漢風諡号に「神」の字がある天皇は神武、崇神、応神の三人しかいません。他に応神の母である神功皇后もいますが、『日本書紀』による応神の没年(310年)と『古事記』による崇神の没年(318年。258年説もある)が近いことに気付きました。
これから類推して、『日本書紀』による神功の摂政元年(201年)が真実の神武即位年に近いのかもしれません。それなら『日本書紀』の神功・応神の時代(201~310年)は神武~崇神の時代に近いことになります。
私は以前、綏靖・安寧・懿徳の諡号からもっと古い時代を考えていましたが、こちらの考えの方が分かりやすく、淡海三船が意識していた可能性が高いように思われます。
お読み頂き、ありがとうございますm(_ _)m
これから類推して、『日本書紀』による神功の摂政元年(201年)が真実の神武即位年に近いのかもしれません。それなら『日本書紀』の神功・応神の時代(201~310年)は神武~崇神の時代に近いことになります。
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コメント一覧 (46)
●北朝男子の一粒の種を丹波に残させた宇能の戸籍操作
詳細は「誰も知らなかった日本史」を参照してほしい。
白綸子《しろりんず》の小袖、目釘脇に菊の紋を刻した白木の短刀、巾着《きんちゃく》がよねの手に残された。
明治二年(一八六九)年十一月一日、熾仁が東京へ去ってから、よねはつわりに気づいた。「有栖川のみ子は男なら殺される」そんな友らのささやきにおびえて、丹波の里へ逃げるように帰ってきた。母・宇能はすぐさま世祢に婿を迎え(明治三年一月)、七ヶ月児といつわってまるまるとした男児を産ませる。そして、熾仁親王の痕跡をくらまし、孫を安全地帯におくために、明治三年の出生を一年繰り下げて届けた。わが国初の壬申戸籍は明治五年二月一日施行だから、だれも宇能の計らいに気づくものはいなかった。
この一年があったればこそ、有栖川のただ一粒の種が残った。北朝男子の種は、人知れずがこの丹波の野に育つのだ。
明治二十二年二月十一日、宮内省達第二号で皇族列次が定まる。
「皇位継承第一位有栖川宮熾仁親王」
capelaurig
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●悲劇の皇女和宮は口封じに殺された?
『明治天皇紀』によれば、孝明天皇の崩御は慶応二年(一八六六)十二月二五日であるが、年明けてまもない慶応三年正月十日には、「先帝に侍したる典侍《ないし》、掌侍《ないしのじょう》等にその勤士の年数に応じて各々金千両以上を支給し、相応の家に嫁《か》せしめた」とある。ずいぶん手回しのいい話である。
睦仁を知っている女官に口止め料千両とよい嫁ぎ先を確保し、追いだしたのである。そして朝廷はさっさと千年の都を捨て、秘密を知る者もない新天地東京へと移動した。この時代、天皇と接触するものはごく少数の側近だけだったから、その口さえ封じればとりあえずは可能だった。
公卿たちにしても、ようやく倒幕なったいま、余分な詮索をして再び「公家諸法度」で縛られる身になるよりは、積極的に新政府に協力して地位を確保したほうが得である。
熾仁にしても、いまさら引き返すには、事ここに至った事情を知りすぎ、深入りしすぎていた。本当に欺瞞を暴露するのであれば、自らが玉《ぎょく》として立たねばならず、そうなればせっかく平和になった日本を再び内戦に突入させることになる。それこそ南北朝時代に逆戻りであり、もともと権力欲のない熾仁にはこれ以上の流血を引き受けるだけの度胸はなかった。
capelaurig
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明治二年、和宮が江戸城に参内したという記録がある。まだ宮廷が西欧式になる以前である。伯母といえども臣籍に降嫁した身であるから、天皇は御簾の奥から形式的に対応して事なきを得たかもしれない。西欧式の皇帝として売りだし、国民に御真影を頒布し、天皇が御簾から出てくる段階になると、そうはいかない。
あるいはすでに和宮は、女の直感で不審に思い、真相を究明しようとしていたのかもしれない。明治四、五年ごろのことなのか、あるいは明治十年のことなのか。とにかく、孝明、睦仁を暗殺したグループが和宮に狙いを定めた。西南戦争で、熾仁親王は大総督としてかつて共に戦った西郷隆盛を追い詰めていく。東京を留守に……。八木清之助は胸騒ぎを感じた。和宮様が危ない。
清之助は、江戸が東京となったころ、故郷へ帰り、隣村から妻・古松をめとり、三女にも恵まれた。そのころから筆の行商を始めた。清之助が最初に中間奉公にあがった宮家とは、おそらく有栖川宮家であろう。有柄川流書道は代々皇族華族に浸透していたから、清之助の商いもその関係で始めたものにちがいない。
capelaurig
