定された戦時下の天皇直属の最高統帥(軍隊を率いること)機関であり、そのおかれているところが首都ともいえるかもしれない。
capelaurig
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中山一位の局は、その真偽はともかく明治天皇の母とされている人物、その人が旭形家に泊まるとは、中山一位の局と明治天皇は生涯一度もあったことはないという。明治天皇が大室寅之佑であればそれは頷ける。
孝明天皇にとって旭形亀太郎は、『霊界物語』での白狐旭と白狐高倉・月日明神であるかのように見えてくる。旭形は、その記録の中でも、あえて有栖川宮熾仁親王との関係を秘匿した。秘密を守ること、それが月日明神としての役割だろう。これだけ密接な旭形と有栖川宮熾仁親王です。旭形はうすうす、熾仁親王の子として誕生した上田喜三郎、後の出口ヲーワニの存在を知っていたかもしれない。
広島には、日清戦争時の大本営を解除された後も、大正、昭和にかけさまざまな軍事施設が増強され、太平洋戦争末期には、西日本一円を管轄する第二総軍司令部が置かれていた。日本がポツダム宣言などで敗戦を受け入れら、日本で反乱が起こる導火線,その広島に原爆を落とすことによって、米国およびそれに通じた人たちは、日本が敗戦を巡って国体を護持し、そして内戦に陥るのを防ごうとした。自分たちの身の安全を図ろうとしたのではなかったのか。(日本の一番醜い日 鬼塚英昭)
ちなみに広島・ひろしまのひろ とは「火の固まり」を言霊学では示す。
capelaurig
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圧倒的な戦力差からロシア側の優位を誰もが思っていたが、キーウなどを直ちに占領し、傀儡政権を樹立するという目論見は打ち破られただけでなく。ロシア系の住民の保護に名目を変えた東部支配もあやうくなっている。
ロシア内部でのプーチン批判の声は現実化が伝えられる。ロシア側の撤退が最良の解決だが、それに向かっているのかどうかはまだ予測できないが、その条件に向かって進んでいることは確かである。
ロシアのウクライナ侵略は多くの問いをもたらした。中国は今後、どういう方向を取るのか、中国との関係をどのように考えればいいのか、という問いなどである。そこには中国がロシアのウクライナ侵攻で、ロシアを支持したこと、その政治形態(権力形態)が類似していること、つまりは専制形態であること、また、西欧的な民主主義に対抗的な民主主義(東方の民主主義とか、民主的な国際秩序)を提起することなどがある。さらに、ここには中国の台湾の併合が現実味を増したと思われることもある。中国の動向を分析し、中国との関係を明確にしなければという意識は強まったのである。
ロシアのウクライナ侵攻から日本のかつての中国大陸侵攻(侵略)を想起した。ロシアのウクライナ侵攻は歴史的には日本の中国大陸侵攻と類似しているし、そこから、ロシアのウクライナ侵攻が見えてくるものもある。これについては近現代史家の加藤陽子などの発言をみても明らかだと思う。日本の近代史の研究者たちのウクライナ戦争の発言で最もみるべきものがある。
capelaurig
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『祖父の見た日中戦争』は孫にあたる著者が祖父からの聞き書きであり、『祖父の戦争』として2005年に刊行されていたもの全面的改訂版である。著者はロシアのウクライナ侵攻をまえにして、「戦争のことを知りたい」という読者の欲求に応えたかったと言うが、この意図は十二分に満たしていると思う。
著者の母方の祖父が昭和18年の秋に出征し中国大陸で経験した戦争と軍隊生活の話である。時代も含めた戦争の話というよりは軍隊生活との話が中心になっている。戦争を構成する軍隊という存在がよく伝わる作品になっている。彼の出征した昭和18年は1943年であり、太平洋戦争の初戦の華々しい戦果も消えて戦争の重苦しさが浸透しはじめていた時期だった。この年にはいわゆる学徒出陣があり、日本はこの時期、アメリカとの戦争を展開していたが、中国大陸では満州事変以降のいわゆる15年戦争が継続していた。特に昭和12年、1937年に勃発した日支事変は泥沼化しつつあった。日本は上海への電撃作戦から南京攻略へと軍事作戦を展開していた、