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ウクライナ戦争で伝ええられるロシア軍の弱さもこのことと深く関係していると思った。ロシア軍の士気の低さや弱さはロシアのプーチンの権力体制に根本があるのだが、それはロシアの軍隊の内部構造に自由の抑圧が強くあり、兵士たちの自発性や自由が発揮できない構造にあるためだと思う。これはロシアの政治や社会の反映であり、かつての日本の軍隊が当時の政治や社会に規定づけられているのと同じである。ウクライナ軍は戦争を強いられ、隷属の要求に対して抵抗するという自発性がロシアの軍隊よりは強い要因なっている。この戦争が思わぬ形で明るみにしたことであるが、このことはかつて日中戦争における日本の軍隊の実態を浮かあがらせる。日本が太平洋戦争でアメリカだけではなく、中国でも敗北したことは総括しないできたことだが、これは軍隊の構造からでも発見できることである。
capelaurig
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特選
・原発からアベカルトからアメリカから - ふ64
秀句
・協会と決別さけたい自民党 - まごじい
・自民党決別したぞ表向き - 海の民
・決別の決意新たにアベ国葬 - 芒野
・政治金決別できぬ与党達 - 金狼と月
・原発の決別のばすもうちょっと - 原子力ガリレオ
「あたりまえ」
特選
・大人なら地球汚さぬあたりまえ - 芒野
秀句
・ガン多発フクシマ由来にしか見えぬ - ふ64
・想定外想定なしではあたりまえ - 原子力ガリレオ
・あたりまえそこにかくれたイレギュラー - 金狼と月
・ゴリ押しの魔法の言葉は「あたりまえ」 - まごじい
・核ありき国葬反対あたりまえ - 海の民
capelaurig
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民主主義にもいろいろとある。プーチンが西欧流ではない東方の民主主義だと言っても、彼の政治は強権的で専制的なものであり、彼の政治を誰も民主的ではない。頻繁に人殺しなどがある統治(政治)が民主的なものであるはずはない。じゃあ民主主義って何なんなのだというと以外にわかりにくい。国民主権とかいろいろの言葉があるが、国家統治の方法であり、様式である。国家を統治する、国家の意思決定をなす方法である。国家の意思を決めていく方法のことである。国民主権とか自由な意思決定において国家意思が決められていくというものであり、「議論による統治」ということである。過程(手続き)が民主主義というのはこの討議の過程ことであり、この手続を経て意思の決定(合意)なされるということである。民主主義を多数決による決定の原理というように教えられてきた。独裁者の意思決定に対してのことという面を表しているが、どうしても意思決定を行わなければならない時の方法であり、多数決による決定が民主主義ではない。国民の意思や意思の自由な発言が「議論」という形で展開されていくこと、そういう方法での意思の決定(合意形成)が民主主義である。逆にいえば意思決定が「議論」を経ずに決定されていくことが非民主主義なのである。この場合に権力なり、支配共同体にあるものが国家の意思を決めていくことであり、国家の成員はそれに隷属していくのである。
capelaurig
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安倍は民主主義者であると自認していたが、その政治的態度、あるいは政治的手法は「議論」を経て、あるいは「議論を持って意思決定とするというものではなかった。彼の祖父の岸信介が1960の安保批准において警官を導入に反対派暴力的に排状した強行採決は非民主的な行為として国民的な非難を浴びたが、非民主的な独裁的政治と言われ、独裁政治として批判された。安倍は祖父たる岸のこのときの政治手法を踏襲し、強行採決を常套手段としてとってきた。「議論による統治、つまりは意思決定」を頭から無視していたのだ。議会軽視というが、議会が「討議による統治(意思決定)」の場としてあること、それが国民主権や自由な意思の発現の場(歴史的形態)であることを考えてもいなかった。
オリンピック委員会で森喜郎が議論について述べ反発をかった。議論は翼賛的なものか、形式上の必要事に過ぎない。安倍は自分を「闘う政治家」と称していた。政治的に闘うとは議論できることである。強権的、専制的政治家がとる方法で、彼は「議論をできない」というコンプレックスを解決しょうとしていた。日本の近代では議論を根底に据えるという政党政治は育たなかった。天皇の統治という政治の支配的時期が長く続いたから、文化も含めて議論による統治(政治)は困難なことだったにしても、安倍はそのことに自覚する政治家だった。
capelaurig
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博経親王は、皇女和宮から見て、兄である孝明天皇の子、すなわち甥であり、和宮の夫君である徳川家茂の子、義理の子供であったわけです。