南京虐殺のなどを起こした軍事行動である。日本は中国大陸を奥に向かって進撃したが、撤退を含めた中国軍の抵抗にてこずり始めていた。
capelaurig
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この時代には出征兵士は多くの人に見送られてあったし、彼も出征兵士の見送りをしてきたのであるが、彼の場合は夜半に出て秘密裏に中国大陸にわたるものだった。軍隊に入隊するところまでを送る出征見送りと、軍の現地への派遣には当然の違いはあるにしても。
この本では彼の幼年期や青春期の回想が初めのところに置かれている。昭和初期とは戦争に上り詰めて行った時代であり、1905年の満州事変にはじまる15年戦争の時代である。祖父は複数の優良企業を抱え事業展開をする父親のもとで旧制小田原中学―一高―帝大(東大)というエリートコースの学窓生活を送った。彼が一高在学中に日中戦争が勃発とあるから、彼は昭和十年代の初期に高校-大学の生活を送った。そこでは初期といっても大正末から昭和の初めと昭和10年前後の学生生活には大きな違いがあった。
偶然のことで昭和の初めに旧制の一高の学生だったという人と知り合い、多くの話を聞いたことがある。この人は昭和の初めに旧制一高に入り、1930年に左翼運動に関係して放校になるのだが、この時代には左翼が全盛期であり、学生は社会の動きに激しく抵抗していた。この昭和の初めに全盛期にあった左翼運動は権力の厳しい弾圧と転向などもあって衰退していく。昭和10年前後には左翼運動は社会から姿を消していた。戦中派の思想家たちが戦争反対の運動などはどこにも見えなかったと言っていた。
capelaurig
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「そうやなあ。夢をみての。宮さまがお腹をめされる夢を……」昭和四八年一月十一日、熾仁親王落胤の証を求めて、京都修学院に住む瀬尾謙一氏を訪ねた。元有栖川宮旧臣報恩会の会長である瀬尾氏は、さすがにやわらかい語り口のなかにぴりっとした一線を引いている。
「私の家は代々有栖川宮家にお仕えしています。現代のように履歴書一枚で雇用関係が成り立つのではなく、世襲制でした。いざというときは切腹を仰せつかることもある。お手打ちだってあり得る。命をかけた仕事として主従は不思議な因縁で結ばれているのです。そういう話(王仁三郎落胤説)があったことは知っていましたが、だれも口に出した者はいない。代々仕えてきた者たちに迷惑がかかるという、狭くて頑固な考え方があることをわかってほしいと思います……」。
打ち解けた二時間ほどの話のなかで、「和宮の左手首」という言葉を発した途端、それをさえぎるように、瀬尾氏は凛《りん》としてこう語った。
「しかし、父は子のために隠し、子は父のために隠す、これわが家のチョク(直・勅?)なり、という言葉があります。私は何でもかでも実際はどうだったんだと調べることがはたしてよいことなのか、考えてみなければいけないと思います……」
毅然とした瀬尾氏の言葉に、この現代においても、いまなお越えてはならないある一線が厳として存在することを思い知らされるとともに、ますます不可解な思いにとらわれたのだ。〈それにしても落胤説が事実でなければ瀬尾氏は一言の下に否定できたはず〉
capelaurig
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熾仁親王の母可那は王仁三郎の生誕地穴太宮垣内のほぼ隣村といっていいような佐伯であり、稗田野町佐伯には稗田阿礼の出生地稗田の神社がある。この一帯が王仁三郎の幼少時の故郷である。
熾仁親王は母の故郷に通わぬわけはない。伏見の船宿だけでなく、足を延ばして佐伯、五分も歩けば上田家の土地天川に至る。穴太宮垣内まで秘密裏に尋ねたとしても何の不思議もない。何しろ有栖川宮家の侍医中村孝道は、王仁三郎の曽祖父でもあり、その縁で熾仁と世祢は会わせられたのだから。
三四歳の独身である熾仁親王がここまで独身を守り縁談を退けたのは、皇女和宮と結ばれることを夢見、和宮に操を立てようとしたからだ。