南部郁子と博経親王の間に生まれたとされる博厚親王です。伊藤博文は、口止め料として爵位を乱発したといわれますが、宮号も乱発したのでしょうか、伏見宮邦家親王は、十七人の王子と十五人の王女がいます。その十二王子である博経親王にまで宮家の創設を許しているのですが、この宮家は本来一代限りで、博厚親王は臣籍降下するはずでした。明治天皇の思し召しで皇族の身分を保ち、明治十六年明治天皇猶子となり親王宣下を受けるが即日薨去します。
破格の待遇は、裏を返せば、それだけ握っている秘密が大きいことを示すのではないかと思います。当時、すべてが白日のもとにさらされたならば、日本には、「玉」である天皇が乱立し、それぞれに外国勢力がついて、内戦がとめどもなく広がり、日本が分割統治されたかもしれません。
capelaurig
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明治九年には、孝明天皇とその妻、和宮、徳川家茂の系譜を猶子として担う博経親王は、薨去してしまいます。これで維新の元勲たちによる口止めは完了したのでしょうか。
和宮は明治二年以降も京都に在住し、明治七年(一八七四)七月に東京に戻り、麻布市兵衛町(現・港区六本木一丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになります。しかしこの頃より脚気を患い、明治十年(一八七七年)八月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった。
和宮と天璋院との確執は、本来二人は天敵のような存在であり、和宮は江戸でも御簾の中に入り人に姿を見せず、そのためか入浴も月に一度くらいだったとする伝聞もあります。もし幅広い交流をするような女性であれば、真っ先に有栖川宮の姻戚との交流があったはずです。
capelaurig
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島津重豪薩摩藩主の曾孫が島津斉彬であり、その養女が天璋院篤姫なのです。島津家と天璋院、南部家は親せき同士であり、東京へ越した皇女和宮の替玉、南部郁子が姉妹の義父である南部信順の屋敷に居住することは当然です。天璋院と交流を持つのもまったく自然。宮家に入ることが生涯の念願だった南部郁子は、幸か不幸か、華頂宮に嫁いだものの夫君に死なれ、和宮として過ごすことになります。南部郁子はその親戚、南部信順の屋敷で過ごすことで、明治維新の秘密の保持を果たすことになります。
明治七年以降、東京に滞在した皇女和宮親子内親王が、南部郁子であることは、間違いのないことと考えます。
capelaurig
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彼は議会でまともに原発問題の討議を経ず経産省に再稼働などをやらせてきた。行政独裁とでもいうべき政治的態度で処理してきた。安倍は、議会は法案などの決議の必要事を得ればいいという考えで、強行採決を常套手段としてきた。立憲的な政治を否定してきた。閣議決定を議会での討議や合意形成よりも重視してきた。岸田は原発について、再稼働や新規建設な言いだしたのも安倍のやり方の踏襲である。新規建設といってそのための国民の合意をえる可能性があると考えているのか。
国会での討議による意思決定が民主政治であるが、そういう姿がそこには見られないためだ。国会(議会)は形式的に議決を必要とすることを満たすための形式的な場であり、それは形骸化してある。
近代の日本の政治の歴史において、憲政(憲法政治)が語られたことはある。立憲政治は何度も主張されたが、議論による統治(意思決定や合意形成)が存在したことはほとんどなかったのである(戦前の政党政治や天皇統治の歴史を振り返ってもそのことはいえる)。結局のところ天皇という権威による統治、それが国家意思であり、合意とは権威への隷属だということが優位だったのである。この型の統治、政治が支配的だったのである。
草の根まで天皇制が支配していると言われたが、これは権威に従属ということであり、自由の伝統とは対極的なものだ。
capelaurig
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安倍を銃撃した山上は精神鑑定ということで隔離され、彼の行動の真意は伝えられていない。山上は精神疾患者として彼の発言は葬られる。その意味では山上の世界を想像し映画にした足立正男は勇気のいるすぐれた行為をなした。いうなら、討議による統治(意思決定)は大きな言葉での政治【自由や民主主義】だが、これには小さな言葉での政治【自由や民主主義】が裾野として存在しなければならない。
直接民主主義を旗印にした全共闘運動はそういうものの一つだった。長い射程で考えればこの考えは今も変わらない。
民主党による政権交代があり、その政権があっけなく、敗退したとき、民主党政権は院外の大衆運動を自己の政治力として生かせないところに弱点を見ていた。沖縄の辺野古基地移設問題も原発問題も、官僚との闘いで民主党政権が敗退していくのは大衆運動と連携できなかったからである。
議論による統治を担える政党としての力が民主党にはないことが分かった。民主党が党内で議論し政策の一致を持ってないこともさることながら、党内での論議が十全で政治力を持つというには遠い存在だということを知った。日本では自由や民主主義とは不在であり、空白であり、未来からの視線であるにすぎないが、それはだから依然として革命の課題である。戦後民主主義だって別段守るべきものでもない、賭けるべきものではない。戦後民主主義をまもるよりも民主主義の主体を創り出していくことが肝心なのだ。
capelaurig
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「和宮は座棺ばかりの墓地の中で唯一、寝棺で葬られていた。朽ち果てた三重の木棺の床に敷きつめられた石灰の下に、期待された副葬品はなかった。ほかの墓に数々見られたような服飾、装具はなにひとつ得られず、かすかに足元に絹の細片が散っていただけの淋しさである……」。京都から江戸に降嫁するときに、お迎えの者など二十万の行列を得た皇女和宮が、いくら明治に時代が変わったといえども、病死し、皆から葬られる時に副葬品ひとつないことはありえない。暗殺されたからこそ、遺骨だけ江戸に届けられ、増上寺に葬られた。だから和宮から「家茂の傍に葬ってほしい」の遺言はなかったはず。家茂が亡くなったのが1866年。和宮の薨去は1869年1月20日頃、王仁三郎受胎はおよそ1869年9月26日。寝棺にガラス版を入れたのは、側近でしょうが、そのような小さなものを唯一、和宮の居住地から探し出して棺に入れることは考えにくい。ガラス板は、京都へ行くときに持っていったものでしょう。有栖川宮が明治元年十月二五日に帰洛し、その有栖川宮に逢いに行ったと考えると、その場所に徳川家茂のガラス板を持っていくのはふさわしくない。増上寺の、和宮の寝棺の中の遺品となる、和宮の両腕の間に抱きしめていた小さなガラス板は、当然有栖川宮熾仁親王の姿を写していた。
皇女和宮薨去が、有栖川宮熾仁親王と上田世祢の逢瀬につながり、出口王仁三郎聖師の出生につながるのです。
capelaurig
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皇女和宮の公式記録では、明治十年九月二日に、和宮が薨去されたことになっている。大がかりな葬式が行われ、ご遺体の改めも行われたはず。そのご遺体自体も替玉であったのか。
小坂家で発見されたという、皇女和宮の写真について、どういう経緯で撮影されたことになっているのか記録は残っていない。もう少し説得力が欲しい。
和宮を密葬した阿弥陀寺水野和上の証言がある。
皇女和宮は『調査団宛の手紙』の老婆の指摘では、明治初年に箱根山中に暗殺され、公式記録では、明治十年九月二日に箱根塔ノ沢で薨去されたことになっている。その和宮の密葬をされた箱根阿育王《アショーカ》山阿弥陀寺のホームページ上で、第三八世和上、水野賢世が和宮について記載しています。
capelaurig
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自由と民主主義とは何かを認識し、それを運動として展開できる存在が主体である。問題が分かれば問題の半ばの解決だと言ったのはレーニンだが、問題が分かるとは現在において自由と民主主義とは何かが分かることである。自由や民主主義は言葉としては過剰に流通しているが、内容としては曖昧でということが現在の問題なのだ。
安倍政治が何であり、その非民主主義とは何かはわかりやすそうでなかなかわからない。国葬批判を通して安倍政治が何であったかを明瞭にすることは重要なことである。かなり明確なはずのプーチンの強権的、専制的、非民主的な政治ですら、それを明瞭には批判できない部分がいる。それは自己の中で自由や民主主義に対する考えが曖昧であるためだ。つまり、プーチンや習近平の対応は自己の自由や民主主義をリトマス紙にかけるようなところがある。それは安倍の国葬批判の中で考えてきたことだ。
capelaurig
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和宮が生まれた時は、父仁孝天皇はこの世になく、和宮誕生間近の弘化三年一月二六日にお風邪がもとで病死なされている(御年四七歳)。御誕生後、七夜に当たる閏五月十六日に命名の儀が行われ、御兄帝により和宮と命名された。