逆に母加那の里の女、世祢と中村孝道を介して知り合い、恋に落ちたのは、和宮と結ばれるという二人の思いを断念したからなのだ。いや、和宮がすでに箱根山中で殺されたことを有栖川宮家・和宮家に出入りしていた筆の行商且つ密使、八木清之助を通して知ってしまったからだ。密使といえば王仁三郎の曽祖父中村孝道も幕府や朝廷、貴族の間を結ぶ密使だったろう。旭型亀太郎もしかり。父も家臣も暗黙のうちに、熾仁の恋を見守っている。
「東上せよ」との太政官からの命令が来た。今度は背くことはできない。自分の命はどうなってもいいが、自分の力で守ることのできるものがあれば守らねばならぬ。
熾仁はあわただしい別れを告げた。「わが恋は深山の奥の草なれやしげさまされど知る人ぞなき」
capelaurig
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祖父が入隊したのは1943年の秋で、東部十二部隊でこの部隊は、もともとは近衛兵であった。家柄のある家系の長男や学歴の高い者が多く集められていたが、戦況悪化のために近衛兵という身分ははがされ、補充兵として前線に送られることになった。補充兵は戦死者の穴埋めの部隊で南方に送られると噂されたが、派遣されたのは北支だった。
袁州(北支)の第三十二師団に属することになった。この部隊は「楓部隊」と呼ばれていた。軍隊が市民的組織の自由さを欠いた、規律の厳しい組織であることがその要因と考えられなくはないが、市民社会とは違う環境に入るためだ。馴染むようになっていた心身の対応ができないためだ。新しい環境に心身が対応できず、環境に適合しえないし、不安となる。対象に馴染むことで、対象との関係を繰り返すことで、心身は対象(環境)を心身化していくがそれには時間がかかる。
capelaurig
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capelaurig
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その矛盾をこの祖父は上官の制裁(リンチ)事件として伝えている。こういった軍律を絶対化するために、これに権威と権力を導入する必要がでてくる。上官と兵は命令と隷属を支配と服従をしいる権力関係なのである。軍の内部で上官と兵の間に絶対的関係が成り立つためには、国家と成員の間に絶対的関係がなければならない。軍隊の内部で専制的な関係があり、国家と成員の関係が自由で民主的な関係だということはあり得ない。
軍は国家組織としてあるのだから、国家組織の原則から離れた関係が軍の組織関係としてあることは矛盾だからである。上官と兵との関係は、国家と成員の関係から根拠づけられ、導かれるのである。当時、日本の軍隊は民主的な組織と称されていた。西欧では貴族などの上層が士官を占め兵は市民や労働者であるとされたからだ。しかし、軍隊内部の関係が民主的であるか、どうかは問われなかった。
capelaurig
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日本の軍隊に天皇の統治(国体)が不可避であったのは、軍の内部関係の理念的根拠としてそれが必要だったからだ。上官の命令は絶対的である、という軍律は日本軍隊の非合理性であり、矛盾だった。軍(上層)の暴走を生み出す。軍律の強化という軍の専制化であり、暴走を生み出してゆくのである。暴走は軍の組織の絶対化の結果である。それは部分的な正しさの不当な拡張であり、非合理性への拡大になる。この軍の暴走を押しとどめること、軍という権力の拡大を制限していくことが必要だった。自由を取り入れざるを得なかった近代国家と軍隊がそれを実現できなかった。プーチンの今回のウクライナ侵攻という暴走も同じである。
自由な活動は恣意的であり、規律ある軍の行動と対立すると考えられたのだ。命令を受け入れ、それに服従することは、隷属することであり、自由はそれと対立すると考えられたのである。自由が尊重され、自由が保障されることと、必要において上官の命令を受け入れ、服従することは矛盾しない。強制と服従はその不可避性の理解が大事であり、自由はその認識をもたらす。自発性というか、自由を抑圧して命令の受容があるというのは人間の行動にたいする認識が浅薄なのだ。これは暴力的な行為を伴っての軍事行動の限界の認識にも関わる。
capelaurig
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