和宮は六歳の時、有栖川宮家の長男熾仁親王(天保六年二月十九日生)と婚約、以来学問を有栖川宮家で学んだ。熾仁親王は十七歳、早婚の当時としては、そろそろ配偶者を迎える年頃でありながら六歳の婚約者は有難迷惑であったに違いないが、孝明天皇の妹ということで受け入れたと思われる。阿弥陀寺に和宮の書面が保存されているが、和宮の文字は実に流麗で美しい。和宮は熾仁の父幟仁親王から習字の手ほどきを受け、のちに熾仁親王より和歌を学んだのである。和宮は小柄でとても可愛らしい少女で、一メートル四三センチ、三四キロくらいだったとのこと。和宮は成長して十四歳を迎える頃、熾仁親王は二五歳の立派な大人であり、容姿もそれは立派な青年であった。その親王との婚礼を胸に描きながら、夢見がちの日々を過ごしていたある日、突如として沸き起こった「公武合体」。
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大老井伊直弼は早くから公武合体を望んでいた。こうして和睦を図る一方で、京都の反対を押し切ってアメリカと条約を結んだが、反対派が激昂すると彼らを次々と捕えて投獄していった。安政の大獄である。吉田松蔭、梅田雲浜、頼三樹三郎、橋本左内など、前途有為の人たちが犠牲になった。その後しばらくして、こんどは井伊直弼自身が水戸浪士らの凶刃にかかって桜田門外で果てたのであった。
井伊大老横死の後、老中 久世広周、安藤信正らの画策により、万延元年(一八六〇)四月、公武合体のため幕府から朝廷へ正式に徳川第十四代将軍家茂の妻として和宮の降嫁が願い出された。兄帝孝明天皇からこの話を告げられた和宮はどんなに驚いたことであろう。有栖川宮家への輿入《こしいれ》も年内には、と聞かされていた身には大変な衝撃であったはずである。
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SNSなどの動きは、自由や討議なき社会の伝統を変えていくのか勇気だけでなく想像力も必要です。映画は、もともと、作り手の創造力と観客の想像力の闘争の場として存在する。観て貰うことでしか存在しない。観客が面白いか面白くないかを決めるのは、私(足立正生)の想像力の境界を遥かに越えた観客の気分による判断だ。それは凄いし、怖い話だ。今回の作品の主人公は、私の想像を超える事件を実行した者だ。私も主人公が示した想像力に挑発され、喜んで対決することを選んだ。「これは面白い!」と言って貰えるものになったのか。私の決定権から一番遠い地点に答えが出るのを待つしかない。その分、ワクワクしながら上映出来るのを待っている。犯罪にどのように反応するのかは、その国家・社会・国民が、独裁主義・全体主義・民主主義のどれにより近いか、どこまで文明化をなし遂げているのかを示している。
capelaurig
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落ちて行く身を知りながら紅葉ばの 人なつかしくこがれこそすれ
大好きであった熾仁親王と別れて来た。その人の面影を想い、涙を流したことであろう。
十一月十四日に無事板橋の駅に到着、翌十五日江戸九段の清水邸に入られた。それから約一ヵ月後の十二月十一日に、それは素晴らしい行列で江戸城に入ったのである。
【皇女和宮=第十四代将軍徳川家茂へ御降嫁に際し中山道を通って江戸へ向かわれたが、その途中、信州の小坂家で休息された折、小坂家の写真師が撮影した日本唯一の和宮様の写真。ポジのガラス乾板で軍扇《ぐんせん》に収められている。これを複写したものを小坂家の小坂憲次さん(前衆議院議員)のご好意により、阿弥陀寺に寄進された。】
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自己に迫りくるような戦争が戦後世界の中では存在せずにあり、現実に起こる戦争は地域戦争という枠組みにあると思ってきたのだ、自己に迫りくるような世界戦争は抑止する枠組みがあるという意識が強かった。これは時間的な戦争の断絶ということと深く関連してあったのだが、この壁を破るような契機がロシアのウクライナ侵攻にはある。ただ、先に述べたように、これは一方では世界戦争に発展して行くことを抑止していく枠組みもあるという意識も残している。だが、戦争は他者の戦争だという意識を残しながら、自己の戦争ということに迫りはじめたという意識の変化を経験している。それが現在である。
著者はここのところを踏まえながら、時間的(歴史的)な断絶状態にある戦争の世界に踏み込む。これは未来のために、歴史(過去)を追跡するというよりは、未来の視線が過去を甦らせようとしていることだ。これは他者の戦争を自己の戦争ということの隙間を埋めよという未来からの視線であり、現実の空白に対する未来からの働きかけともいえるだろう。著者がとっているのは政治的言説ではなく文学者の戦争についての言説を追うという方法である。彼の言葉で言えば大きい言葉での戦争ではなく、小さな言葉での戦争の言及だが、この試みは成功していると言える。
capelaurig
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